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わが内なる律法主義

 私は、とくに宗教と関係のない、ごく普通の無宗教の家庭に生まれ育ちました。大人になるまで、宗教とは無縁でした。偶然に偶然が重なり(これを普段は「神様のお導き」と言っていますが、宗教を持ち出さないなら、「偶然」です)、ある教会の礼拝に出ざるを得ない状況になり、それがきっかけで教会とつながりました。(教会さえも「出会い」なのです。よく、求道者のかたから「どうしてプロテスタントを選んだのですか?」と聞かれることがありますが、自分で選んだ覚えはないのです。自分で宗教の門をたたくなら、仏教に行っていた可能性のほうがはるかに大きいと思います。)初来会から4年以上かかって、ついに、洗礼を受けることになりました。私の家は、ある、立派なお寺の主たる檀家です。私は本家の長男です。洗礼を受けるにあたり、お寺や仏壇との関係は、良好に保つことを、私のほうから約束しました。少なくとも、そのとき、イエスさまを救い主と信じることと、お寺のお墓を守ったりすることは、まったく別次元のことに思えていたのです。

 ところが、洗礼を受けて、(大病を経験したことが関係するのかどうかはわかりませんが、)だんだん私は変わっていきました。まず、毎年、年中行事のように家族で行っていた、正月の神社の初もうでに、行かなくなりました。わざわざあんな寒いときにあんなに混んでいるところに行く意味が感じられなくなったのです。というと、意味があって行かないかのようですが、それだけではないと思います。やはり、神社が、異教の神に思えてきたのでしょう。そう書くと、今度はまた、偶像崇拝とか、悪魔とかいうキーワードを連想なさるかたもあるかと思って、なかなか、うまい具合に、そのときの自分の気持ちをあらわすことはできないのですが、とにかく初もうでは行かなくなりました。「くやしい」というのが、いちばん感じた気持ちでした。キリスト教に理解のない両親に、キリスト教の最も良くないところである、「排他的」な面を見せているようで、嫌でした。そもそも両親は、初もうでを、宗教とは認識していません。年中行事の一種なのです。

 仏壇も同様でした。だれかの命日だからと言って、仏壇に線香をあげて、手をあわせるというのも、はなはだ不本意でした。しかも両親は、これも宗教だとは認識しておらず、先祖供養というか、要するに習慣だと思っているので始末に悪い。

 つまり、私は、いつの間にか、保守化していたのです。保守化というか、わが内なる律法主義です。

 私が若い頃、東京都立高校の教諭が、日の丸を見ない、君が代を歌わない、ということで、続々と解雇になるという事件がありました。その多くは、クリスチャンであったということです。私ならどうしたろうか。聖書に「君が代を歌ってはならない」と書いてあるわけでなし、だいいち聖書に書いてあるからと言って、やってないことばっかりだし。しかし、もはや私には日の丸、君が代への無自覚的な抵抗心は、育まれていたのでした。おそるべし、宗教の洗脳。(唯一、まともな理屈を聞いたのは、もう何年も前、ある牧師先生が、日の丸を拝むのは、太陽神ラーを拝んでいることになるので、偶像崇拝である、と言っていたことくらいです。あとちゃんとした説明は聞いたことがない。)

 2006年に、教師になりました。キリスト教の私学でした。しかし、形ばかりのキリスト教学校で、たとえば、進路指導室に、神棚みたいなのがあり、合格祈願のおふだが飾ってあったりしました。これも、だれも宗教だとは思っていないのです。しかも、数少ないクリスチャン教員も、だれも言い出せる雰囲気にない。空気の読める人ほど、言い出さないのです。でも、これも律法主義ですかね。

 キリスト教私学で、じっさいにはキリスト教精神のキの字もない学校って、ホームページから、わかりますよ。もっともらしく、聖書の言葉など出してありますが、それが宙に浮いていて、生きた言葉になっていない学校。ひたすら進学実績ばかり書いてあって、ある学校など、進路関係のページのサムネが、合格祈願のお守りの写真でした。寛容な学校と言うべきか、節操のない学校というべきか、そういう学校はたくさんあります。みなさん、そのつもりで、お近くのキリスト教学校(大学でもよい)のホームページを見てみましょう。

 ある、東京の名門私学に匿名で電話をしたことがあります。その学校は、キリスト教学校で、日曜日は、部活も含め、いっさいの活動をしていない、とホームページにうたってあったからです。どういう電話かと言いますと、以下のようです。「お宅はキリスト教で、日曜日は、いっさい、部活をふくめ、なにも活動をなさっていないとお聞きしましたが」。おそらく事務職員のかたが出られて「はい、本校は、部活動も含めて、日曜日に、いっさいの活動を行なっておりません」と胸をはってお答えになりました。そこで私が「では、日曜日の部活の大会はどうするのですか?出ないのですか?」と聞いたら、急にお茶をにごしはじめました。やっぱり、看板だけなんだね。私は、そのあと、「警備員さんは?」とか、「停電を伴うような学校の施設や設備のメンテナンスはいつしているのですか?」といった問いも用意して電話をかけたのですが、まず部活の大会で、お茶をにごしている。形だけの律法主義と言えましょう。
 (むしろ、役所が日曜日に休んでいる。役所は公的なものではないのか。なぜキリスト教の安息日に日本の役所が休むのか。それから、私の住む地の公営の地下鉄は、クリスマスが近づくと、クリスマスの飾りつけをして、車内放送もクリスマスっぽくなる。政教分離の原則はどうなったのか?)

 2017年ごろ、「世界の宗教」というような本を、何冊か、読んだことがあります。興味深かったのは、いかに神道というものが、日本人の日常に溶け込んでいるかどうかであって、たとえば、富士登山ですが、富士山はご神体であり、山頂には神社があるのであって、富士登山は立派な偶像崇拝だということになります。それどころか、天気のよい日は、新幹線から富士山がよく見えますが、それをスマホに撮っているという行為も、偶像崇拝になります。YMCA東山荘には、富士山のよく見える部屋に「目をあげて、わたしは山々を仰ぐ」とかいうもっともらしい聖書の言葉がかかげられていますが、なんのことはない偶像崇拝です。それから、日本人のきれい好きも、神道に由来するそうで、「きれい好き」も偶像崇拝です。さらに、「日本のことわざは、神道の律法である」という言葉もありました。この言葉はなかなか意味深長で、それ以来、日本のことわざが出るたびに、このことを確認していますが、まったくもってそのとおり、日本のことわざは神道の律法です。ということは、日本のことわざを使うたびに、われわれは偶像崇拝をしていることになります。

 あるいは、明治牛乳や、昭和シェル石油は、天皇制の元号に基づく企業なので、きっすいのクリスチャンは、明治牛乳は飲まないのでしょうか。昭和女子大学人見記念講堂でオーケストラの演奏などしないのでしょうか。明治大学には入学しないのでしょうか。聖書の翻訳で、明治訳、大正訳って言うでしょ?(余談ですが、日本聖書協会の聖書って、元号とともに歩んでいるのであって、口語訳が昭和訳。新共同訳がちょうど平成訳。そして、聖書協会共同訳が、ちょうど令和訳となるわけです。)

 そんなわけで、「わが内なる律法主義」の奥の深さを思っていた最近。9月に、約1ヶ月、遠い地で転地療養をしてきました。健康のために、一日、一時間の散歩をしました。近所に、神社がありました。ひんぱんにお参りしました。きちんと手を洗い(コロナ感染を恐れて、口はすすぎませんでしたが)、本殿にお参りし、お賽銭を入れて、柏手(パン、パン)を打ち、真剣にお祈りしました。自分でも驚く行為でした。そしてさらに驚くのが、それはとても気持ちのよいことであったということです。神様はどこにでもおられるのです。神社にお参りすることは自然なことでした。心を込めてお祈りしました。(三十番地キリスト教会牧師先生ですら、「心は込めるな」と書いていたと思います。)もちろん、教会でも心を込めてお祈りしましたけれど、これも、「正統派」クリスチャンからすると、あり得ない話なのかなあ。しかし、私自身、長いこと、実家に帰って、初もうですらしなくなっていたのです。先祖供養である、仏壇を拝んだり、お墓参りしたりということも、嫌々やっていたのです。自分でも、どういう心境の変化か、わかりません。あるいは、一時的なものであったのか。

 いずれ、我が家にも仏壇が来ます。両親から。両親は、「クリスチャンの息子に、他宗教を押し付けている」つもりはまったくありません。仏壇とは、先祖供養の、習慣だからです。そして、二言目には言います。「あのとき、お前は、仏壇やお寺との関係は良好に保つと、自分から言ったぞ!」

 クリスチャンの仲間にこの手の相談をすると、いろんな人がいます、「腹ぺこさん、それは偶像ですから、破壊しましょう」とかね。あるいは、粗大ごみの日に出しちゃえとか。そういうわけにいかないんですよ、私にはノンクリスチャンの弟がいますから。

 私の家の近所に、有名な観音さんがいます。ある人の「あかし」で、親から、通学するとき、あそこの前を通ってはいけない、あそこは異教の神々がまつられているから、と言われて、その観音さまの前を通らずに通学したことを、ほこらしげに語っている原稿を読んだことがあります。それが教会での「あかし」であったということは、それを聴くみなさんも、共感して聴いていたのでしょう。なにが信仰だか、わからなくなってくるぞ。

 かつて勤めていたキリスト教学校では、毎朝、讃美歌が歌われていました。学生の礼拝でも、讃美歌が歌われていました。しかし、君が代を歌わないで解雇になる教員が公立にはいるのです。キリスト教学校で、讃美歌を歌わない権利も、あるのではないでしょうか。あるいは、お焼香をしないクリスチャンがいる一方で、クリスチャンの葬式では、参列する多くのクリスチャンに、讃美歌を歌わせています。いいのか。

 電話で応対したことがあります。イスラム教のご家庭で、その学校への入学を考えている親御さんからのお電話。ある学校は、どうしても十字を切らねばならず、それは宗教的にできないので、入学をあきらめたと言います。私が勤めていた学校では、イスラム教の学生さんのためのお祈りの部屋を確保していたと思います。たしか急ごしらえでしたけど。でも、礼拝には出てもらわねばなりません。これから国際化で、ますますそういうケースは増えると思います。これは、かたくななのか。それとも寛容なのか。それとも習慣なのか。

 あるクリスチャンが、高校生のとき、担任が合格祈願のおふだを配り始めたという話を聞きました。その人は、もらうのを拒否したそうですが、最後まで担任は、「なんだよ~、かたいこと言わずに、もらえよ~」と言っていて、最後まで理解してくれなかったとのこと。これは、信仰的なのか、不寛容なのか。

 私の母は、近所の子どもにピアノを教えるピアノ教師ですが、上記の教師と同じく、毎年、受験生が出るたびに、私に、湯島天神の合格祈願のお守りを買わせていました。あれ、嫌々もらっている生徒さんはいなかったのかなあ。空気の読める生徒さんほど、もらっちゃうよ。

 とにかく、洗礼を受けてから、私の中にも、律法主義は、巣くってしまったのでした。これは、信仰的な進歩なのか、それとも逆で、退歩なのか。真理はあなたがたを自由にするって、ほんとなのか。

 まとまりがなくて、しかも長くてすみませんでした。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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