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自己啓発本を読まなくなってきた

この世のあらゆることを以下の図で表せるとする。

① → ② → 結果

例えば、掃除について、
①:部屋をキレイにしたいと思う
②:床を拭く
結果:キレイになる

大学受験について、
①:○○大学に合格するため頑張るぞと思う
②:必死に勉強する
結果:○○大学に合格する

つまり、①はきっかけや動機付けに相当するもので、②は行動や実践、そして最後に結果が出るという構図である。世にある自己啓発本のほとんどが①について書かれていると思うが、実際に重要なのは②である。なぜなら、部屋をキレイにしたいと思うだけで部屋がキレイになることはないから。このことから、多くの自己啓発本の締めくくりは行動を起こすことを促して終わる。「行動を促すこと」それ自体は①に繋がるのでやはり終始①について語られているといえる。

そもそも①が始まらないことには何も起こらないという意味で①は非常に重要だといえるが、自己啓発本をたくさん読むという行為は、たくさんの①を集めるに過ぎない。特に、マインドに関わるような抽象的な啓発本ほど、誰にでも当てはまりやすい内容である一方、直接②に繋がらないことが多く、①止まりになりやすい。なんとなく①を満たされるから読後感は爽やかでプラスの感情になるが、②は起きなかったりする。読んだだけで客観的に何かが変わることはめったにないが、それでもちらほら「この本のおかげで」と結果を表明する人が現れるのは、薄く広く誰にでも当てはまりやすい内容による単なる確率の問題だろう。また、後から振り返って「思えばあれが転機でした」と結びつけることは容易であるため、いかようにも言える。

では完全に①→②→結果を斡旋してくれるような内容のものが良いかというとそれも微妙だと思う。完全な斡旋の啓発本を読む理由は、完全にその人のようになりたいからだと思うが、おそらくそれは叶わない。なぜなら、自己啓発本を出版できるような「何かを成した人」というのは、①→②→結果を完全に斡旋してくれるマニュアルに従って成り上がった訳ではないから。普通の人とは違うことをやったからこそ賞賛され、本になっているのであり、仮にマニュアルに従って成功しているなら自分で本を出す必要はなく、そのマニュアルを紹介すれば終わる話である。もしマニュアルの紹介があったとして、そのマニュアルのさらにもとのマニュアルを紹介、、、というようにもとを辿っていけば、結局のところ成功のマニュアルなど存在しないことがわかるだろう。にもかかわらず、その人の本を読むことで再現よく同じような人生を歩めると信じ込んでしまうと、理想と現実のギャップに苦しむことになる。自己啓発本を読む理由は人それぞれだが、少なくとも誰かのようになりたくて読むものではないように思う。

①→②→結果の構図は宗教なんかでも見てとれる。ただし圧倒的に②を省いて説明されることが多いと思う。例えば、「他人には親切にしよう」という戒律を厳しく守る宗教Aがあったとする。この場合は以下の構図になる。

①:宗教Aを信仰する
②:戒律により他人に親切する
結果:親切された人から感謝され自分も幸福になる

こうして図を見たら、そりゃ人に親切すれば人間関係も良くなるでしょうね、ということがわかるが、宗教側からすると「この方はAを信仰したから幸福なのです」と説明できる。つまり、①と結果だけを結び付けて示すのである。宗教Aの活動が幅広かった場合、さまざまな②が存在する(意味のない行動や社会に悪影響を及ぼす行動なども含む)にも関わらず、都合のいい結果と①だけを結び付けた説明をすれば、信者を増産する仕組みが出来上がる。これを増長していけば、②がブラックボックスであっても、強い①に押される形で②を実行していく軍団が出来上がる。個々の②がどんな結果を招くか深く考えもせずに…。

話は逸れたが、重要なのは道から外れる精神だろうということ。教科書にお手本があって「こうすれば成功します」と書いてあれば、「じゃあ違うやり方で成功してみせてやる」というちょっとひねくれた反骨精神みたいなものが案外良いかもしれない。そもそも本になるような人間の多くは、普通の人から見れば異端児のように映るだろうし、そのような人と行動をそろえるということは、教科書やマニュアルに書いてあることをそのまま実行するのではなく、むしろ教科書やマニュアルにある常識から逸脱した行動を取ることだろう。ここで言う教科書には、成功者の自己啓発本も含まれる。その自己啓発本は、再現性が低かろうが、n=1の結果だろうが、成功への手順を示しているなら、それはもう立派なマニュアルであり教科書である。つまりそれすらも逸脱すべき対象だといえる。ただし、何にでも逸脱するという行動には必ず周りから非難がついてまわることに注意する。なぜなら、世間には教科書通りにすることが正しいという価値観が存在するから。それでも自分を貫ける人が成功する。

よって自己啓発本は読んでも良いけど、読んだときの感想としては「なるほどな。だが俺はこのやり方では成功しねえ。俺は俺のやり方でいく」とならなければならないと。結局、読んで参考にはしても内容をなぞらないなら、読む意味あまりないのでは?という結論に至る。それよりも②に関する本を読んで着実に技術なり知識なり身につけていく方がよい。「私が料理で儲けられるようになった理由」みたいな本ではなく「料理の作り方」の本を読む方が身に付くことは多く、行動に繋がっている。儲かるマインドの本を読んで本当に儲かるようになるかは知らないが、「カレーの作り方」の本を読めば少なくともカレーを作れるようにはなるだろう。

最後に、「マインド系自己啓発本に向き合わないマインド」の話を少し。
例えば「努力すれば必ず夢は叶う」みたいな発言を信じるのも自由だと思う一方で、信じない自由があってもいいと思っている。「努力しても報われない」「夢が叶うことはない」と信じてもいい。ただし、「努力しても報われないかもしれない。でも努力しないことにはそもそも何も起こるはずもない。だから粛々と努力はしよう」という思考をして強引にでも②に繋げる必要がある。理論上、②が全く同じであれば得られる結果は同じであり、最初に①を「信じる派」か「信じない派」のどちらに設定するかだけの違いである。重きを置くのはやはり②であり、①は何だっていい。だとすれば誰かの本でマインドセットを学ぶ必要はないだろう。どうも世の中では、ポジティブで肯定的な考え方をしている人が賞賛される傾向にあるが、それは全部①の部分の話であるからそこまで気にしなくてもいいんじゃないだろうか。ものすごく否定的で根暗なモチベーションを持っているけど素晴らしい結果をもたらすことだってあるだろう。極端に強くポジティブな①だけが正解だとは思えない。②に向かうために必要な①なのに、①で盛り上がるだけ盛り上がっておきながら②に繋がらないのは本末転倒である。①の盛り上がりだけで何故か達成感めいたものを得て終わる人も多いだろう。フォーカスすべきは②であり、探すべきは素晴らしい②の例である。自己啓発本のマインド的な部分に惹かれるなら、代わりに思想家の名著を読めばいいし、テクニカルな部分に惹かれるなら、代わりにその道のプロによる技術的な専門書を読めばいい。これが結論。

そんなこんなであまり自己啓発本は読まなくなってきた。
また時間が経って考えも変われば読むようになるかもしれないが。

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