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めぐみ先生|短編小説

 黄土色をした斜面には顔を出したモグラがそのまま死んでいた。放射状に広がった触覚はむりやりかさぶたを剥がした傷口のように不自然なピンク色をしていた。小さな前足で必死に日光を遮ろうとしていたが、間に合わなかったのか。身構える前に銃殺された人間のようで薄気味悪かった。モグラは見慣れない生き物だった。大人になった今でも怖いと思うかもしれない。ぼくは小学二年生で8歳だった。うわっと大声を出して、登っていた斜面から転げ落ちそうになった。もうすぐ休み時間は終わりだった。親友のゆうとは先に校舎へ向かっていたが、ぼくの声を聞きつけて戻ってきた。「そんなところで何してんだよ、早く戻らないと先生に怒られるぞ」斜面に座り込んだぼくを連れ戻そうと彼も登ってきた。そして、モグラを発見した。ゆうとはぼくみたいに驚きはしなかった。ぼくの襟袖に手を伸ばす前に観察をし始めた。それから「これは滅多にないことだから言い訳できるよ」と言った。

 ようやく教室に戻ったのは午後の授業が始まって20分が過ぎたころだった。教室の前まで来ると冷静な気持ちに戻った。何も言わずに授業に遅刻したことを後悔した。先生が激怒すると分かっていたので、自分たちから中に入っていく気にはなれなかった。教室の外でしばらく立っていると、もえかがぼくらを指さして言った。彼女は先生に気に入られようとしていた。「先生、あの二人がきましたよ」担任が変わる前は仲良くしていたのに、裏切られたような気がした。ぼくもゆうとも、いつの間にか彼女のことが嫌いになっていた。長い髪を三つ編みにして、白いフリルのついた小洒落た洋服ばかり着ていることがよけい癪に障った。

「お前ら早く入ってこい。もうとっくに授業が始まっとるぞ」

「ごめんなさい」先に教室へと入ったゆうとは先生の前に出て謝った。

「みんなの前で何をしとったか言ってみろ」

 先生は背もたれに大きくのけぞり、足を組んでこちらを睨んだ。ゆうとは正直にモグラを見た話をし始めた。「今までモグラなんか見たことなかったんです…」「もしかしたらもう見られないかもしれないと思ったんです…」ぼくがあまりも驚いてしまったのでしばらく動けなかった事情も説明してくれた。話すのが得意ではなかったので、ぼくはゆうとの後ろに立って話の合間で頷いてみせた。先生は一通り話を聞き終わったところで「話はそれだけか?」と言った。ゆうとがもう一度「ごめんなさい」と謝ると先生は立ち上がった。そして、ゆうとの頬を平手打ちした。そのままぼくの方にもやって来て同じように平手打ちをしようとした。ゆうとの姿を見て怖くなり、うつむいてしまった。最初の一発は空を切り、近くにあった事務机に手の平がぶつかりそうになった。「何をよけとるんだ!」余計に腹が立った先生はぼくの胸倉を掴み二回も平手打ちをした。

 下校の時間までまだあと2時間くらいはあった。ぼくたちは反省をしろと言われ、廊下に立たされた。打たれた頬は真っ赤になっていた。ぼくは何が何だか分からなかったが涙が止まらなかった。ゆうとは悔しそうにしていたが、涙は流さなかった。時より先生の目を盗んでは「大丈夫か?」と心配そうにぼくの肩をさすってくれた。

 廊下の窓を開けた。秋の澄んだ薫りが漂う10月。風は踊り子のような姿でぼくたちの側で華麗に舞い、眼前に広がる果てしない大地へと連れ出そうとしていた。

「泣いてなんかいないさ」とぼくは言った。「へっちゃらだよ」

 下校時刻になってようやくぼくたちは教室に入ることを許されたが、すぐには帰らせてもらえなかった。この国に生まれた人間として礼儀作法だけは必ず身につけなくてはならないと言い始め、延々と説教が続いた。先生はまだ若かった。はっきりとは分かっていなかったが、20代前半くらいだったはずだ。ぼくたちと同じ土地で育ち、高校も大学も県外には出ずそのまま教員になった人間だった。いつも紺色か黒色のスーツを着ていて、革靴は艶めくほどに磨かれていた。「約束を守ることが人間として最も大切だ」というのが口癖で授業中だろうが休み時間中だろうが、いつだって言い続けた。ぼくたちはその最も大切と言われている事柄を破った。先生の道徳心を満たすための格好の餌食となってしまった。

「もう一回聞くけど、どうして授業の時間が分かっていたのに帰ってこんかったんだ?」

 先生は口答えではなく、ひたすら謝り続ける姿勢というものを求めていた。またモグラの話をすればいつまでも家に帰れないばかりか、今まで以上に制限を増やしてくるかもしれなかった。明日からの生活がより厳しくなってしまうことは避けたかった。その時の学校生活でただ一つの楽しみは昼の休み時間だった。もしも奪われてしまえばぼくたちには自由がないに等しかった。そう頭では分かっていたが、ぼくはゆうとよりも先に話を切り出すことはできなかった。

「モグラがいたからです」ゆうとは真っ直ぐに先生の目を見据えていた。その目を見てぼくはぞっとした。

「それが本当かどうかは分からんけど、だからといって時間に遅れていいわけではないだろ?」

「おれだって遅れるつもりはなかったです」

「はあ?」

「この先もう二度と見れなかったら後悔すると思ったんです」

「じゃあ、モグラ見ることのほうが俺の授業より大切なのか?言ってみろ!おい!」

 もう一度ぶたれることを覚悟したが、先生が襲いかかってくることはなかった。ゆうとはポケットからモグラの死骸を取り出した。土が付いたままのモグラは何も置かれていなかったまっさらな先生の机の上に広げられた。お腹のほうを上にしていたので、モグラであるかどうかはすぐには分かりづらかったが、ピンク色だった触覚が紫色に変色しているのが見えた。先生は腰が抜けてしまいそのまま椅子の上に崩れ落ちた。

 ゆうとは笑い声を漏らした。ぼくもつい口元が緩んでしまった。ゆうとはもう一度モグラを持ち上げて先生の胸元に近づけた。先生は大きな声で「ふざけんな!」と叫び、モグラを持つゆうとの手を蹴り上げた。生き物を粗末に扱うべきではない。先生は心が貧しかった。ぼくたちはロッカーへと走り、ランドセルを取り出した。何もできずにいた先生に向かってきちんとさよならの挨拶をし、今度はぼくがもぐらをポケットにしまった。ぼくたちは呼び戻す先生の声を聞きながら走り去った。明日からの生活はより厳しく不自由になることは確かだったが、そんなことはこの際気にしていられなかった。

 学校から離れないとまずかったので裏山に戻ることはできなかったが、帰り道の途中でぼくたちはモグラを弔うことにした。ゆうとの家の方が学校から近かった。その近くには小高い丘があって斜面は大きな野原になっていた。誰かの土地だということは確かだったが、畑でも農園でもなかった。斜面の一番下の方には大きないちじくの気が植えられているところがあった。ぼくとゆうとは二人で木の根元にちょっとした穴を手で掘った。静かにモグラを横たわらせ、先生の前でぞんざいに扱ってしまったことを謝った。「勝手に連れてきて、意地悪をしてごめんね」「ぼくたちを助けてくれてありがとう」せめてもの想いで、近くにあった小枝や石を集め、モグラの上にそっと砂を被せてから小さな墓標を建てた。野原の先には小川が流れていて、新しい命につながっていくことを二人して手を合わせて祈った。

 いずれにしても、先生とぼくたちは上手くいくはずがなかった。どちらかが悪かったという話ではなかったのかもしれない。1年生から2年生に進級するときぼくたちは大喜びした。一つは親友同士のぼくとゆうとが一緒のクラスになったこと。それに担任の先生は前から大好きだっためぐみ先生になった。学校という小さな世界の中でルールに縛られず自由奔放に過ごすことをぼくたちはずっと夢見ていた。めぐみ先生が突然いなくなるまでの半年間はまさにその夢が実現された幸せな日々だった。

 学校の敷地内には無限の可能性を秘めた裏山があった。モグラが死んでいたのもそこだった。休み時間の度にめぐみ先生はぼくたちと一緒になって探検に付き合ってくれた。春には山桜が一帯を囲み、満開の時も美しかったが、地面に散って絨毯のように広がるのもまた美しかった。めぐみ先生もぼくたちと一緒になって花見を楽しんだ。周りの先生には内緒という約束でオレンジジュースとチョコレート菓子も買ってきてくれた。夏になってから男の子はみんなパンツ一枚になり、肌を小麦色に焼きながら天然の池で水遊びをした。女の子たちはめぐみ先生を囲んで、近くで花を摘んだり草冠を作ったりした。もえかもめぐみ先生のことが大好きで、作ってもらった草冠を大切そうに筆箱にしまっていた。水遊びに飽きると、今度は昆虫採集に熱を上げた。アゲハチョウもたくさんいたので、みんなで捕まえては透明な虫かごに入れ、その羽根の模様をスケッチした。最後はちゃんと生きたまま自然に戻してやった。

 授業中でもどうにかして時間を作って、めぐみ先生はぼくたちを外で遊ばせてくれた。体育の時間はもちろんのこと、国語や算数の時間もやるべきことは限られていたので、短時間で集中して終わらせ、あとの時間は遊びにあてられた。ぼくたちは授業の時間に遅れるようなことはなかったし、勉強も頑張った。1年生の頃はゆうともぼくも丸っきり漢字が苦手だったけれど、めぐみ先生のクラスになってからは変わった。褒められることが嬉しくなって、1週間に1度行なわれる10問ほどの漢字テストで何度も100点を取った。その度にめぐみ先生はぼくたちの頭を撫でてくれた。先生の近くにいくとほんのりと甘い香りがするのが好きだった。

 あっという間に1学期は終わってしまった。夏休みの間、先生と会えなくなってしまうのは寂しかった。ぼくたちはめぐみ先生と少しでも特別なつながりがほしかった。ぼくとゆうとは作文が上手になりたいと嘘をついてめぐみ先生に文通を申し込んだ。彼女は喜んでぼくらの提案を引き受けてくれた。今まで手紙なんか書いたことがなかったので苦労した。学校では恥ずかしくて聞けなかったけれど、めぐみ先生のいろんなことを知りたいと思っていた。結婚しているのかとか、クラスで誰が一番のお気に入りかとか。内容のほとんどは自分たちのことではなく、彼女に対する質問だった。封筒に教えてもらった住所を書き、ぼくの家にたまたまあった切手を貼って手紙は完成した。郵便ポストに投函した時は本当にドキドキした。

 1ヶ月にも満たない短い期間ではあったが、ぼくたちは文通でやりとりをした。おかげで学校では見せないめぐみ先生の姿を知ることができた。彼女は教員になってからぼくたちが暮らす土地にやって来た。そうでなければ、もともと東京で暮らしていたのに、田舎でも都会でもこの半端な土地へとやって来るはずもなかった。年齢は20代の半ばで結婚はしていなかった。大学生の頃はデンマークの大学に留学をしていたことを知った。海外旅行をしたいと思っているが、仕事が忙しくてなかなかできずにいることも教えてくれた。何枚目かの手紙の中には留学していた当時の写真が入っていて、金髪の北欧人の中でにこやかな笑顔を浮かべているめぐみ先生の姿があった。その時は今とは違って長い髪を茶色に染めていたが、ぼくたちとしては黒髪のショートカットにしている今の髪型のほうが似合っているような気がした。先生のことを知れば知るほど、ぼくたちは早く2学期がやって来ないかと思った。

 5枚目の手紙を送ったのだが、めぐみ先生からの返信はなかった。2学期があと少しで始まるというタイミングだったので、きっと学校で手紙を返してくれるものだと思っていた。が、結局のところ返信はなく、2学期の学校にめぐみ先生の姿はなかった。代わりにやって来たのが今の担任である先生だったのだが、めぐみ先生が来られなくなった理由を聞いても答えてはくれなかった。今考えてみれば、家庭の事情や体調面で何かしらの問題があったとか、そういう理由を想像することができるのだが、小学2年生だったぼくたちにそこまで考えられるほどの経験や知識はなかった。子どもたちを遊ばせてばかりいる先生をクビにして、代わりに嫌がらせをするために厳しい先生を担任にしたものだとばかり思った。次の担任になった先生は2年生の他のクラスで副担任をしていた先生だったので、最初から担任になることができなかった落ちこぼれだと思っていた。なおさら憎らしかった。

 ぼくたちは先生のことを敵対視していた。宿題は意図的にやらなかったし、授業もまともに聞こうとしなかった。校長室に何度も足を運んでは「めぐみ先生をぼくたちの担任に戻してください」と直訴した。先生がぼくたちを嫌いになるのは無理もなかったが、物事を強制しようとするばかりで楽しみを与えようとしなかった。当然、こちらとしてもやる気が湧くはずもなく、いつまで経っても態度を翻すことはなかった。そういう理由もあり、初めからいがみ合っていたのだが、いよいよ事態は最悪な方向へと傾き始めていた。

 この頃のぼくたちは週末を唯一の楽しみにしていた。文通の時に知っためぐみ先生の暮らしている場所に訪ねていた。まだデジタルデバイスが浸透しておらず、インターネットを使える環境にはなかったので、二人で複雑な記号が散りばめられた地図を何とか解読して、めぐみ先生が隣町に暮らしていることを知った。冊子からちぎった地図を忍ばせ小さな自転車を漕ぎ、1時間ほどでそこに辿り着くことができた。もしもばったり出くわしてしまってはめぐみ先生に嫌われてしまうと思ったので、ぼくたちは物陰からめぐみ先生が暮らしているだろうと思われるアパートを見張っていた。

 初めて行った時は半日見張っていても誰も出て来なかったが、2回目に訪ねた時に2階の一室からめぐみ先生が姿を現わした。飛びつきにいきたい気持ちをぐっと堪えて見守った。近づくことができなかったので、元気かどうかはよく分からなかった。何回も訪ねている間に、めぐみ先生の部屋から男が出てきたこともあった。ぼくたちはめぐみ先生が風邪を引いて寝込んでいるのだと思い、心配になった。大家さんか近くに暮らす親戚が代わりに料理を届けてくれているのだと思った。ぼくたちも先生のために何かをしてあげたかったが、何もできないことがもどかしかった。

 もし新しい担任が学校で少しでもだらしないところを見せてくれるような人間だったら事態は好転していったかもしれない。髪型もぼさっとしていて、スーツなんか着ないでジャージで登校してくれたら先生のことも好きになれたのかもしれない。規則がどうのとか道徳はどうのだと言わずに流行の音楽について語ってくれたらよかったはずだ。先生からしてもぼくたちがここまで反抗的な態度を取らなければもっと自由な時間を与えてくれたかもしれない。座席も一番前にさせられず、体育の時間も追加の学習をさせられることもなかったのかもしれない。何かがぼくたちの間で噛み合わなかったわけだが、足繁くめぐみ先生のもとに通っている時に、たまたま学校以外の場所での彼を目撃してしまった。ちょうど先生は病院の駐車場から出てきたところだった。ぼくたちが抱いていた生真面目で厳格な先生のイメージは音を立てて崩れ去った。

 黒色のセダン車に乗った先生は窓を開けて、大音量でクラブサウンドを流しながら運転していた。灰色のパーカーを着て、首元には金色の太いネックレスをしていた。右手でダッシュボードに取り付けられた灰皿にタバコの灰を落しながら、背もたれに大きくのけぞっていた。前を走っていた車にぶつかりそうな勢いだったので、急ブレーキを踏み、何か怒鳴っていた。目の前を通り過ぎたのは一瞬の出来事だったので、先生には気付かれなかったが、ぼくたちの記憶には強烈なイメージが刻まれた。「おい、ゆうと見たか?」「ああ、間違いなくあいつだったよ」

 年に数えるほどしかなかったが、実験を行なうために理科室で授業をした日があった。何の実験をしたかはあまり覚えていない。部屋の後ろにあった棚の中に、殺虫剤らしきものが入っている小瓶があった。ぼくはたまたま先生や周りのクラスメートにバレないようにゆうとがポケットに忍ばせたのを見てしまった。その日の帰り道、さりげなく理科室で何を隠したのかを聞くと、ゆうとは胸の中にしまっていた想いの丈を叫んだ。

「これであいつのことを殺す」

 ぼくもそうしたいと思った。でも、怖かった。だから、ゆうとを思いとどまらせようと試みた。

「そんなことしたら、ぼくたちだって死刑になっちゃうよ」

「死刑になんてならないさ」ゆうとは言った。「給食に混ぜれば誰がやったかなんて分かりっこないよ」

 数日後の給食でぼくたちの当番が回ってきた。みんなの分をよそい終わったあとに、先生の分を用意した。先生が飲んだ味噌汁にどうやってゆうとが毒を盛ったか分からなかったが、彼は完了の合図をした。トレーに容器を乗せて運ぶとき、もっと緊張して手が震えるかと思っていたが、実際のところは何てことはなかった。いつものように「用意ができました」と言って運ぶのと変わりなかった。が、自分の席に座って食事をしようとすると嗚咽が込み上げた。先生が喉元を抑えて苦しみ出すのではないかと思うと怖くて仕方なくなった。今からでも謝って取りに行けば殺さずに済むと思った。近くにいたゆうとに声をかけてみた。「ねえ、やっぱりやめようよ」ぼくは必死だった。するとゆうとは「見てみなよ。今ちょうど汁を口にしたところだよ、もう遅いよ」と言った。

 食事を終えた先生は何事もなかったかのように食器を片付けた。それからしばらくは教室の中をうろうろ歩き、ぼくたちが給食を残したりしていないか監視をしていた。が、気付けば椅子に深く座り込み昼寝を始めた。今まで一度もみんなの前でだらしない様子を見せたことはなかったので、クラスの全員が困惑していた。給食の時間が終わり、普段なら掃除をし始める時間になっても動かなかった。先生と親しくしていたもえかでさえもうろたえるばかりで何もできなかったが、ただごとではない様子を察して、おそるおそる「もう昼掃除の時間ですよ」と肩を叩きにいった。先生は動かなかった。

 ぼくは怖くなって教室を飛び出した。ゆうとも走ってぼくのことを追いかけてきた。きっと逃げ出したところでどうにもならないことは分かっていたが、その場にいることが恐ろしくてたまらなかった。ゆうとはぼくよりも足が早いので、裏山に着く手前のめぐみ先生と楽しく水遊びをした池の辺りで捕まってしまった。池の水は薄汚い苔のように黒ずんでいた。ぼくは抵抗して腕を振り回したが、ゆうとは馬乗りに乗って肩をがっしり掴んで抑えつけた。

「落ち着けよ。今すぐ戻れば変な疑いを掛けられなくて済むから」

「でも、先生は」

「お前だってまためぐみ先生に会いたいだろ?」

「会いたいけど…」

「しっかりしろよ!今さら後には引けないんだからな」

「でも…」

「いいか、おれたちは何もしてないんだ!そういう風にしとけばいいのさ」

 その時、サイレンの音が聞こえてきた。ぼくは我に返った。救急車よりも先に教室に帰らなければせっかくゆうとが作ってくれたアリバイを壊してしまうことになると思った。

「早く戻ろう!」

「そうだよ、その調子だ」

 もみ合いになったせいで息が苦しかったが、そんなことは構っていられなかった。自分という存在が分からなくなるくらいに、無我夢中になって走った。こんなにも教室が遠く感じたのは初めてだった。サイレンの音はまだ少し遠くにあり、学校には到着していないようだったが、教室に入る前に近くにあった駐車場に普段はあまり見かけない車が停まっているのを見かけた。それに、教室に辿り着く前に他の先生に止められ、近づくことはできなかった。

 あれから15年後の今、当時のことを知ろうと町の図書館で古い新聞を漁ってみるとあの日の翌日の新聞を見つけることができた。

20代の女が教師一人を刺殺。男女間のトラブルか。児童らは事件の前に容疑者に脅され別の教室へと移動させられており、殺害現場を目撃することはなかった…



 

 

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