ショートショート|おかしくはない
2階の部屋にいると、突然ベランダに大きく黒いものが落ちてきてもおかしくなかった。それはカラスで、頭がふたつあり羽は4つあってもおかしくなかった。
おれは驚いて尻もちをついてもおかしくはなかったし、その拍子に手に持っていたビールを床に落としてもおかしくはなかった。
空は晴れていて、春先のような風がふいていてもおかしくはない。目の前のベランダにある、このカラスのような化け物だけが違和感を放っていてもおかしくはなかった。それは本当に存在していてもおかしくはないし、実際に触れてみようと思ってもおかしくはない。
おれはガラス窓を恐る恐る開けてもおかしくはなかった。
ふたつある頭が同時にカアと鳴いてもおかしくはないだろう。そんな存在を感じてもおかしくはない。
おれの指先があと1センチでふれそうになると、突然そいつは羽ばたいたような気がしてもおかしくはなかった。
おれは再びしりもちをついてもおかしくはない。突然、滅多に鳴らないスマホがなった気がしてもおかしくはない。
画面には死んだ母親の名前が表示されていてもおかしくはなかった。スマホはいくら待っても鳴り止まないかのように思えてもおかしくはない。おれは意を決して電話に出るかのように思えたが、それは気のせいだとしてもおかしくはない。
「もしもし、母さん?」震える声でそういってもおかしくはない。
───スマホからは何も聞こえなくてもおかしくはなかった。
「もしもし?」
「あああああああああああああああーーー!」
静寂を打ち破るような断末魔がスマホから聞こえてきてもおかしくはなかっただろう。
おれは驚き、スマホをベランダの方に投げ捨ててもおかしくはなかった。スマホは手前のガラス窓に当たり、ガチャンと音をたててもおかしくはない。
しかし、その瞬間あのカラスがいなくなっているのに気がついてもおかしくはなかった。スマホの近くには黒い羽が1枚落ちていてもおかしくはないだろう。
おれはそれを拾い上げると、口にふくんでもおかしくはない。
塩辛さが口の中いっぱいに広がってもおかしくない。
苦味が広がっても、それが甘みだとしても、なにもおかしくはない。そんなことを考えていると、今度は足元に頭の3つあるハトが落ちてきてもおかしくはなかった。
そのハトがホロッホーと鳴くと、おれも一緒になって鳴いてもおかしくはない。3つそれぞれの頭を振りながらハトはくるくると歩いてもおかしくはないだろう。そしておれも、端から見ればハトみたいに見えてもおかしくはない。
突然、ハトが羽ばたくような素振りを見せてもおかしくはない。それを見たおれも、まるで羽が生えたように羽ばたく準備をしてもおかしくはなかった。
俺はベランダの手すりによじ登ると、ハトの動きに合わせて飛び降りてもおかしくはない。
この日なにがあろうと、決しておかしくはなかった。
というような妄想をずっとしていてもおかしくはないくらい、今日はとても暇だった。こたつから出てトイレに行きたい。
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