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小説『超純水みたいに』


     一、
 
 血の気が引くって、こういうことを言うんだろうな……。銀座通りを西に向かって歩く。ちゃんと歩いている。しかし、ほんとは歩道にへたり込んで頭を抱えたくなる気分だ。向こうから男が歩いて来る。背の高い、人生で成功した男。俺のバーの客だ。軽く会釈する。向こうは気が付かない。俺が変わってしまったからだ。この数カ月の間に、すっかり老け込んだ。
 俺の名は川辺正義という。俺のバーを兼ねた小さなビストロ。潰してしまった。あとにはなにも残らなかった。さっき、自己破産弁護士との最後の会見をしてきたところだ。……ブルーの高級外車が走り過ぎる。さすが銀座通りだ。俺の車は売ってしまった。マンションも売って、ボロいアパートを借りた。持ち物もほとんど売るか捨ててしまった。
 道路に沿って植えられた木が俺に手招いている。季節はこれからだんだんと春になるところだ。まだ風は冷たい。よかった。これがもしこれから冬になるのだったら、さらに状況は耐え難いだろう。
 手が冷たくて、ポケットに手を入れた途端に電話が震える。耕二だ。心配して掛けてくれた。……話ができない。心労で俺の息が浅い。俺は出なかった。耕二は小学生の時からの親友だ。耕二に金を借りなくてよかった。もっとも安サラリーマンの彼に大した金はない。
 
 電車に乗る。先週、精神科医が言ったことを思い出す。
「自分ではどうにもならないことを考えるのは止めるんだ」
車内には春になりかけらしく、軽装の若者があふれている。俺は五十六才だ。若さがうらやましい。とてつもなく。決して戻って来ない若さ。ほらまた、自分ではどうにもならないことを考えている。過去なんだ。過去は戻って来ない。店がダメになってから、白髪が増えた。しわも増えた。……老後の貯えもみんな使ってしまった。この年で、これから俺にどんな仕事ができるんだろう? どれだけ長く働かなくてはならないのだろう?
 電車が揺れる。俺は吊り革では自分を支えきれなくて、ドアの側に移動する。壁に身体を押し付ける。しっかりとした棒につかまる。また血の気の引くような感じがする。軽い息苦しさをおぼえる。十年、自分で店を経営した。これから人に使われるんじゃたまらない。しかし、選択の余地はない。また俺は自分ではどうにもならないことを考えてる? そうかな? そうでもない。俺は将来のことを考えていた。過去ではない。どうにもならないことはいつも過去で、未来ではない。暗い未来でも。
 
 電車を乗り換える。今まで縁のなかった下町のローカル線だ。次の電車が来るまで、まだ十五分もある。自己破産することになってから、俺は待つのが苦手になった。なかなか時間が経たない。じっとしてられなくて、ホームをうろうろ歩き回る。医者によると、それはアカシジアという症状らしい。足がむずむずして、落ち着いて座っていられない。抗精神病薬の量が多過ぎたんだな、と医者は言う。
 俺には双極性障害がある。昔で言うところの躁うつ病だ。上がったり下がったり……。症状が安定していたから、過去五年は病院に行っていなかった。急に悪化して躁状態になり、潰れかけた店に、財産を全て使ってしまった。すぐ上向きになると思っていた。不安は全くなかった。それがこの病気の特徴だ。双極性障害の地獄。どうしてあんなことをしてしまったのか? 誰の止める言葉も聞き入れなかった。
 伊純[いずみ]の言うことも聞かなかった。彼女はもう俺の側にはいない。全財産を失ってしまった男に魅力はないのだろう。女は正直だ。伊純は俺の店に来て、働きたいと言った。ワインに詳しいので俺は雇った。五才年下だった。俺は最初から彼女に女としての魅力を感じていた。
 
 また過去のことを考えている……。電車が来ない。遂に俺は立ち止まって、駅の時計をじっと睨みつけた。耕二から電話が掛かって来る。今度は俺はそれに出る。
「電車にでも飛び込んだかと思った」
こんな時に上等な冗談だ。
「電車はまだ来ない」
「飛び込むなよ」
 すると電車の来る轟音が近付いて来る。俺は電話を切る。埃の舞う中に黒い犬が見えるような気がしていた。細長い尻尾が巻いている。……死ぬ気はない。うつの気分はない。薬が効いてきたからだろうか? 深い後悔と焦燥感がある。
 電車の中にはまた若者がいっぱいだ。当たり前だが年寄りもいる。ただ俺には若者達だけが目に付く。戻って来ない若さ。狂ったような羨望感。
 
 俺は耕二の住んでいる近くにアパートを借りた。孤独が怖くて、わざとそうした。自己破産の手続きが全て終わった報告に行こう。一人でアパートにいてもなにもすることはない。玄関に立つ。
「奥さん、お邪魔します」
ここ数週間の厄介事は、この夫婦の励ましなしではどうにもならなかった。俺は頭を深々と下げた。
「なにもかも無くしました」
「なに言ってんの。身体は丈夫なんだし」
 奥さんは、大企業の経理で働いていて、耕二より稼ぎがいい。そのことが頭をよぎる。羨ましいという感情が起こる。しかし俺には経理なんてつまらなそうな仕事はどっち道できない。俺はもう一生金には縁がないのだろうか? 奥さんが俺の古びたコートをハンガーに掛けてくれる。お気に入りだったベージュのカシミアのコートは売ってしまった。いくらにもならなかったけど、贅沢品を持つことに疲れていた。見ていたくなかった。
「いい仕事、きっと見付かるわよ」
「俺はもうダメです。もう若くない」
「若い時できたんなら、今だってきっとできるわ」
奥さんはいつもこんな風に楽天的だ。
 耕二がビールを出して来てくれる。俺はもう酒は止めたから、そう言って断る。
「お前、マジで止めたんだな」
奥さんも感心する。
「正義さん、そうやって意志の強いところがあるのよね。ビールじゃなかったらなにがいい?」
「お茶、いただきます」
俺は小声で言った。耕二は一人でビールを飲み始めた。彼は俺より細くて背が高い。身体は俺の方が、ガッチリしている。お茶をいれに行った奥さんのラズベリー色のカーディガンを目で追った。この二人の娘は、嫁に行って隣の県に住んでいる。
 俺はどうしても順調に人生を歩んできたこの夫婦のことが羨ましくなる。俺はいつもおもしろおかしく人生を歩んできた。若い時は水商売をしながら劇団に所属し、遂に水商売の方が本業になって、自分の店を持ったが、ダメにしてしまった。もともと貯金も普通のサラリーマンと比べたらお話にならないほど少なかった。だが、店はやりがいがあった。贅沢なマンションや車も持っていた。
 まるでアリとキリギリスだ。小学生の頃から仲のいい耕二。彼がアリで、俺がキリギリス。そしてキリギリスはなにもかも無くし、途方に暮れている。俺の老後はどのくらい貧しいものになるのだろうか?
 
 アパートに帰った。狭いリビングに、ベッドルーム。そして古ぼけて所々変色したユニットバス。持っていた物のほとんどは処分してしまった。明日から仕事探しを始めなければ。いつも座る時に軋む椅子に座った。薄汚れた壁や天井が目に入る。
 最近、時計をじっと見る癖がついてしまった。時間はなかなか経たない。それが辛くて、涙が出そうになる。今までなかなか泣けなかったから、この際、一生懸命泣こうと思ったけど、慣れてないから難しい。結局、鼻水が少し出ただけで終わった。もう泣いてない。
 ユニットバスの鏡で自分の顔を見た。五十六才の、自己破産した、女に逃げられた、俺の顔。ここの電気は明るくて、顔のしわや白髪がよく見える。ガッカリする。劇団にいた頃、縁があってテレビドラマに出演したこともある。電車の中でモデルをやらないか、と誘われたこともある。失われた過去が俺をおびやかす。「自分ではどうにもならないことを考えることを止めるんだ」。そう言った俺の医者。次の予約はいつだったかな?
 職探しをする前に髪を切って、染めた方がいいだろうか? 俺の髪は今、耳が隠れるくらいの長さがある。明日、病院で紹介された、精神障害者のための職安に行くことになっている。そこで聞いてみよう。その人達はプロのはずだから、きっといいアドバイスをしてくれる。
 このアパートには一週間前から住んでいる。まだ慣れない。電気のスイッチがどこにあるのかまだ覚えられない。こんな所には女も連れ込めないな。いや、こういう貧乏な劇団崩れの、水商売崩れの男に惹かれる変な女もいるに違いない。そんなくだらないことを考えたのち、また金の無いことが心配になり始めた。今日一日感じていた、血の気が引くような感覚がする。恐怖。病気になったらどうしよう? って、もう病気か。俺の精神科医が、障害者手当がもらえないか聞いてくれるって言ってたな。でもそれだけじゃ暮らしてはいけないだろう。
 薬を飲んで早く寝よう。耕二の奥さんの言ったように、俺は身体は丈夫なんだから。ここ数カ月の泥沼で痩せてしまったけど。幸い料理は得意だから、しっかり食べてもっと健康になろう。
 俺は自己破産という、恐ろしい体験をした今日、震えと共に眠りについた。
 
 
     二、
 
 仕事はなかなか決まらない。もう探し始めてひと月になる。場末の飲み屋から、超高級ホテルのバーまで、色んな所で面接を受けた。一緒に面接を受ける連中は、いつも俺より二十才以上若い。落ちたと思う度に、家に帰って、しゃがみ込んで、心臓のあたりを抑える。息が苦しくなる。いつものように血の気が引く感じがする。この先どうすればいいのだろう?
 だが、毎日行ったことのない場所へ仕事を探しに行くと、なにか芝居めいた楽しさを感じることがある。劇団にいた頃、シナリオを書く勉強に学校へ通っていた。年を取った男の職探しはストーリーになる。白髪頭で、足を引きずって。またシナリオを書いてみようか? ……今は仕事を探すのが先決だ。
 シナリオ書きの学校へ通うなんて、今思えば金の無駄以外のなにものでもない。俺というキリギリスは、アリ達が一生懸命働いている間に、ああやって遊んでいたんだ。……止めよう。過去のことを考えるのは。しかし未来のことを考えるのは難しい。
 あと家賃の何か月分の金が残っているのだろう? 食費は? 仕事を探すにも交通費やら色々かかる。年老いたキリギリスは過去を懐かしんで、ある所へ向かう。
 
 伊純は三十代で離婚して子供はなく、両親と同じ家で暮らしている。俺の店が潰れると決まった時からほとんど口を利いていない。彼女は色々俺に進言をしてくれた。俺はそれを聞かなかった。馬鹿だった。彼女だって俺の店が無くなって失業したんだ。今はどうしているんだろう? 
 俺は彼女の家を何度か訪れたことがある。父親が酒好きで、招待された。彼は酔って、伊純がいないところで、娘をもらってやってくれないか、と頼まれたこともある。庭には花が咲くような、実のなるような、木々がぎゅうぎゅうになって植わっている。生垣から家の中をそっと覗く。
 街灯で照らされた通りを、伊純が歩いて来る。髪が少し伸びている。黒っぽいスーツを着ている。仕事は見付かったのだろうか? 彼女は全くの無表情で俺を見た。
「外で話しましょう」
彼女は俺を近くのカフェに誘導した。
 俺は近頃、焦燥感に悩まされるので、カフェインを止めた。だから他に頼むものもないから、心が落ち着くというカモミールティーを注文した。なにを話していいのか分からない。なにをしに来たのかも分からない。とりあえずこう聞いた。
「仕事は見付かった?」
「ええ、レストランで。高級で、ボトルのワインがメニューに載ってるような」
俺のことは聞かない。聞きたくないのだろう。俺達にも好き合って、彼女が俺の胸の上で感涙した夜もあったのだ。
 彼女は自分のことは少し話す。どんなメニューがあって、どんなワインが置いてあるレストランなのか。家から通うのにどのくらい時間がかかるのか。俺の目はほとんど見ない。もし俺の店がダメにならなかったら、今まで通りの関係でいられたのだろうか? ……また過去のことを考えている。今、この瞬間と、未来に、彼女が俺とよりを戻す気がないなら、過去のことを考える意味はない。あの時、彼女の忠告を聞いていたら。後悔が俺を揺さぶった。俺はいつまでも過去のことを考えて続けている。
 彼女が驚愕するようなことを言った。
「もし、私にもう近付かないって約束するなら、これだけあげる」
そう言って彼女は一万円札を三枚出した。俺は驚いて金を見た。俺はそれを受け取らなかった。もう一度、今晩俺が伊純に会いに来た理由を考えた。当たり前だが金の無心ではない。しかし、これで彼女が俺にもう興味がないということが分かった。俺は受け取らなかった金の礼を言って、彼女を残して表へ出た。
 
 仕事が見付からなくて二カ月が過ぎた。俺は自分が強くなっていくのを感じる。リクルートカットを少しファンシーにした髪型。白髪は綺麗に染めて、若返った。だが雇う方は、もっと若く、体力のある者を求めている。職安では、経験が豊富な人材を求めている会社もあるから、と慰めてくれる。知り合いに頭を下げて、仕事を紹介してもらう。飛び込みでレストランやバーに、雇ってくれないかと頼む。強くなった。どれだけ断られようと平気になった。俺は、「縁」という言葉の意味をよく考えるようになった。「縁」があれば雇ってもらえる。今、仕事がないのは、「縁」がないからだ。
 耕二が俺のアパートに遊びに来た。俺は伊純と会ったことを言った。彼になら俺はなんでも話せる。
「三万円ね。手切れ金か?」
「俺がアイツに付きまとうとでも思ってたのか?」
「忘れろ。どうせ向こうはお前のことなんてもう忘れてる」
 彼は奥さんが作った手料理を持って来てくれた。それを食べているうちに、俺は新たな後悔の念を感じた。俺は残りの人生を台無しにしてしまった。いつも泣きたいと思っても中途半端にしか泣けない。俺は立ち上がって鼻をかんだ。耕二はそれが俺の泣いてることだと知っている。
「いいか、お前は病気なんだぞ。倒産したのはお前の責任じゃない」
 アカシジアが出る。俺は部屋の中をグルグル動き回る。じっとしていられないという俺の病気の症状。俺はまた鼻をかむ。耕二がいなかったら、俺はどうなっていただろう。うつで入院していたんじゃないか? 焦燥感が高じて自殺とか。ろくなことになってないのは確かだ。またうろうろ歩き回る。耕二が鬱陶しいから止めろと言う。
「悪いな。止まらないんだ。薬の副作用だって」
 
 むき出しのクローゼットに、職探し用のアイロンのかかったシャツが三枚ある。これを着てまた面接に行く。耕二が意外な提案をする。
「お前、学校の先生なんてどうだ?」
「俺が先生? 俺になにを教えられるんだ?」
「バーテンだの、料理だの」
 俺はそんなことは考えてみたことがなかった。確かにバーテンダーの仕事については教えられるくらいの知識はある。それに料理だって。俺はパソコンを取り出して検索を始めた。バーテンダー・スクール。募集はないが、問い合わせをしてみる価値はありそうだ。
 耕二が持って来たビールを飲みながら言う。
「お前の、店を一軒潰した経験から、ビストロ・バーのビジネスについて教えられる」
「なんだそれ?」
俺は大声で笑った。久しぶりにすがすがしい気分になった。俺にもまだできそうな仕事がある。酒を止めたバーテンダーが、人にカクテルの作り方を教える。
 もっとアイディアを出してみたら、他にも俺にできそうな仕事があるかも知れない。久し振りに楽天的な気持ちになった。金の無い老後がなんだ。俺には友達がいる。耕二の他にも、心配して連絡を取ってくれた友人が何人もいる。こんな時は、誰がほんとの友人か分かる。伊純のように去って行く者もいる。身体は今のところ健康だ。雇ってくれる人さえいれば、まだこれからも働ける。
 
 朝、起きて、昨夜目星をつけておいたバーテンダー・スクールと料理学校に電話をしてみた。片っ端から掛けていくと、俺に会ってくれる、という人が見付かった。パートタイムだが、バーテンダーのクラスを教えてくれる先生を探しているそうだ。三日後、場所は渋谷だ。
 面接用のシャツとスーツを着込んで、学校に行く。規模は小さい。その松原という男性はそこの副学長をしているらしい。俺より少し若い。意外にも俺の店に来たことがあると言う。
「職業柄、参考のために、色んなトレンディーなバーに行きます。こないだ電話で店の名前を聞いた時、すぐ分かりましたよ。川辺さんの店は、気取りがなくて楽しい雰囲気ですね」
「店はもうないんです」
「それはどうして?」
彼はかなり驚いた。
「経営悪化で閉めました。しかしその経験を活かして、生徒にビジネスについて教えられると思うんです」
俺は耕二の冗談を思い出して言った。
 面接が終わって、俺は渋谷の街に出た。俺の店は銀座の裏通りだったから、滅多に渋谷には来ない。さっきの松原という人は、俺のことをどう思ったのだろうか? 俺は店では、劇団時代に身につけた、楽しいパフォーマンス見せる、という演出をしていた。酒瓶を空中に投げたり、酒を火で燃やしたり、手品まがいの、客をビックリさせるような。
 帰りに俺の通っている、精神障害者のための職安に寄ってみた。俺の担当者は、学校の面接に行ったと聞いて、とても喜んでくれた。面接の結果は分からないけど、俺にもまだ色んな可能性がある、ということが分かっただけでも嬉しかった。
 
 
     三、
 
 縁があったのだろう。俺は松原さんの学校で教えることになった。時間は少ない。だが、食費の足しくらいにはなる。小さな一歩だが社会復帰ができて、俺は心の中で子供みたいにスキップするほど嬉しかった。週四回二時間ずつ教える。教えるのは午前中だから、もしバーやレストランの仕事入っても多分影響はない。
 東京近郊には、どれだけのバーやレストランがあるのだろう? どうして俺には仕事がないのだろう? ユニットバスの中に入って鏡を見る。年を取ったという現実に、背筋が冷たく震える。眼の下のクマが酷い。頬が垂れている。目尻のしわ。また髪を染めなくては。前回は耕二が染めてくれた。二人で遊んでるみたいに楽しかった。液が垂れて、額や首の後ろが染まってしまった。ゴシゴシこすってやっと落とした。楽しかったけど、その後で、どうにもならない寂寥感に悩まされた。今度はいつ染めなくてはならないんだろう? 毎回、耕二の手を煩わすわけにはいかない。美容院に行く金はない。インターネットの動画で、自分で染める方法を観た。大変そうだが、やるしかないだろう。
 久し振りに、うつの気分になってきた。店が潰れた心労で白髪になったから、それまでも美容院で髪を染めたことがない。イケメン扱いされてきた俺の悲劇の末路だ。今度こそ涙が出るかな、と思ったけどやっぱり鼻をかんだだけで終わってしまった。
 バーテンダー・スクールで教えている時、生徒達の若さが羨ましくなる。彼らには輝かしい未来がある。でもどうだろう? 年を取るのは誰も同じだ。俺みたいに店を持って、いい年をして、それを廃業せざるを得ないなんてこともあるだろう。そう考えてもやはり羨ましさに変わりはない。
 なんで俺は泣けないんだろう? 最後に泣いたのはいつだろう? ボロい、狭い、なにもないアパートに住んで、どうして泣けないんだろう? 時計をじっと見る。これが癖になっている。もうすぐ夜の八時だ。時間がなかなか経たない。苦しい。部屋の中をグルグル動き回る。それもいつものことだ。
 
 電話が鳴っている。暗いベッドルームの方から鳴っている。俺は電気もつけずに、誰かも確かめずに、電話に出る。
「正義さん」
伊純だ。暗い部屋の中に彼女の声が響く。今まで何度も呼んだ、俺の名前を呼んでいる。挨拶もせずに、いきなり本題に入る。
「今働いている所のオーナーの知り合いが、バーテンダーと料理のできる人を探してるって」
俺は頭が混乱して、黙ってベッドに座る。向こうもしばらく黙っている。
「……名前は荒井さん。電話番号を教えるから」
俺は急いでリビングに行くと、紙とペンを探した。伊純は電話番号を言うと、また挨拶もせずに電話を切った。俺も急なことで、礼も言う機転も利かなかった。
 これはどういうことだろうか? どうして伊純が? 俺のことを疎ましく思っていたんじゃないのか? もちろん電話はする。藁をもすがる気持ちだ。仕事が見付かれば、俺の耐え難い焦燥感も軽くなる。時計を見た。八時というのはレストランにとって忙しい時間だ。明日にしようか? 考える。だが、明日まで待てない。俺の、はやる心がどうしても待てないと言っている。
 電話を掛ける。荒井さんを呼んでもらう。忙しければ明日にします、と付け加える。しかし、荒井さんはすぐ電話に出た。後ろから懐かしい厨房の喧騒が聞こえる。明後日、面接ということになった。
 最後に会った時の、伊純の姿が浮かぶ。彼女の家の庭木が思い出される。春の花の、もうすぐ開こうとしている木々……。俺に仕事を紹介してくれた。俺が思ってたように、もし彼女が俺のことを憎んでいたなら、そんなことはしないだろう。憐み? そうかも知れない。それとも俺と彼女が一緒だった時、きっと俺がなにかいいことをしたんだろう。なんだかは分からないけど。伊純にお礼の電話をしようかと思ったが、それは仕事が決まってからでもいいだろうと考えた。あれだけ俺と話をしたくない様子だったから。
 いつもの軋む椅子に座った。過去のことは考えたくない。だが、どうしても伊純のことを考えてしまう。彼女は俺を捨てたんだ……。医者が言うように、自分ではどうにもならないことを考えるのは止めよう。人の心は変えられない。
 
 その日、一人でいたくなくて、耕二の家に来ていた。彼はまたビールを飲んでいる。
「紹介もらってたんだろ?」
「ああ」
面接の日の二日後、断りのメールが来た。以来、打ちのめされたような気持が続いた。紹介されたということは、仕事を得たも同然だと思っていた。どういうことなのだろう? なにがいけなかったのか分からない。伊純には連絡していない。なんて言っていいのか分からないから。
 医者が障害者手当が出るように協力してくれている。うつの気分が強く、脳が酸欠になるような感じがする。ここ二週間、積極的に職探しをしていない。耕二が言う。
「区役所へ行って、生活保護の手続きをしろ。なんなら俺も行ってやる」
生活保護、と聞いてドキッとしたが、耕二が一緒ならそれほど恐ろしくはない。耕二はビールを飲みながら、パソコンで生活保護のことを調べている。
「多分、いけるぞ。お前には財産もなんにもないし、障害者で働けない」
「俺はまだ働ける」
「今は無理だ。職探しは少し休め」
まだバーテンダー・スクールからの僅かな収入は入って来る。
 耕二は嬉しそうだ。
「生活保護がもらえれば、しばらく学校で教えるだけでやっていける。職探しはそれからだ」
アリがキリギリスを慰めている。
「正義、明日行こう」
「明日?」
「学校、休みだろ? どうせ手続きがややこしくて一回じゃ終わらないから、早めに行動したほうがいいんだ。この、精神障害者保健福祉手帳とかいうの、持ってるか?」
ほろ酔い加減の耕二が、舌を噛みそうになりながら、その長い名前を読み上げる。
「医者が作ってくれている」
「じゃあ、そういう風に言おう。準備中だって」
 そんなに上手くいくんだろうか? 双極性障害で全財産を無くし、うつで職探しもままならない。確かに、かなり悲惨な状況ではある。
 
 区役所の窓口の女性は、年恰好が伊純に似てた。特に長めのおかっぱが似ている。
「大丈夫です。なにかしらの扶助は受けられますよ。まだ精神障害者保険福祉手帳がないので、正確には計算できませんが」
なんで、ただの手帳にあんな意味のない長い名前をつけるんだろう? 俺はクスっと笑ってしまった。耕二が俺の方を見る。女性が俺に聞く。
「来月の家賃や光熱費はありますか?」
「まだ大丈夫です」
「食費や諸経費は?」
「学校で働いているからまだ大丈夫です」
 俺と耕二は区役所を出た。
「よかったな。なんらかの扶助は受けられるって」
「ありがとう。君のお陰だ。俺一人じゃできなかった」
キリギリスはアリにお礼を言う。さっきの女性のせいで、なんとなく伊純のことを考える。どうして紹介してもらった所がダメだったんだろう? もともとあの荒井さんという人とは深い付き合いじゃなかったのかも知れない。どうしてそんな人を俺にわざわざ紹介したんだろう? ……過去のことだ。考えるのは止めよう。女のことなんて、いくら考えても理解不能だ。
 未来のことを考えよう。しばらく休んだら、また仕事探しを始めよう。なぜかそう思った途端、俺の貧しい老後のことが頭に浮かんだ。あと何年働けるんだろう? そもそも俺に仕事なんてあるのか?
 耕二と俺はしばらく黙ったまま歩く。区役所の前に大きな花壇がある。俺は自分の未来のことを悲観して、顔が蒼白になってるのを感じる。彼は時々俺の顔をチラッと見る。
「心配すんな。お前になにかあったら、俺達がみんなで助けてやる」
 鼻水が出そうになっている。俺はアリのことをずっと馬鹿にしてた。あんなにあくせく働いて。あんなつまらない仕事。俺の方が豪快な愉快な人生を送っていると思い込んでいた。ポケットに入っていたティッシュで鼻をかむ。そしたら涙が出て来た。本格的に泣くなんて、久し振りだ。
 昔、こんなことがあった。小学校の二年生の時。ブランコに座って漕いでいて、ふと、手を放して漕いだらどうなるのかな、って思って、馬鹿みたいに手を離した。そしたら後ろ向きにひっくり返って、頭をしこたま地面にぶつけた。俺は大声で泣き出し、耕二が保健室まで手を引いて連れて行ってくれた。
 俺は泣いている。区役所から出て来る人々が俺のことを見て振り返る。耕二はなんだか面白いものでも見るように俺の顔を覗き込む。……泣けてよかった。ずっと泣きたかったのに泣けなかった。二人で区役所の花壇の縁に腰を掛ける。オレンジや赤の元気な花だ。こんなに泣いてちゃ帰れない。せっかくだから、終わるまでしっかり泣こうと思った。耕二がふざけて俺の写真を撮っている。俺はかまわず泣いている。
「お前さ、科学の時間、超純水っていうの習ったの覚えてないか?」
俺は泣きながら答える。
「覚えてない」
「超絶の超に純粋な水、って書くんだ。不純物を全く含まない水はかえって毒なんだって。飲むと死ぬこともあるらしい」
耕二は携帯で検索を始める。
「……死ぬことはないって書いてあるな。先生が間違ってたんだ。とにかく俺、お前のこと、ずっと超純水過ぎて毒になって病気になってるんだと思ってた。」
俺は盛大に鼻をかむ。
「正義な、お前もっと楽に生きろ。金のことなんて気にすんな。生きていければいいんだから」
そんなことを言われたら、もうなにをしたって涙が止まらない。

 
 

(了)

初出 2019年


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