ドイツで虫を殺したら仏教思想に辿り着いた話
こんにちは、にかです。例によってサムネイルは適当なフリー素材です。
僕の住んでいる寮は10階です。ドイツを含む海外の多くの国では、0階から数えますので、日本でいうところの11階に当たります。
ある朝目が覚めると、グレゴール・ザムザは(←この書き出しをしたら思い出してしまいました。今年はカフカ没後100年らしいですね) 薄いカーテンを突き抜けて、身を突き刺す嚠朗たるラッパの音のようにドイツの日光が絶えず鳴り響いていました。空気は多数の層につつまれて亀裂を生じて澱み、窓越しに見える都会的なビル群はめくるめく青空の背景に象嵌されて身じろぎすらしません。4月の朝はとても暑いようです。
暑すぎるので仕方なく起き上がり、窓の方へ近づくと、一匹の虫が窓枠のところへ佇んでいました。
僕は虫が嫌いです。もちろんすぐにスプレーを噴射。
彼の命は散ってしまいました。
さて、ここで僕はこんなことを考えました。つまり、今僕が殺生したこの虫と、日本で僕が日々見ていた虫との違いはなんなのだろうか、と。
もちろんこの二者は確実に完全に違う存在であり、生きている時間軸持ちがければ存在している場所も違います。そもそも場所という概念が存在するのか?という物理学的な議論はここではいったんさておき…ここで僕が問題にしたいのは、絶対的に違う存在であるはずの二物を観測している僕は一人であるということです。
「テセウスの船」と呼ばれるパラドックスをご存知でしょうか。
テセウスとはギリシア神話に登場する、伝説のアテナイの王様です。
彼の名を冠したこのパラドックスの概要を、Wikipediaから引用してみましょう。
なんだかややこしいですが、つまり、テセウスが乗っていた船を人々は長年保存していたが、船が老朽化するにつれてどんどん新しい部品に交換されていった。やがて全ての船の部品が新しく交換され、テセウスの時代の船の部品は全くなくなってしまった。さて、この船はそれでもテセウスの乗っていた船であると言えるだろうか?というのが問題になっています。
ある意味で哲学的なこの問いには、明確な答えはないと言えるでしょう。
さらにこれにつけて思い出すのは、船は「2隻」あったッ!です。ご存知の方も多いと思いますが、ジョジョの奇妙な冒険第5部に登場する有名なスタンドです。奇妙にもこのエピソードにおいても、ジョルノ・ジョバーナの『ゴールド・エクスペリエンス』で生み出したハエが物語の重要なキーとなっています。
さて、ジョルノ一行の乗っていた本来の船と、敵のスタンドの作り出した船は完全に同じであると言えるでしょうか?ジョジョを見たことのない方は、今すぐに五部を見ましょう。
以上のパラドックスを踏まえると、僕が日本で見た人間とドイツで見た人間は全く違うものであると断言できますが、日本で見た虫とドイツで見た虫が本当に違うものなのかどうして断言できるのでしょうか。われわれは殊に同じ種類の一匹一匹の虫を区別する術を持ち合わせていません。
仏教的な輪廻思想のことを言っているのではありません。しかし臨済義玄の言ったように、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得んという言葉は、このまま虫にも転化できるような気がしました。これはいわゆる「殺仏殺祖」という、自分に迫る恐ろしさにはどんなものでも立ち向かわなければならない、という禅の教えです。
初めてこの教えを見た方は、その字面に驚くでしょう。しかし、禅や仏教は道徳的観念の思想の上には成り立ってはいません。仏を殺すことが悪いだとか、父母を殺すことが悪いだとか、そういうことは一切問題にならないのです。大切なのは悟りの境地に至るという結果なのです。そこに「死」が介入することによって、悟りは極限まで美しいものになり得る、というのは完全にぼく個人の意見ですが…
しかし実際のところ、例えば三島由紀夫『金閣寺』では、和尚さんが猫の首を思いっきり跳ねてしまうシーンや、大傑作『午後の曳航』においても有名な猫殺しのシーンがあります。また寺山修司がいみじくも述べたように、20世紀の日本において一番多い殺人の種類は近親間によるもの、つまり親殺しや子殺しだったのです。そんな彼は傑作『田園に死す』の中で、祖先殺しに向き合いました。
というセリフは有名です。ホラー映画ではありませんが、冒頭から一貫してかなりかなりかなり不気味な雰囲気が漂っているので、夜に一人っきりで見るのはおすすめしません。というかそこら辺のホラー映画よりずっと奇妙で、軽くトラウマになる可能性すらあります。中学生の時に何かの機会があって見ましたが、最後まで見ることができなかったのを覚えています。ラストシーンは正直今でもよくわかりません。YouTubeで全編視聴できます。
ドイツの虫と日本の虫、この遠いように思われるふたつの存在の逕庭に、仏教的解脱を見出したような気さえしました。
虫に遭うては虫を殺す。虫の殺生を通して、解脱という自由の境地に達した僕は、今日も虫を見つけてはスプレーを振り回しています。美徳の成就のためなら悪徳をも利用する。これはまさに人間らしい振る舞いと言えるのではないでしょうか。
しかし全ての虫が絶滅し、かつ生態系にも問題がない、という理想的な世界は実現しないものなのでしょうかね。。。
本当はあと1万字くらい書きたいのですが、長すぎると読むのも疲れると思うのでこの辺で終わりにしておきます。
ドイツ留学体験記のはずなのに、9割ドイツに関係ない話をしてしまいました。
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