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高校生論理哲学コンテストに出たときの作品です

詩人アイスキュロスの言葉についての独自の考察
                                


「畏怖すべきものをすっかり国外に放り出してしまうようなことをしてはな らない。死すべき命の人間の身で恐れるものが何ひとつないようになって、 なお正道をふみはずさぬ者が誰かいるだろうか。」 


畏怖すべきもの、この言葉を見てイメージしたものは「何かとてつもない化け物」だった。それはそうだ。「畏れる」に「怖い」と書くのだから。

「畏」は「おそれる。かしこまる」という意味がある。「怖」は「おののく」という意味がある。「畏怖」とは「おそれ、かしこまる」という意味がだと思う。実は「畏」という漢字には「うやまう」という意味がある。そう考えると「畏怖」という意味には「おののくが、とても敬う」という解釈ができると思う。畏怖すべきものというのは「とても怖く、恐ろしいもの」ではなく「おののくがとても尊敬できるもの」ということになる。

そんなものあるだろうか。確かにおののくものと言われれば鬼を想像するが、鬼を敬えるかと、言われれば無理な話である。おののき且つ敬えるものとは一体どんなものがあるだろうか?

封建政治の時代は「神」「国王」という存在が畏怖すべきものだったと思う。これらの存在に対し人々は恐れおののき、またその力の絶大さに敬意を評した。しかし、19世紀に起きたフランス革命を始めとした市民革命によって封建政治は崩れ去っていってしまった。

それと同時に畏怖すべきものもなくなっていってしまった。では今の時代はどうだろうか?「神」という存在はそれを信じる人々にとってはまだ畏怖すべきものだ。しかし封建政治の時代より神を信じる人の人口は減っただろう。そう考えると、世界人口の大部分が「神」を畏怖すべき対象とみなしていないということだ。ならば他に畏怖すべき対象はあるのだろうか?

「愛」ということも畏怖すべきものにはいると思う。性的な欲求を求める愛ではなく、理性的な愛はただお互い愛し合うのではなく互いに尊敬し合う必要がある。自分も「愛」を相手に押し付けてはいけないし、相手もそうしてはいけない。互いに尊敬し合うことが必要なのだ。なので「愛」も畏怖すべきものだ。

「愛」というものは人間本来に備わっているものなので、どんな時代でも人間が存在しうる限りいつまでもなくなることはないだろう。他にも人間が今でも恐れ敬うものはある。それは自然だ。昔から現代に至るまで人類は自然なしでは生きてこれなかった。そして「自然」の力の絶大さに恐れおののき、敬意を評した。

これもまた畏怖すべきものだと言えるだろう。それを再認識するきっかけになったのは東日本大震災だろう。絶対安全と言われていた津波堤防を難なく飲み込んでいった。

日本国民は自然をなめてはいけないということがわかっただろう。当時小学一年生だった自分でさえ、自然に対しての畏怖と同様の気持ちを抱いたことを覚えている。

(続く)


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