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精神について考える

2019年6月から私は精神に病を持ち始めた。
かれこれ一年半ほど治療している。症状が出てからはおよそ二年が経過したのだろうか。歩くこともできない状態だったころに比べればかなりの時間を費やしたとはいえよくなっているのだろう。会話することはできなかったけど、文を書くことが私にはできた。私にとって文章を書くことが話すことになっていた。声を使って話すより文章を書いて話すほうが私は饒舌であり、素直であり、自分と表出される自分の間に齟齬が少ないのである。
ありのままに書いた心の音声は私にとって何よりもの生命線であった。

「精神」=「心」+「脳」

精神病というと「心」が病む、または「精神」が病むと解釈される。
精神が病むことは、甘えなのだろうか。
この「精神」というものは、心と脳が作用しながら生まれたものと考えられる。
心が理性や認知機能や感情や意志の働きのもとだとして
脳は理性や認知機能や感情、意志をコントロールする機能を持っている。
精神病となるとその2つの機能がどこかぶっ壊れてしまうのだ。
感情や意志が働かくなるし、コントロールもできなくなる。
何かを食べたいと思わなくなり、外に出たいという思いも、誰かと話したいという思いも出てこなくなったりするのである。
そして、もし誰かとしゃべりたいという思いが生まれたとしても感情のコントロールができず言葉を発することができない事態が生まれたりする。あの喉の奥につっかえるような話したいのに話す機能がしっかりできないほどに感情が壊れてしまっている感覚はひどく恐ろしい物であった。いうなれば「自分が自分でない」という感覚に強く陥らされる。「自分を返してくれ」と望む日々を過ごしていたことは今でも覚えている。
買い物をすることもできなかった。店員さんが何を言ってるかも理解できず、考えることができず、頭が働かず、返答することもできず、誰か代役が隣にいないと私が生活をすることは困難を極めていた。
「したい」思いがあっても「できない」。それほどまでに精神病というものはひどく恐ろしいものであった。そして、何よりも怖いのが一度かかってしまうとえらく消極的になってしまうのである。「またあの日々を送ってしまうのではないか」と何事にも集中が続かず諦めが早くなってしまう。そんな気がする。

変わるもの

表情、姿勢、身だしなみ、傷痕、態度
こういったものが過去の自分とは変わってしまう。
表情は無表情に、感情がめちゃくちゃでわずかなことで恐ろしいほど泣いたり笑ったり怒ったり不安定になる。
姿勢は前かがみに歩くときに前をみることができないほど腰が曲がっていた。人としゃべるときも顔が絶対に下にうつむいてしまう。
態度は不安や焦燥感がずっとひっついてくるため自分の事に必死で周囲のことなど全く見れなくなる。そして落ち着きがなく不自然な行動が増える。すべてに対してゆっくりになり、「無理だ無理だ無理だ」と何かに挑戦ができなくなる。

-異常行動

急に何か叫び出すことが止めることができなかったり、暴れるような動きをしてしまったり。かと思えば、何もできずただただぼーっとする時間が何時間もおとずれたり。心の中にたまっている不安や焦燥感で押しつぶされそうになるが、言葉として発散することができないため行動として現れてしまうのである。
他者に対して攻撃的になったり、自分に対して攻撃的になり自殺や自傷へと向かってしまったり。
また単純なはずの動作が実際はいくつもの工程をふまえてできるものなので混乱しできなくなってしまったり。買い物ができなくなるのもそういったものの表れなのだろう。

食欲がなくなったり、はたまた食べすぎたり
睡眠が過多になったり、寝たくても眠れない不眠になってしまったり
生理機能も過去の自分とは違う異常行動がではじめる。
何よりも食べることが好きだった私にとってご飯を食べたくなくなったり、食べても味を感じられず「おいしい」と思うことができないのは本当に本当につらかった。一日一食食べれるようになるまでの回復はだいぶかかり、またそこから依然と同じ量までするには最近になってようやくできる日がでてきたくらいである。

-言語理解

そして人の言っている言葉が理解できない、というのも何よりも苦痛だった。人の言っていることが理解できない、そして自分が何か言いたくても言うことができない。こういった言葉がつかえない症状もでてきていた。自分でもびっくりするほど「頭が使えない」ということを何度も何度も毎日毎日突き付けられた。日常的に行っていた「会話」というものができなくなるというのはすごくすごくすごくつらい物であった。小学生よりも、幼稚園生よりも言葉を理解することも使うこともできなくなっていた。これは嘘ではない。人見知りではない自分が、「人見知りの人ってこういう感覚なのかな」という思いになり、以前までわからなかった人に話しかけることにいる勇気をこれでもかというほど実感させられた。驚くほどに人に話しかけるまでの壁が何重にもあるような感覚である。以前ならひょいとこんなにも何重の壁をのけていたのかと、越えなければいけない段階の多さを感じさせられた。

-感情

感情は情動と気分にわけられる。
-情動 体験や出来事に反応して生じる、一過性の激しい感情(喜怒哀楽)
-気分 体験や出来事に反応して生じる、比較的弱い持続的な感情(憂鬱、不安、幸せ)
精神病後の気分には、意欲低下、疲労感、集中困難、将来への不安、自責、脅迫、軽い自我障害がおきる。
特に離人感はとても大きい。「自分が自分ではない」という気持ちに大きくさらされる。これは自殺の気持ちが高まる危険な状態である。
精神病を患った後は、「集中力が続きにくくなった」「疲労感が出やすくなった」「何か新しいことに挑戦しようという気持ちか以前みたいに出なくなった」「将来自分が生きていけるかわからない不安が強い」「自分がすべて悪いからいけないんだ」「○○しなきゃいけない、なのにできない。自分はダメな奴だ。こんなこともできないのか」「自分が自分でないような気がする。元の自分がいない」そんな気持ちにたくさん出会うことが増える。
特にこういった思いになったあと、自分を「大丈夫」と持ち上げることがすごくすごく難しくなる。どんどんダメな自分を想像してしまう。

ささいなことでも怯えてしまったり機嫌が大きく左右されるような刺激性をもったりもする。
「快」感情がほとんど生まれず、ずっと虚しさにつつまれたり、自分がいったい今(喜怒哀楽)のどういった感情に当てはまるのか表現できなかったり。
イライラ、不安、憂鬱、抑制感が症状が軽くなると少しずつなくなっていく。今の私は不安や虚しさを抱えることは減ったが、何かに挑戦することに前向きになれないことは以前の自分に増してもっている。

-意志と欲動

意志 一定の目標を設定、手段を選択、行動へと導くもの
欲動 あらゆる精神活動の下になる力(行動する力のもと)

やるきがでない、やろうとしても身体が持たない、ということが精神病を抱えると増える。例えば私は、前はそんなことはなかったが、一日に数時間横になる時間を持たないと行動をすることができない。そんなことが多い。明らかに横になる時間が増えた。そうやって休み休みにしないと日常生活でする行動を行う体力や気力を養えない現状である。

特に病にかかりたてのころは「無為」になることがおおかった。行動をすることがあまりにもできない、ただただぼーっとするだけで体力がそがれるような状態であった。

また人によっては「依存」状態が出る。人や事物に頼りすぎて自分をなくしてしまう
すねて「自分はどうなってもいい」
ひがんで「どうして私には優しくしてくれないのか」
ひねくれて「もうお前のことは信用しねぇ」
うらんで「自分がしてほしいものを断った!最低だ!」
でも
すねることは、本当は甘えたいのに素直に甘えられずやけくそになる行動で
ひがむことは、甘えの当てが外れ自分が不当な扱いを受けているとねじれた解釈をしてしまいでる行動で
ひねくれることは、本当は甘えたいのにあまのじゃくな態度をとってしまう行動で
うらむことは、甘えが拒絶されたと感じて相手に敵意を向けてしまう行動である。

根幹は「誰かに甘えたい」という感情であることにはかわりない。
ただそれがひねくれてしまうのである。「依存」はそういったひねくれを生んでしまうので、「自分」や「自我」を守ることは非常に重要である。

-知覚

知覚 感覚から外界や自分自身の出来事、状態をすること
感覚 刺激に対応する感覚器からの情報(五感、運動感覚、体感等)

統合失調症を患うと、主観的、個人的な経験、判断、直観に依拠することが多くなる。現実の知覚をあまり頼りにしないのである。見間違いや聞き間違いといった錯覚(対象を誤って知覚すること)がおこったり幻覚があらわれることも増える。
こういった幻覚作用はいじめなどでも出やすい症状である。
例えば、悪口を言われることで強く精神に傷を負ってしまったら。
初めは実際に言われてる状況に傷ついていたとしても、やがてその状況は心の中でも反芻され、実際に言っていない状況でも言われているかのように「偽りの知覚」をしてしまうことがおきる。
自分の心の中の「きっとまた悪口を言われてるに違いない」という思いから、それを外の世界でもおきてると知覚してしまうのである。
もう今は起きてなくても苦しむ精神の病はこういったものが多いのではないだろうか。今の状況を正しく知覚できない幻覚をつくってしまった原因は他にもなくその原初体験、悪口を言った相手である。たった一回でも、相手をその後何度も傷つけてしまう。「いじめをしてたやつは覚えてなくても、されたやつはずっと覚えている」とはまさにこの幻覚作用が起こるゆえだろう。

例えばわたしはナンパされることが多いことに困っていた。
「どうしたら話しかけられなくなるのだろう」と悩んでいた。
精神病を患ったあと、外を歩くのが怖かったのは、この「人に話しかけられた時の嫌な記憶」が外の世界で起こっているものと知覚してしまっていたのだと思う。「誰かに見られているのではないだろうか」「誰かに話しかけられるのではないだろうか」「また腕をガッと掴まれるかもしれない」「また夜道に追い掛け回されるかもしれない」そんな強迫観念に脅かされていた。その感覚はマシにはなったとはいえ、まだ消えない部分である。

また、食事をしているときは「全然味がしない」(幻味)
身体が常にだれかに触られているような感覚に陥る(幻触)
なんて作用もあった。幻覚でありながら本当に起きて味わってるのと変わらない感覚であるため、かなり苦しいのである。

-思考

①感性(直観的なもの)でとらえたものを
②情報を統合し、「意味」をもたせる
③言語、記憶、意識の影響をうけ、
④対象の性質・他のものとの関連を把握
⑤推理や判断を行う

こういった流れで思考が生まれていく。
精神病を持つと、思考の組み立て方に支障が出る。
言葉の言葉のつながりが不自然、全体の意味内容が理解しにくい、話の飛躍、省略
無意味な語や文の羅列、助詞の使い方がおかしい
 など。
また思考の速度が遅くなったり、連続性に障害が生まれる。
違う質問をしても、また同じ返答をしつづけたり、すぐに切り替えることができないのである。
実際に私も人の質問にうまく答えることができず契約を行うものは1人ではできず信頼できる人に同伴して代わりに応えてもらう状態だった。
とくに思考が急に止まるような感覚は多くあった。何も考えれない、と頭が痛くなり空っぽになる気分である。
また、今考えなくていいことを考えてしまったり
特定の場所、もの、言葉や曲に強迫観念、外に出ること、一人でいることに強く恐怖を覚えたり。人と関わることがとんでもなく怖くなってしまったり。周囲の出来事をやたら自分に結び付けてしまったり、周囲から監視されてる感覚になったり、自分の能力へ過小(過大)評価をしてしまったり。

「フレゴリの錯覚」といい、他人をよく知っている人物と誤認し、知っている人が次々に姿を変えて周囲の複数の人に成りすましていると確信したり、
「カプグラ症候群」といい、よく知っている人をそっくりな別人と否認したり、妄想と現実が互いに入り混じる世界に過ごしてしまう症状が起きる人もいる。

自分の低い自己評価から、恨みが相手へといってしまうことも被害妄想の原因としてあげられる。そんなとき、失われているのはそのひとの「存在の価値」「能力への自信」である。
「存在の価値」をあげさせるために、視線を合わせ、挨拶をし、約束を守る
「能力への自信」をあげさせるために、できていることがあれば必ず言葉にし褒めてあげる(その人が頑張ってできることであれば日常的に小さいと思えるようなことであっても)
こういったことが治療につながる。

-知能

知能 創造的な思考により新しい課題を解決する能力
過大の分析、物事の本質の把握、物事の因果関係の推測、物事を判断して統合すること。
知能と言えば、ウェクスラー式の知能検査(知能の量的水準測定)では、言語性IQ(理解・記憶・計算力)、動作性IQ(図形・記号処理力)がある。
できないことは目に入りやすく、叱りを受けやすいため、学習性無力感や低い自己評価が生まれ始める。こういう時大事なのは、できたことに対しても言葉でしっかり賞讃することである。そうしないと、「怒られるから」と逃避傾向が生まれたり、不安感が強くなったり、我慢をためて衝動性がうまれたりする。
「新しいことが不安」「失敗するのが怖くて何もできない」
小さな成功体験の積み重ねによる自尊心の向上が重要
「いつもこれじゃないとだめ」「ケースバイケース、臨機応変の対応が苦手」
物を壊す、人を叩く、自傷といった衝動性
「助けてほしい」(要求)「みてほしい」(注目)「嫌なことから逃げたい」(拒否)「刺激が欲しい」(感覚)こういった4つのサインから行動的な障害は生まれる。

そんな時必要なことは何だろうか。
これはよく聞くことではあるがまず第一に「生活リズムを整えること」である。案外この第一ステップを続けることが難しい。精神病をを患わってしまったらまずこの「生活リズムを整えること」だけに集中して頑張ることができたらもうそれは素晴らしく褒められるべき行動と言える。前の自分と同じ量を求めてはいけない、まず自分のできそうなことから水準を下げなければならない。それでもできたらすごいことなのだと。
睡眠、排泄、食事、運動のリズムを一定に。
関わる人物は一定に精神を整える。


その次に「どんな時に障害が現れるのか記録をする」ことである。
いつ(時間)、どこで(場所)
誰と、何をして(活動)、どうして(原因の予測)、どのように(どんな行動障害が現れたか)

例えば私は自室のドアが開いていることが何よりも怖くて苦痛だった時がある。たとえ知っている人でも人が近くに寄ってくることが何よりも教父だった時がある。テレビの画面であれ嫌なことをされた人に似てる人の顔面がドアップで長く映っている状態が出るとうめきだし、気持ち悪くなってしまったことがある。
こうやって行動障害が起きた時、「大丈夫」「何があったの?」と質問されると、「質問されることへの恐怖」も抱えていたため、さらに行動障害が起きていた。「何もせず落ち着くのを待っていること」そうしてもらえることが、わたしにとって一番うれしい対応であった。
そうやって「どういった対処がいいのか」対処方法を一定に決めておくことも治すために大事になる。

コミュニケーションにも難しさをよく感じる
一語一語で喋ることが精いっぱいであったり、
抽象的な概念が理解しにくかったり、
周囲の人が言っていることが何を意味しているのかがわからない
自分が何を言いたいのか、自分が何を今すればいいのかわからない

そうしてストレスや不安にさらされていく。

ASDの話には「サリーとアンの問題」がよくだされる。
サリーがバスケットの中に物を入れる。
アンはサリーが部屋にいない間に、内緒でものをバスケットから箱にうつす。
サリーが部屋に戻ってきたとき、サリーはものをだそうとどこを探すでしょう?
といった問題である。
「バスケットを探す」が一般的な言葉である。
サリーの立場になって考えられることができる。しかしASDをもつひとは「箱」と回答する。サリーの立場ではなく自分の立場で考えて答えるのである。

-意識

意識 外部からの刺激に注意を払い、適切に反応し、現実に生じていることを理解、心の中で起きていることに気付く。

注意が散漫し、次々と話や行動が新しい対象へととんでいったり、「自分は今このような状態」という識別(「自分の名前、年齢、生年月日」「自分は今何時頃に居るか(時間)」「自分は今どこにいるか(場所)」)がうまくいかなかったり。

「何もせずぼんやりしている」「話をさえぎってしゃべる」「話のまとまりが悪い」「話題が飛びやすい」「不機嫌で怒りっぽい」「状況にふさわしくない感情反応」「単語の取違い不注意」これらは軽い意識障害のサインとなる。
うつ病となると睡眠障害や抑うつ生涯がやや長い間症状が持続し、特に朝方に症状が強く出る。特に眠ることが難しくなる。周りにいるものにできることとしては、時間感覚の投与である。「今日は何日であるか?」と質問することは精神病患者にとって答えることがあまりにも負担が大きいため、「今日は〇月〇日ですね」「ここは○○ですね」と会話の中でさりげなく確認していくのが大事である。睡眠はお薬で眠り、朝の陽の光をあび、時間の感覚をしっかり知覚することが大事である。ただ、突発的な衝動行動には「落ち着くまで待ってあげる」だとか、日中に体力や気力が途絶え横になっていても「ちょっと疲れちゃったか」と無理に日中は起きて居ろとしないことが大事である。少しずつ起きている時間を増やすことが大事になる。想像以上に精神病患者は体力を失っている。

-自我と自己

自我 自分が考える「自分」(アイデンティティ、自我同一性
自己 自分と他人を通して考える「自分」(パーソナリティ、他人から見た自分らしさ

自我や自己はどのように形成されていくのだろう。

「シンボリック相互作用理論」
この社会はシンボル(言葉、数字、身振りなど)を操作する人間のダイナックな相互作用を通じて現れる。自我は他者とのシンボルを介した相互作用の中で、役割の獲得とともに形成されるといった考え。

クーリー「鏡に映った自我」
人間は鏡としての他者を通じて自我を知る
-他人に自分がどう映るのか
-他人に自分の行動がどう映るのか
-それに対する自分の屈辱感などの意識
この3要素が自我形成に必要である

「役割期待」ミード
他者からの期待に応える、物の見方を内面化することで自我が成熟する
個人内コミュニケーションという、他者からの役割期待を内面化した自我の側面と「主体的」決断をする自我の側面がうまれ、Iとmeが分化し発達することで自我が成熟するとされる。例えばもう起きないといけない時に「起きないといけない」というmeと、そのmeの呼びかけを無視して二度寝しようとするIがある。
①人間は物事が自分にとってもつ意味に基づいて行動する
②その意味は社会的相互作用から生じる
③意味は解釈過程を通じて修正される
意味は言葉などのシンボルを通じて③を渡る。そういった相互作用をくりかえし社会はなりたっているという考え方である。

「自己呈示」ゴフマン
他者との相互行為は役割期待を受け取るだけでなく、自分がどんな人間であるか相手に示す行為も行われている。と、日常生活を演劇に例え、個人が他者に影響を与えるあらゆる行為を演技ととらえることで、社会的相互作用における自己と他者の関係を演技者と観客の関係に擬して分析した。
自己呈示=自分が何者かを表現すること
パーソンズは社会規範によって不安定が解消されるというマクロ視点で、
ゴフマンは人々がまともな演技をすることで秩序が保たれるというミクロ視点の解決法を打ち出している。
ちなみに、ブルーマーは「社会がすでに確立された秩序と合意によって成立している」というパーソンズの考え方に対し。「人間は意味世界に生きており、その意味は絶えず変化している」という流動的な社会観を持ち、構造的な社会観には反対している。

▼フロイト「超自我・自我・イド」

フロイトは心の働きを3つに分けて考える
超自我 親のしつけ、社会の道徳
自我 現実吟味、刺激の調整、防衛機制、衝動のコントロール
イド 本能
病気を抱えていない健常者は「自我境界」がしっかりもっているが。
病気を抱えた場合、この自我がほろびやすくなる。他者や外界の刺激から身を守ることが難しくなる。
そのために、
①自我を保護(物理的環境、人的環境の関わり、行動の選択を迫らない、安全感・安心感の付与)
②自尊感情の強化(相手を尊重した関わり、セルフイメージを変える助け、自己否定の思考・感情をコントロールする方法をもたせる)
③自立の強化(自我機能が働くようになったら、日常生活の上ででた問題や困ったことをそこに絡んでいる相互作用と一緒に考える)
といった段階をふんだ治療が必要となる。

人間のパーソナリティ(自己)にはその人が他人と持つ関係によって理解され、人間が心身の健康を維持して生きるために必要であり、「安全への欲求」と「満足への欲求」を他者との関係に求めるとSullivanは言う。
また、治療もまた治療者と患者との間の人間関係によってのみ可能であるとし、「傾聴の技術」といい「沈黙は抵抗ではない患者からの言葉である」という考えをReichmannは述べる。

「人間は一生涯、自己対象が必要であり、褒めてくれる人、理想になってくれる人に上手に寄りかかること(甘え、依存)が不可欠である」とKohutはいう。母親に褒められた経験が「自己をほめる」ことにつながり、父親が見守られた経験が「自己の不安をやわらげ、自己に生きる方向を与える」ことにつながる

①自我を保護する

自我同一性をもつには
「何があっても、ほかの人がどうであれ「自分」は「自分」だ」
「自分らしい生き方ができている」
「自分は他の人に良く理解されている」
「将来自分がどうなりたいかはっきりしている」

ことが大事になる。

能動性、単一性、同一性、対立性
自分が何かをするとき、それは自分がしている。思考も行動も主体は私という「能動性」
この能動性が欠けると、離人症のような症状が出始める。
離人症とは、自分が精神や身体から離れて外部の観察者になったかのような自己の知覚である。

haugは「内界意識」「外界意識」「身体意識」の3つの類型を打ち出す。
・自分だという実感がない
・自分は変わってしまった
・自分が考えたり行動している実感がない

という内界意識
・周囲の者に実感がない
・外界と自分の間にベールがある
・景色や花を見ても何も感じない

という外界意識
・自分の身体が自分のものと感じられない
・自分の身体が生きているように感じられない

という身体意識である

自分は1人であるという「単一性」
この単一性に障害が起きると、それぞれの人格が行った言動は覚えていないという解離性同一性障害になったりする。

自分は昔から今まで同じ自分であるという「同一性」
この同一性に障害があると「自分は病気をする前と同じ人ではない」という統合失調症になったりする。
これには「自分が今ここに、確かに存在する」という存在意識が必要になる。

自分は周囲の者や人とは別物であるという「対立性」
この対立性に障害があると、自分の考えを全世界の人が知っているという認識を持ち、外界や他者と自分の区別がつかなくなる「自我境界の障害」が現れる。

②自尊感情を強化する

こう記していると、精神病は「自己の低い評価」が原因としていろいろ転じてしまうことが多く見られる。
実際私も、自分の価値を底辺と起き「自分は役に立たない」「自分は必要とされるものではない」「自分はゴミだ、クズだ」と思ってしまう。
ここにはセルフイメージが強く関わっている。
自己肯定感があるとされる「自分はできる」という思いが強い人であれ、自分のような「自分はできない」という思いが強い人であれ、結局は思い込みであり根拠はかなり薄いものである。
これは「存在を認められること」がとても重要であると思われる。
「自分は人に迷惑をかけてもいい存在」という価値観を幼少期に形成することがすごく大事である。
「できなければ怒られる」という脅威は「完璧にならなくちゃ」「できるようにならなくちゃ」という思いを増幅させ自分を支配するようになる。
そして少しでもできない自分に「ゴミクズだ」というレッテルを貼り付けてしまうのである。
「自分に魅力なんてない」と思うから人との縁をいともたやすく切ろうとしたりしてしまう。しかし人と人のはぐくみは「迷惑を受け入れること」なきには行えないものである。この「迷惑を受け入れてくれる」環境を近くに置くことで愛情が享受される、そして自分の存在に価値をおいていける。
「自分はこれでいい、これで素晴らしい」と許してあげることを何度も何度も繰り返し行い、自分の内側に埋もれている魅力を掘り越してあげることで「自分が好き」に近づける。

だからこそ、少しでも自分の好きに素直になって
少しでも自分の好きなものの近くに、自分の好きな人の近くにいることにはわがままになることが私の人生にとって大切なことなのだろう。
「自分はどんな場所にいたいかな?」「自分はどんな人と一緒にいたいかな?」想像してみよう。「生きたい」と思うために。

最後に

「長く悩まされたものには、長い治療が必要になる」
私はこの言葉にひどく救われた。
「もっと」を求めてまい、そこに不安や焦燥感を抱え病状を悪化させてしまうことが多かった。もっと早く治さなきゃ、と思っていたがこの言葉に出会ってからは、「そういえば悩まされた時間があんだけあるのだから、そりゃあ早々簡単に治るはずないよな」と気楽に長い目線で向き合って治療していこうと思えたのである。

大丈夫、大丈夫。私は、よくなっていってる。
今日できることを、できた、すごい。私はここにいていい存在なんだ。
大丈夫、大丈夫。人間にはすごい力が備わっている。
きっと、治るよ。
そう思いながら、私は、私を、守っている。

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