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自分にはなかったもの


家の近所のレストランが、テイクアウトを始めた。お店のメニューや自然派のワインなどを店頭で販売していて、一度名物のキッシュを買ったことがある。私はワインが好きなので、店の前を通りかかると、ついワインのボトルに目が行ってしまう。その度に店員の若いメガネのお兄さんが出てきてワインの説明をしてくれそうになるのだが、結構なお値段がするのでいつも見るだけにとどまり、目の前の信号が変わったタイミングで失礼している。ごめんなさい、いずれまた。心の中で呼び掛けながら。

2年前、都内のワインショップで働いていたことがある。もともとワインが好きで、趣味でワイン関係の資格を取っていたこともあり、いつかワインに携わる仕事がしたいと常々思っていた。ちょうど長年勤めた会社を退職したばかりの頃で、これを機に好きなことに関われたらと、たまたま見つけたアルバイトの募集記事に応募したら決まったのだった。社員はソムリエの店長と、ネットショップ担当で定年間近のAさんの二人で、私は彼らの補助的な業務。高級ワインばかり扱うお店のためかお客さんも決して多くはなく、自分のペースで好きなことに関われる立ち位置が気に入っていた。

あれ?と思ったのは働き始めてしばらくしてからだった。定年間近のAさんの後任として、ネットショップ業務を引き継いでいたのだが、商品や生産者のことがなかなか覚えられない。ひとつ聞くとその前に教わったことを忘れてしまう。一生懸命メモを取るのだが、一向に頭に入ってこなかった。

接客も怖かった。好きなことに関わっていて、知識もあるはずなのに、お客様からワインについて質問を受けると思考停止してしまう。接客は店長にすべてお任せし、自分はレジ操作と梱包作業に徹しようとした。お客様の来店を知らせるチャイムが鳴ると身体がこわばり、納品に来た配送業者さんだと分かるとホッとしている自分がいた。憧れて就いた仕事なのに、肝心のお客様から逃げたくなるなんて。「向いていない」、そんな思いが自分のなかで日に日に大きくなっていった。

ある時、Aさんから「あなたはこの店で働いて、将来的にはどうなっていきたいの?」と訊かれた。「将来こうなりたい、ってイメージを持って働かないと。ただちょこっとシフトに入るだけじゃ、いるんだかいないんだか分からないバイトのままで終わるよ」。返す言葉がなかった。将来のことなんて全く考えていなかった。会社を辞め、心が疲れていた私は、ただ好きなワインの近くでふわっと働いてみたかっただけで、仕事として能動的に携わっていくことにはそれほど興味を持っていなかったのだ。

程なくして入ってきた新しいスタッフのBさんは、知識が豊富で、お客様との会話も自然体で楽しめる人で、常連さんからの評判も良かった。将来的にワインでの起業も目指しているとのことで、私とはまったく志が違った。私は一応先輩なのに完全に置いてきぼりをくらった形で、バツの悪さを残しつつ、しばらくしてその店を辞めた。

これは、好きなことに関わって働くことに憧れた、かつての私の失敗談。ワインが好きなのは今も変わりないが、飲んで楽しむのが好きなのであって、仕事に昇華できるほどの熱じゃなかったと思い知った経験。憧れという強い引力に身を任せっぱなしで、自分の適性や力量を測れていなかった、つまりは自分のことを全く分かっちゃいなかったのが原因だ。

店先でワインを眺めていた私を呼び止め、ワインの説明をしようとする店員さんには、かつての自分に欠落していたものが自然に備わっている。そんなことを思い出した。

最近は家飲みばかりで、ワインもスーパーに並んでいるワンコインものばかり買っている。次に通りかかったら、久々にいいワインを買ってみようか。お店で働く店員さんに免じて。


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