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たいせつ

よくあるJPOPの歌詞みたいな単純な言い回しをなかなか好きになれなくて、正直小馬鹿にしていた。「意識高い」に「系」がつく人たちを見る時と似たような気持ちで距離をとっていた。だけどこの頃は思う。誰かと一緒に過ごす喜びを表現することの、なんと難しいこと。私は考え事が多い。ひとりでいるほど思考は進む。思考するには言葉を用いる。孤独を守りさえすれば、言葉は湧いて出てくる。だけど、好きな人と一緒にいると、考え事をあまりしなくなる。私はそれが少し怖い。ひとりでいることで心が乱れているとそれを言語化しようとムキになれるのだけど、好きな人がいることに喜びを感じているうちは、心が整っていると思い込んでいるうちは、それを表現するための言葉は思いつかない。思考が止まる。ただ暮らしがあり、続いていく。これまで心を散らかし続けてきたせいか気がつかなかったけれど、私は心が整っている時には何も言い表せなくなるのかもしれない。ここ何年も、絵を描く時はいつもそうだった。何か作りたいと思い立っても何も描けなくて、強く心を揺り動かされるような出来事がないといけなかった。その衝動は、喜びでも悲しみでもよくて、人生の伏線を回収できたと実感した瞬間とか、気持ちが翳って深い穴に落ちて戻れなくなった時とか、大きく心に動きがある時にしか絵を描けなかった。どうやら言葉も同じらしい。私にとって、生活を共にすることこそが恋人とのお付き合いで、普段どおりの暮らしを全うできるということは、つまり、今まで乗りっぱなしだったジェットコースターのスピードが緩められて景色を見る余裕ができるようなことで、多くの衝動に出くわすことではない。そう考えると、一時でも孤独から離れると言葉の選び方を忘れてしまいそうで、自分のことを分かっておけなくなりそうなのが、怖い。そうして、この頃は整然とした気持ちも言い表せるようになりたいと思うようになった。もうずっと前から習慣で、常に考えている。自分の状態。感情の正体。その後ろには何がいて、先には何がいるのか。今抱えているものは何なんだろう。どう言葉にすればいいんだろう。ひとりでなくなると途端にその感覚が鈍り、輪郭のぼやけた物言いしか出来なくなってしまう。克服したい。自分の気持ちも分からない人間になるのはイヤだ。そう思った時、馬鹿にしていたようなJPOPの歌詞にもなんだか敬意を覚えた。言葉にするって物凄い努力だ。
後で読み返したら恥ずかしくて死にたくなるかもしれない。でも私は、自分がそのとき好きって思うものやひとに対しての、気持ちそのものをきっちり行動として昇華させておきたい。心や考えは移り変わるけど、その時その時、そうして過ごしていきたい。たいせつ。何日も何日もずっと考えて、一番ぴたりと来た言葉だった。大切。大切って、こういう気持ちのこと言うのかもしれない。私は、少なくとも今この瞬間の私は、私の好きな人との時間、生活のこと、尊いなって思っている。たいせつに思っている。たいせつにしてゆきたいと思っている。大切を辞書で引いてみる。もっとも必要であり、重んじられるさま。もっとも必要。暮らしの土台。私を日々悩ませるもので構成された円グラフがあるとして、その構成要員としてではなくて、その円グラフがそもそも安定して継続的に運用されるための土台。いつも通りに悩んだり悩まなかったりしている自分でいたり、いたい自分に戻るために、もっとも必要な土台。たいせつ。SMAPのたいせつという曲、すごく好きだった。愛と生活のことだなと思った。やっぱり。

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