生身の体温
謝るたびに傷ついている。そのごめんは、「こんな人間でごめんなさい」の「ごめん」だから、発するたびに、私は私の喉元を自ら突き刺している。やっぱり私は間違えたのだろう。いや正しかったのだ。運命の人がいるとして、たった一人との出会いによって人生が救われることがあるとしたら、それはもう人間じゃない。幻想だ。相手が別々の人間である限り、そんなことは起こるはずがない。他人と他人が一緒にいて少しもさみしくないなんてありえない。それは諦めではなく、事実で、学びだった。私はそれをよくよく知っていたはずだ。それを承知の上でなお人と生きたいと思えた時にはじめて、もう大丈夫だと思ったはずだ。彼だって運命でもなんでもなく生身の人間というだけなんだよ。私は正しかったじゃないか。私が悩み抜いて辿り着いた答えを、簡単に人に明け渡してはいけない。私はよく噛んで飲み込まないと何もわからない。飲み込んでからじゃないと、自分にとって良いものか悪いものかの判断もつかない。ちょっと口に入れて舌の上で転がしたくらいじゃ、全然分からない。自分の身体に一旦取り込んで、己の一部にした後で、腹を下したりする。そうしてウエッと吐き出したり、自身の血肉にしたりする。だからその過程において、どこまでがほんとうの自分で、どこまでが消化中の物事か、よく分からなくなって、戸惑うのだ。
言ってはならないことを言われた。電話を切ってから、酒を飲んでいたと知った。ああ。またか。飲んでいる時はそういう話しないように気をつけているのに。しかし、飲んでいることを知らなければ私は気をつけようがない。
嫌いで、どうでもいい、切り捨てられる人とのことでわざわざ悩んでいるのではない、大抵の悩みは他人と自分との間にあって、その人が自分と切り離せない相手だから、人は悩むのに。私が悩むときはいつも、行動単位でしか相手を憎めないケースだから厄介だ。行動は咎めても、その人自身を否定できない時に、悩むのだ。私は一度好きになった人を嫌いになれない。どんなに嫌いなところがあっても。嫌なところない人なんていないのだから。嫌なところがあるのは、適切な距離感が取れていないというだけのことだ。だから、ひたすらに関係性と距離感の調節をし続けるだけ。個人の性格というのは、以前書いた「島」の例で言うならば、気候や天候に当たると思う。嵐が起こったとき、嵐を止めるにはどうしたらいいかなんて考えないでしょう。嵐が起こって不安な島の住人に対して、こちらの島では適温ですなんて、わざわざ知らせないでしょう。矯正しようとしないで。私も正しい、あなたも正しい、そこに優劣はない。ちがうというだけなんだから。
話したいこと、話さなくてはいけないことが増えていく。話せないこと、話さなくていいことも増えていくんだろう。相手が生身の人間である以上、なんでも話せるなんて嘘だ。私達は所詮付き合いたてで、まだまだ恋愛の域を出ていなかったのだろうから、仕方がない。それでも人を好きになるって素晴らしいことだよ。私はそう思うよ。過去に書いたnoteたまたま読み返して、改めてそう思った。やっぱ宇多田が言ってるのは本当でさ。一人で生きるより、永遠に傷つきたい、そう思えなきゃ、楽しくないじゃん。ねえ。
悲しみ尽くしたら、傷口から自然と怒りが湧いてきて、ああ、怒れる元気あるんなら、段々取り戻せてきてるんだなって思った。怒りに燃えている時、一番生きている心地がする。ちゃんと自分を守るために心を費やせていることに安心する。大丈夫だ。喧嘩上等、この人とは意義のある喧嘩ができる。そういう信頼がある。付き合って5ヶ月、ようやく幻想でなく彼を捉えられた気がして、また少し目が見えるようになったなと思った。
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