見出し画像

【考察】多様性って言うけどさ。

多様性。

いろんな価値観。
みんなそれを受け入れよう。
違いがあっていい。
少数派が暮らしやすい世の中のために、
多様性を認めよう。

多様性。
誰もが生きやすくなる世の中を目指す意味で、一見理想的な思想に見える多様性という言葉であるが、最近僕はこの言葉を怖く感じる。

今回は、多様性について僕の思うことをちょっと書いてみようと思う。

とくに何を参考にしたとかはないので、ガバガバな内容になる可能性しかないが、「こいつ、なんか言ってるなー」程度に読んでもらえれば幸いである。
僕も、「あの時、あー考えてたなー」程度の足跡にするつもりだ。

1.多様性を認めすぎる社会って大丈夫か?

関西出身のアナウンサーは、ニュースを関西弁で読むことは許されず、標準語で読むことを強制される。そのため、関西弁という個性を閉し、標準語に直す練習を積まなければならない。

仮に、極端な話。数年後、多様性を重んじる社会が到来した場合、関西出身のアナウンサーが言語の多様性を主張したとしたら、どうなるのだろうか。

テレビ局が以下の行動をした時を考えてみる。
・ニュースでの関西弁の使用を認める。
・ニュースで標準語しか認めない。

・前者の場合がもたらす結果
関西人の訛りという個性が認められる反面、標準語圏での聴きにくさが生まれる。
・後者の場合がもたらす結果
関西出身者に標準語への矯正を強いるが、多数の人が聞き取りやすいものになる。

極端な例を二つ挙げたが、多くの人がニュースを聴き心地よく聴ける意味では、アナウンサーは標準語を使うことが最適なように考えられる。

しかし、こうして考えるに、多様性とは功利主義と対概念な気がする。

先に、功利主義を説明する。
現在の日本社会は功利主義社会と言える。
功利主義とは、多数の幸せを優先する社会のことであり、要するに多数派絶対の世界線である。
アナウンサーの例も、少数の個性よりも大多数の聞き取りやすさを優先する意味で功利主義の一例と言える。


他に功利主義の例を挙げるならば車の例がある。
現在、車の交通事故での死者数は多い。
しかし、なぜ世の中で車が使われるのか。
それは、多くの人が車を使う移動手段にリスク以上の価値を見出しているからなのだ。

要するに、多数の幸せ(車の便利さ)を優先し、少数の不幸(交通事故)を仕方のないものとして受け入れているのが、今の社会の常識なのである。

さて、このように現在の社会は功利主義の上に成り立っている。僕は、功利主義・多数派社会については賛成である。

しかし、問題なのは、マイノリティを見捨てていいのか。そして、ここでの本題、功利主義と多様性ってどこまで両立するのか、という2点だ。
僕には、「多様性が少数重視・功利主義が多数重視」な気がしてならない。
これってほんとに両立すんのか。どこまでが両立可能なのか。というのが率直に疑問なのである。

そもそも、多様性ってどこまでが多様性なのか。
もともとは「多様な意見・人材」が多様性なのではなかったのか。最近では、LGBTなどが「性の多様性」と言われ、他にも「家族の多様化」「生活の多様化」などがある。今後、さまざまなものが多様化していくことが認められていって、大丈夫なのだろうか。社会制度やルールや定義が混沌としないのだろうか。

多様性という思想の拡大によって、現代社会の根底が揺れはじめたような気がしてならない。

2.多様性ってどこまで認めるの?

LGBTの問題。
誤解のないように先に言っておくが、同性婚等について、僕は直感的にではあるが賛成派である。

少し、本題とは関係ないが。LGBTについて、ある教授が面白いことを言っていたので、書いてみようと思う。

さて、そこのあなたに問題です。
男の定義ってなんですか!?

考えて!




その講義、生徒は考えて答えた。
「アレがついてる方」「女じゃない方」
「バカな方の人間」「力の強い方」

教授は「違う!」と言って、
「いいか、男ってのはな。愛する人を幸福にさせるために尽くす人間をいうんだよ!」
と言っていた。
…かっこいい。って教室が笑いに包まれた。

教授は、LGBTの話を例にあげた。
現在のLGBTの話とは、従来の男女の定義として主流であった肉体による分別が、心の分別でされようとしているのだと教授は言っていた。
つまり、昔は体が男なら問答無用で男だった。しかし、現代では、体は男だけど心は女という場合などが議論されるわけだ。現在、体が男で心は女の人は、戸籍を女にできる法律がある。男女という性別が選べる時代となっているのだ。
今後、トイレや温泉も男女の二つでいいのか、という議論にもなりそうである。

いずれにしても、男と女という言葉の定義が変わってきているのは事実だ。となると、教授の言っていた定義も一理あるのかもしれない。

しかし、そうゆう個性を徐々に認めていって怖いのはその先。「それが良いならこれも良くね?」という連鎖である。その末、一夫多妻とか、移民に溢れた街とか、私服のサラリーマンとかが当たり前になる世の中が来るかもしれない。それを取り締まる法設備は多様化のスピードに対応できるのか。少し心配に思う。

また、
クジラを食べたい!という日本人。
クジラを殺すな!という西洋人。
クジラを食べたいのも多様性。
クジラを殺さないのも多様性。

さて、どこまでが多様性として良くて、どこからが我慢すべきなのだろう。そのライン引きが多様性を解く上でとても重要な気がする。

僕が思うに、多様性の肯定とは個人の自由を広げる側面があると思う。自由度を上げれば人同士はぶつかる。
クジラ食べる派と食べない派がぶつかるように。
意見がぶつかればやはり多数決。功利主義社会では賛成数の多い方の採用。少ない方は我慢。
そっちの方が明快だし、簡単じゃないだろうか。

いずれにしても、多様性多様性と言っている人の多くは「多様性」という言葉を武器に使い、自分に都合の良いなにかを作ろうとしていることが多いように思う。

僕自身、認めるべき多様性・認めてはいけない多様性とはなんなのか、もう少し考えてみたい。

この記事が参加している募集

#とは

57,841件

#最近の学び

181,025件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?