Twitterの内容深掘り②

今回はこのTweetについて少し詳しく書いていきます。


絵はデッサンを重ねたり、好きな絵柄を模倣してみたり、自分の好みを追求して描いていったりしていくうちに、描き慣れた線や記号化された角度等、洗練されると共に手慣れが画面に表れてくるように思っていて、

私はそれに抗いたくなる。
敢えて崩したり、安定感のないラインを模索してみたり、絵を描くことも私にとっては検証対象なのかもしれない。

(漫画の場合はまた別です。先に内容の目的があって描くので、それに伴って同じ様な表現を繰り返したりします。)

出来れば一回描いたようなものは二度と描きたくない。

記憶は薄れていくから、またそのうち似たようなものは描くんだけども。

職人は凄いと尊敬するけれど、私はなりたいと思わなくて、
鍛錬して常に安定した絵柄やオリジナリティみたいなものを磨きたいと本気で思えない。

そうゆう姿勢は文字を書こうとする時の私とは少し違う気がする。

書いた文字による相手の反応等も検証対象なのは変わらないのだけど、文字を書く時は共通概念や定義等を意識的に考えて組み立てようとする姿勢で。
左脳。

絵を描く時は無意識領域の開放、相手がどう受け取るかを考えるより出来るだけ自分の脳内をダイレクトに白紙に反映させたい。
右脳。

実際は右脳も左脳も混ぜて使ってるんだろうけど、表現媒体による経路の違いを感じる。

話が少し違う方向へ流れたけど、今私がnoteで漫画も小説もYouTube動画も音楽等の制作も全部表現しているのは、そうゆう内的理由によるもので、
上手くいく結果のみを求めて動いてなくて、失敗や上手くいかないことも沢山結果として自分の中に蓄積したい。

失敗等を判断するのはその場のものでしかない。
その時に失敗と思えたものが後の大きな失敗を防ぐかもしれない。

もっと正確に言えば、失敗も成功もない。

事象に対する意味づけは人の数だけ存在するし、人は自分で認識しているよりも自分に都合の良い生き物だと思うから。

「人間万事塞翁が馬」の様な考え方だけど、ずっとそう思って生きてきた。

それに、冷静に考えて実現困難に思えることに、とにかく取り組み始めて、「さて、どうやってこれだけの課題をクリアしていこうかな」と自分で考えて動いていくのは楽しい。


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