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自分のために作る、食べる

Photo by Gaelle Marcel on Unsplash

いわゆる「独り暮らし」であるということが分かると、多くの人は「食事はどうしている?」と尋ねてくる。50代の男性が毎日の食事をどうしているのかは、僕より上の世代の人からも、同世代からも、若い女性にも、学生にも、世代性別関係なく尋ねられる。外国の人からは訊かれない。文化が違うのだろう。日本人にとっては気になることらしい。その気持ちは分からなくはない。外食メインで生活しているのか、はたまた自分で作っているのかどうか、あるいは別の選択肢もチラと頭に浮かぶのか(笑)…

そんな時は「食べてますよ」と答えることにしている。すると約半分の人は実際にはそれほど興味がないのか、あるいは僕が答えを宙に浮かせたことで少し居心地が悪くなるのか、話題を変えるのだけど、「自炊?」などともうひと押ししてくれる人もいる。そこまで聞かれると「はい、一応」と答える。そうすると、安心したのか、そこでだいたい話が終わる。僕はその時、はてそれであなたには何が分かるのだろう、とも思ってしまう。

どうして僕がはぐらかすような答えをするのか、について自分なりに分析すると、ひとことで言えば、自分が日々の食事をどうしているかについて他人に誤解なく伝えようとすると、いろんなことを説明しなければならなくなるのが分かるからだ。社交辞令のような、挨拶のような短い会話の中に、それはとても納まりが悪い。

なぜなら「自炊」という言葉には「ちゃんとした料理ができる」という暗黙の意味が含まれているように思うのだ。そして、それが僕にその言葉を使うことを躊躇させる、させてきた。僕の料理は「自炊」と言えるのか「自炊」と「自炊でない」との境界はどこにあるのか。そんなことを考えて途方に暮れてしまう。なので「一応」とか「まあ適当に」とか付け加えるわけだ。つまり、相手に「自分は料理が得意です」という誤解を持たせないようにしたいという謙遜なる感情からなのだが、まあ誤解されていることは他に山ほどあるのだろうし、そんなに気にすることはないとは分かっているのだけど。

料理が好きかと聞かれたら、好きと答える。それは昔からだ。学生時代の一人暮らしの経験もある。料理は偉大な冒険であり、化学であり、驚きである。だいたい作るつもりのものから多かれ少なかれ逸れてしまって、着地点がいつも違う。そして僕は気分屋だからレシピを見て同じものをきっちり作る気がしない。それでもそれは毎日の中でも指折り数えるほどのセンス・オブ・ワンダーだと思う。失敗したとしても何とか食べられるのもいい。そしてまあまあ上手くいった時の充実感ももちろん素晴らしい。

現在毎日どうしているかというと、朝はシリアル、昼は市販のパン、晩御飯は自分で作る。自分で作ると言っても、大したものではない。冷蔵庫は小さく、しかもうっかり冷凍機能がおぼつかないワンドアのタイプのものを買ったものだから、作り置きなどをこまめにしない(いや、おそらくちゃんとした冷蔵庫があっても作り置きなど僕はしないだろう)から、その日使い切る食材でワンプレートで盛り付けられるようなものになりがちだ。カット野菜で野菜炒め、とか、玉ねぎを丸ごとひとつグリルするとか。それでも、これを自炊と呼べるのかどうかはいつも釈然としない。

そんな感じで単身赴任が始まって数ヶ月が経ち、いつも聞いているpodcast "Lobsterr FM"に、山口祐加さんという料理家の方がゲストで登場した。まず、小気味よく口角が上がった表情が目に浮かぶような話し方に耳を奪われた。それは、ホスト役の二人の男性の控えめでいつも hesitate 気味のハキハキとしない語り口(そこがまた素敵なので誤解のないように)の中で際立ったと言うのもある。

次に、彼女の肩書きがまた興味を惹く。「自炊料理家®️」とは?彼女のご両親の素敵なエピソードと共に、自炊料理家がどう生まれ、どう社会と関わってきたのかが良く分かって、いつも以上に引き込まれた。

そこで得た気付きは主に二つ。ひとつは「自分のためにご飯を用意することがセルフケアに通じる」という話。もうひとつが「自炊って、立派なものでなくても大丈夫」というメッセージ。ああ、僕も適当だけど色んな意味やレベルで負荷がかからない程度で自分の生活のためにご飯をつくる、ごく簡単なものかもしれないけど、少ない数の野菜やお肉などでパパッとスーパーマーケットで直感で見定めて適当に調理する。レシピ本も見ない。それでも「自炊」と言っていいんだ、という forgiveness をもらった気がした。それ自体が一種の癒しでもあった。

さて、そんな山口さんが『自分のために料理を作る−自炊から始まる「ケア」の話』という最新の著作の刊行記念イベントで僕が住む高松市に来るとの情報を得て、早速申し込んだ。

食は、生きていくのにどうしても必要なものの一つだ。「衣食住」という言葉があり、僕自身は長く「住」に軸足を置いて仕事をしてきているけれど、「食」も同じようにいろんな世界と繋がっている。つまり、社会の「問題」とも繋がっている。住と同じように、食を通して、その人の価値観や、世界観が見える。嘘がつけない。

僕は、そこに「野生」を見ているのかもしれない。遥か昔の時代から、我々が暮らしてきたことの本質的な部分というか、エッセンスというか、これだけ飽和した世界に「これだけあれば生きていける」という部分を探しているのかも知れないなと思う。もう少し結論は先延ばしにして、このぼんやりとした「関心」と付き合っていたいと思う。


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