見出し画像

苦しい時間を過ごさなければ、幸せになれないのか

わたしは、少し前まで大きな勘違いをしていた。
苦しい想いをしたり、我慢したりしてこそ、幸せを手にすることができると思っていたのだ。
でもたぶん、それは間違っていて、人生において苦しい時間は過ごさなくてよいならその方が良い。

わたしはいま、思う存分楽しい時間、心地良い時間を満喫できているが、昔のわたしだったらこうはいかなかった。
どんなに良い時間を過ごしていても、心の底はその時間に罪悪感を抱いているようなそんな感覚があった。

何をしていても
こんなことをしている場合なのだろうか
もっと有意義な時間の過ごし方があるのではないだろうか
こんなに楽しい想いをしたなら、苦しい出来事がやってくるのではないか
そういう考えが自分の頭に浮かんでは消え、実際にそういうことが起これば「ほらやっぱり」と運命を呪いたくなり、怒らなければ「いつ不幸が来るんだ」と怯えていた。

起きていないことに対して不安に思いすぎていたのだ。
この不安がなぜ起こるのか、少し考えてみた。
わたしの考察はこうだ。

良い時間を過ごしてもすっきりしないとき、楽しめないとき、心が穏やかでいられないときは、そんな時間を過ごすことに対して、罪悪感を感じてしまっているのではないかと思うのだ。
どうしても、苦しい想いをしている自分の方が自分らしく思えるし、自分が苦労しないなら幸せになる価値はないと感じてしまう。

人に対しても、似た思いを抱いている時期があった。
いまでもたまに、心が荒んでいる時は思う。
あんなに楽ばっかりしてずるい
なんにも努力してないくせに
そんな風に。
汚い考えなのかもしれないが、だれもが一度は感じる感情だろう。

夫と付き合ったばかりの頃、鬱が少しずつ減ってきたころ、夫がわたしに言った。
「俺にとっては、うたたねちゃんは自分から不安になりたがってるように見える」
これは衝撃的な一言だった。
わたしはずっと不安で苦しくて、どうやったら抜け出せるのか知りたいと切に願っていたから。

いま、わたしはこの言葉の意味がわかる。
不安でいることで苦労しているような感覚を味わい、こんなに苦労したわたしはいつか報われるって、そんな風にある意味どこか安心していた気がする。

努力は報われる

この言葉の意味をはき違えてしまうと、自分を苦しい人生に縛り付けることになるのだろう。
わたしは、そうしていた。
この言葉はきっと本来、正しい努力のことを言っているのだ。
正しい努力とは、未来を見て、明るい気持ちで、それに向かって着実に歩みを進めていくといったニュアンスなんだと思う。

わたしにはたくさん夢があって、それは簡単に叶うことではないけれど、大丈夫。
苦しい想いはしなくてよいし、自分が楽しめる努力をしていたら、楽しい未来が引き寄せられると、いまのわたしは理解できている。

もしいま、苦しい想いをしている人がいるのなら、自分に明るい未来を望むことを、それに向かって楽しみながら向かうことを、許してあげてみてほしい。
穏やかな精神状態で進んでいける時間が増えて、一気に人生の色が変わるから🪻

うたたね


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?