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摺り合わせ

人が作った物の中で何が一番好きか、話しながら酒を交わせる友人がいる。また別の日には、「付き合う」ってどういうことだと思う、と問われたことがあったが、私達の間で大まかなイメージは一致していた。付き合うって、生活を共にすることだ。相手のことを一番に考えるとか、いつも味方でいるとか、本心をさらけ出せる関係であるとか、人によって浮かぶ言葉やニュアンスはさまざまだろうけど、私の中では、生活を共にすることが「付き合う」なんだと、随分前から結論づけられている。同居を意味しているのではない。もっと狭い狭い世界の話で、恋は盲目なら、その穴へ落ちたところから始まって、両目ともに視力2.0で相手の生きる姿を見つめられる目を持つところへたどり着くことだったり、そこへたどり着いてから始まるようなことだったり、すると思う。名のあるパティシェがこさえた宝石みたいにキラキラ芸術的なスイーツなんかじゃなくて、食パンの耳が余って思いつきで油で揚げて砂糖まぶしたらラスクっぽいのができて、意外といける、みたいな。運命の出会いだ、絶対こいつしかいない、みたいなのじゃなくて、何はともあれ、今一緒にいたいから一緒にいる、みたいな。優しくてかっこよくて趣味が同じだから好きなんじゃなくて、うまく説明できないけどこの人良いなあ、みたいな。網目の細かいふるいにかけるような、長い時間かけて少しずつダマをなくしていくような、そういう作業なんだと思う。画面の向こうのドラマじゃない。舞台上じゃ、スポットが当たれば眩しすぎて目を開けないし、スポットの当たらないところは真っ暗闇で何があるかも分からない。すぐに解こうとしても解けない。全てを解こうとしても解けない。粗い櫛じゃそもそも通らない。結び目を少しずつ少しずつほぐして一本の糸にしたり、こりゃ固すぎて無理に取らない方がいいなってそのうち気づいて、敢えてそのまま置いとくことにしたり。生活を共にするってそういうことだと思う。きっとこれ、読んでもわけわかんないね。けどそう思う。たぶん私は、解像度のことを言いたいんだと思う。本当の、そのものに近いかたちで、ものごとを感じ取れること。それを良しとできること。円と円が接するように、相手の姿を見つめられること。見つめ合えること。侵食せず、遠く離れず、認められること。たとえ一つ屋根の下に住んでいても、それぞれの暮らしはある。血が繋がっていても、いなくても、どんな好きどうしでも、絶対に他人だから、それぞれの暮らしがある。それぞれの寂しさがある。きっと、孤独と孤独のすり合わせなんだと思う。それが付き合うということなんだと思う。

私は、恋人にプレゼントを贈るのが苦手だ。正確には、「それらしい」ものを選ぶことがとても苦手だ。想像が出来ないのだ。私の選んだブランド物の財布や時計を手にした相手の生活が、次の日から少しだけ彩られるのが。分からない。確かに、毎日身につけたり、頻繁に手に触れるものなんだろうけど、その先にある生活が読めない。あってほしい生活が見えない。どれを選んでも同じような気がして、選べない。恋人だからいつも高価なものを贈り合わなければならない風潮も、何となくもらったものと同程度のものをあげるのも、苦手だ。ネットで検索した平均値をもとに予算を組んでも、私は全然ダメだのだ。よし、予算は3万だ、と意気込んだところで、「3万円くらいで売られているもの」しか相手に贈ることができないのを窮屈に感じてしまう。私は性根が面倒くさいので、意味があるものしかあげたくない。できるだけ意味があることしかしたくない。自分には良さは分からないけど相手が好きだから、とか、予算に見合った範囲内で選んだらこれになった、とか、が苦手だ。出来るなら、これをこのひとにおくりたい、という気持ちだけで選びたい。そして、水筒を贈った。一番良いと思ったやつ。どんなに良質なものでも、水筒に驚くほど高いものはない。けれど、たくさん考えて、それを贈るべきだと思った。その中で一番良いと思うもので、長く使えそうなのを選んだ。初めてだ。「それらしさ」から離れて選べたのは、初めてだ。そうしてちゃんと、その人の生活に繋がった。それを贈ることで、その人の暮らしにほんの少しの彩りを足すことができた。それが嬉しい。時々は「それらしい」ことをするのは楽しいというのも知っている。けれど、生活を共にする中で、その一部になりうるものを贈り、喜んでもらえることが、とてもとても嬉しい。一等嬉しい。

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