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月、満ちる、懸ける⑥
「悪い。今すぐ出ていくから」
すりガラスの向こうにミチルの全身の輪郭がぼんやりとあることが目に留まった俺は慌てて背を向けて脱衣所を後にしようとした。
ガラス1枚の距離。今すぐにでも割れてしまいそうな俺の心臓。
「いいよいいよ。私、もう出るから」
「はっ?お前、ちょっと待てって……――――!」
ミチルの動きには1秒の躊躇いもなかった。逆をいえば、俺には1秒以上の躊躇いがあったということになる。
月、満ちる、懸ける⑤
ミチルの歌声は風呂場のエコーでも十分だたったが、逆にエコーなんてものは必要ないとさえ思えた。外部の響きなんていらない。ミチルの腹や喉で震えているだけで十分なのだ。
帰宅する俺の耳に、さらにミチルの声が近くなった。耳を塞ぎたいくらいだ。しかしながらそれから逃げるのも癪に障る。俺は「なんてことはない」とばかりに堂々と、せめて汗が吹き出ている顔だけでも洗ってやろうと洗面台のある脱衣所へと向かった。
月、満ちる、懸ける④
それから俺とミチルの世界は真っ二つに分かれたのだ。
ミチルの歌声を聴きたくない俺は、ミチルの隣で歌うことをやめただけでなく、歌うこと自体をやめてしまった。俺の出せなくなった音を、微笑みながら世界に浮かばせ、舞わせるミチルなんて見たくなかった。
せめて地声じゃなくても、裏声で出せたなら。そして俺が、1オクターブ下がった声を許せていたのなら。
しかしそんなことを考えることすら無理だった。なぜな
月、満ちる、懸ける③
「あれ。カケル、声低くなった?」
「…え」
いつもの朝食風景。
先にテーブルについてバターロールをフルーツヨーグルトにつけて食べてるミチルに、いつも通り「はよ」と首を鳴らしながら声をかけた時だった。
ミチルの指摘に思わず自身の喉仏をしめつけるようにきゅっと触れてみる。気にならなかったと言ったら嘘だった。常に風邪をひいているみたいな違和感はあった。だけどどこか自分の声は低くならないという自負
月、満ちる、懸ける①
躍動する。血潮がとめどなく、逆流しないようにとばかりに足を、必死に前へと、地面を蹴る、蹴る。前へ進むしかない。どれだけ自分自身を削ろうとも、迷いあぐねてうずくまるよりはいいと言い聞かせ、今日も走る。
常に振り返らず、未来へ向けて駆けてるつもりなのに、しかしなぜ逃げているように思えてならないのか。
砂埃まみれのサブバッグのショルダーを握る手に力が入る。
早く風呂に入って汗と後悔を洗い流したい