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山田ピンポンショッキング②谷口司さん

第2弾!谷口さんのお話

地域の方にインタビューを行い、次の人を紹介してもらう。
「山田ピンポンショッキング」第2弾。

前さんからのバトンは、お米農家の谷口司さん(40)にまわってきました。
前さんとは違う年代から見た、山田の話を聞くことができました😀

農家を継ぐまで


生まれも育ちも山田の谷口さん、今年で40歳です。
ずっと山田にいますが、西区の伊川谷に結婚前に何年か住んでいたことはあるのだとか。

山田幼稚園、小学校、中学校と進んだ後、育英高校(長田区)に進みました。
谷口さん自身は野球部ではありませんでしたが、
甲子園に出た経験をもつほど強いチームだったようです!
現在もプロ野球で活躍している後輩もいるほどとのこと。

その後は、大阪電気通信大学 総合情報学部 情報工学科に進みました。
プログラムなどを学んだそうです。
どうしてその選択をしたのかを尋ねると、「受験勉強してなかったので、推薦で行けるところを選んだ」と教えてくれました😀笑

大学卒業後、就職はせず、家の手伝いとして農家になりました。
もともと、おじいちゃんは専業農家、お父さんはサラリーマンだったそうです。

現在谷口さんはお米のみを作り、家庭用に野菜を作っています。
昔はおじいちゃんが、お米、茄子、いちご(狩り)などを作って出荷していたようです。また、家で食べる用でブルーベリーも育てていたのだとか!

谷口さんが小さい頃に手伝っていた経験もあるそうで、機械で植えれないところ植えたりしていたそうです。
そして現在、自分の5歳の子供にも同じように、箱を置くのを手伝えってもらったりしているのだとか。

自分で自分の食べ物を作れるって、都会生活をしていた私からすると本当にすごいと感じます…。
インタビュー後、夏野菜のあまりをおすそわけしてもらいました…🥹

盛んだったいちご狩り

かつて周辺でいちご狩りをやっていた農家さんが何人かいたそうです。
その方々が辞めたのは25年くらい前。

原因は色々ありますが、年齢的な問題からやっている人が少なくなってきて、みんなやめたとのこと。
他の地域からも人が来ていましたが、土日しか来ないことも多かったようです。
また、当時は時間制限がなく、朝から晩までいる人もいたのだとか!
当時の人が羨ましいです笑

自然で遊んだ少年時代


小学校の今の時期はクワガタ取ったり、ザリガニをつって遊んでたそうです。
隣の村に住んでいる同級生や地元の友達からの情報を仕入れ、七社神社の奥の山に入ってクワガタ取ったのだとか。
小学生の行動範囲内でクワガタ取れる木を探していたんですね。

また、家の近くのため池でザリガニを釣っていたそうです。
スルメで釣ったら高いので、ちくわを餌にすることで節約していたそうです笑

釣ったのは特に捕まえたりせず、池に戻していました。
当時はもう外来種のアメリカザリガニがたくさんいたようです。

高学年の時〜中学生の時は
近くのため池や「かりん」という飲食店の近くの川などでブラックバス釣りに行ってたそうです。
衝原のダムは危ないから行っていなかったとのこと。

冬になり、外で遊ぶのが辛くなる時期は、誰かの家でゲームをして遊んでいたんだとか。
前さんの時代にはない遊びですね。

山田の学校の変化

谷口さんが小学生の時、全校で200人くらいの規模でした。
前さんの時と比べると、30年で人数が半分くらいになってしまったということがわかります。
1学年で45人で2クラス、2クラスだった最後の年と言われていましたそうです。

谷口さんの息子さんは来年小学生になりますが、山田小学校は人数が少ないから、どうしようか悩んでいるそうです。

自分の母校に通わせたい気持ちもありながら、人数少ないとかわいそうという気持ちも強いのだとか。
子供のことを考えると、とても難しい選択だなと感じました。

通学は自転車通学は禁止だったため、バスで行っていたそうです。
昼ごろのバスがないのも大変で、試験の後、1時間かけて歩いて帰ってきたこともあるのだとか。
しかし現在と比べると、それでも当時はバスの本数は今の倍あったそう。
感覚としては半分くらいに減ってしまったと感じているそうです。

人数、バスの本数、昔と比べると大きく変化しているということがわかりました。

山田に住んでいる理由?

高校も大学もずっと通いだった経験のある谷口さんですが、
山田からでたい、北区から出たいという思いはなかったそうです。
車に乗れる間は、不便さも感じてないとのこと。

大学時代、三宮も毎日通っていましたが、遊んで帰るなどはあまりなかったそうです。
真っ直ぐ帰ってきており、都会で暮らしたい欲がない、興味がない程度なんだとか。

お子さんが小さい時はアンパンマンミュージアムにいったり、ルミネに行ったりもするそうですが、
嫁さんの妹が西宮に住んでおり、そっちの方面に行くことが多いそうです。

山田も神戸なのに、三宮に行くことを「神戸に行く」という人もいるんだとか!
面積は6割ありますが、人口はほとんど町に集中しており、北区と西区は神戸市だと思ってない、という感覚の人もいるのかもしれないですね。

40代の感じる山田の課題は?

自分の世代がここに住んでる人が少ないこと、結婚してて30.40代はほとんどいないことを感じるそうです。
みんな北町や近くに住んでおり、実家に住んでいるのは、谷口さんの地域でも、谷口さん1人くらいだそう。

小学校時代の同級生世代は結婚してないと残るか、結婚して外に出るパターンが多いようです。
相手の親と住むことになるから、結婚する相手が嫌なのではないか?という考えをお持ちでした。

確かに、
「結婚相手の実家に、相手の両親と一緒に住むの、自分だったらどう?」
と谷口さんに聞かれた時に私も少し、考えてしまいました。

自分ごとで考えてみると、地域に住むことのハードルが確かにあるなと感じました。

そんな谷口さんは、家を継ぐことに対し、長男だからいずれそうなるかなと思ってたそうです。
奥さんは大都会出身ではないので、価値観が大きく違わなかったのかもしれないとのことでした。

山田に対する思い


親世代(60~70の世代)が死んだらかなり少なくなり、子供も同じ世代もいないので、谷口さん世代の人が帰ってきたらいいな、と思うそうです。
休みに帰ってきたりするけど、住んでくれたらいいなとは思うとのこと。

また、新しい方がくることに対しても特に抵抗はなく、すでに地域に新しい人何人かいるそうです。
しかし新しい人との関わりはかなり少なく、顔合わすことがそんなにないそうで、自治会で顔を合わせたり、車ですれ違う程度なのだとか。

祭りの賑わいが減っているのも感じています。
小学校の時は店がたくさん出ていましたが、30歳の時はもうすでにだいぶ少なかったそう。
神輿担ぐのも3つの地域が一緒になってやっているようで、とにかく人数少なすぎるのを感じています…。

まとめ

世代が違う方の話を聞いたことで、山田の変化をとても感じることができました。

また、自分ごとにして考えることで地域に住むことのハードルや課題をリアルに感じました。
山田ならではの文化や自然を守りながら、若い人も住みやすくしていく仕組みが必要そうです。




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