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どうしたの、そんな顔して

 常から人の顔の造形や造作にまで興味がないけれど、見慣れたはずの顔がしょんぼりしていたらさすがに目を引く。人の髪型や化粧が改まったことに気づかず呆れられることはしょっちゅうあるが、それでも表情くらいは見ているものだ。

「どうしたの? なんか元気ないね」

 冷蔵庫から缶ビールを出そうとしていた父の顔を見て思わずそう言った。
 近づいてまじまじ見て、やっぱりなんだか表情に張り合いがない。思わず相手の両頬の肉をつまんでゆるく引っ張った。年をとって肉がそげたので触り心地はよろしくないし、皮しかのびない。おもしろくない。友人の子どもの頬のふかふか具合を知ってしまったせいか、どうやら頬の弾力への期待値が高すぎるらしい。ちなみに友人の子の頬は触れさせていただけるだけでたいへん満足している。つまんだりなどしない、ひっぱるなんてもってのほか。閑話休題。

 父の普段の表情は別に喜怒哀楽はそこそこある方だ。平生であれば普通の顔だろうなあと思ったが、今日という日はどうやらお疲れの様子だった。
 昔から仕事の疲れも愚痴すらもあまり家に持ち帰らない人なので、まあ原因は母だろうなあと思った。愚痴を言っているといらいらして腹が立ってくるので忘れることにしていると常からのたまう父なので、私が話の先を促したところで、言いたくなければ言わないんだろうなと思った。今回もきっと。

「そう? そうかなあ、そうかも」

 だから、そんな返事が返ってきて、すこし驚いた。自分で言っておいてなんだけれども。

「え、珍しいじゃん。疲れてる?」
「あー……疲れてる疲れてる。おまえのせいだぞ」
「えー。まだ何もしてないじゃん。頬は引っ張ったけど」
「してないから問題なんだろ」

 そんな軽口をたたき合ううち、父の表情がほんのすこしだけいつもの調子に戻ったみたいだった。母が原因だけど、あんまり口にしたくなさそうだった。私に関する母の愚痴が父に向けられて嫌な思いをしたんだろうなと思う。これに関しては私ができることはなにもない。聞いた方がよさそうなら訊ねるし、そうでないなら聞かない。
 冷蔵庫にずらりと並んだアルコールの缶へちらと視線をやって、「今日はなに飲むの?」と尋ねた。いくつかぽつぽつと会話をして、冷蔵庫の前で別れておしまい。
 冷蔵庫を離れていく父は、始め顔を合わせたときよりすこしだけ元気を取り戻していた気がする。私の気のせいかもしれないけれど。


 振り返って思うと、「どうしたの?」という問いに相手の表情を付け加えると逃げ場がないのかもしれないなあ、と思い至る。
 もしもこのとき、「なんか元気ないね、大丈夫?」って私が聞いてしまったなら、「なにが? 大丈夫だけど」と返されてしまったのじゃないかなあと気づく。気のせい、と流されてしまえばそれまでだ。踏み込むなと言われるものへあえて突っ込む人も多くはいるまい。
 しかし、「どうしたの」に加えて相手の表情がどう見えるのかと添えると、どうしてその表情をしているのか相手は答えなくてはいけなくなってしまうのかもしれない。たとえそのとき本人が自分の表情に気づいていても、気づいていなくても。浮かべられた表情に、自分が今問われるまで考えていたこと、思っていた感情に、強制的に向き合う必要ができてしまうのかもしれないな、と。
 自分の顔に浮かんだ言語化されない表情は、他者によって表現されて初めて言葉になるのかもしれない。もちろん、表情を自分でコントロールしている場合には自分は今こんな表情をしている、こんな顔に見えると認識できているのだろうけれど。

 「大丈夫?」と問われたら、「大丈夫じゃない」とは言いづらい。きっと口からは慣れたような「大丈夫」がなめらかに口の中に滑り落ちるだろう。
 けれど、「どうしたの?」と問われたら、なんでも話せてしまうのかもしれない。話していいのかもしれない。もしも言いたくないと思っているときには、返事に困るような問いかけになってしまうのかもしれなくても。

 実際に、父からはよく「どうした、そんな顔して」とあいさつついでに言われることが多い。そんな顔とはどんな顔だ、と機嫌が悪いときには思ってついにらみつけてしまうが、喜んでいたり嬉しいことがあると問われたついでに話し出してしまう。聞いてくれと言わんばかりに。
 きっと、喜怒哀楽のバロメーターがわりになっているのだろう。それにしても自分、わかりやすすぎる。
 学びというには大げさだが、そんな気付きをすこしのやりとりではからずも得てしまったようだ。

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