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新しい領解文「本来一つゆえ」が私に生んだ領解(5000字)

 発布から1年余が過ぎるもいまだ物議をかもしている、浄土真宗本願寺派の「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」。この中でずっとモヤモヤさせられている、第一段の「本来一つゆえ」について吐き出したい。そしてモヤモヤの中で自分が真宗理解について一つ考えたことがあり、今の自分の真宗の領解を、ここに示してみたい。


新しい「領解文」として発布された

改めて題材の紹介

 「領解文」や新しい「領解文」混乱の経緯などについては次の有志の記事で随時更新されています。

 「新しい『領解文』(浄土真宗のみ教え)」はこちらです。

 問題とする「本来一つゆえ」とは、件の新しい「領解文」の最初に、

南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声

新しい「領解文」

とあるもの。素直な心持ちを表すはずの領解表明で、初っ端から教学上の理屈を垂れることに、ピッと胡散臭さフラグが立たないだろうか。前後を見ずともこれだけで、玄関先の来客が壺を抱えて騙しにかかっているような、十分なほどの違和感があると思われる。文案のたたき台が、そのまま上へ承認されてきたような感がある。

 「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」 ――ここまでは、確かに自分もそう聴いてきた。人の頭では、汚泥であるはずの煩悩と、清浄であるはずのさとりが一つとは到底思えないが、仏から見た“本来”は一つだというのだ。本来一つとは例えば、“南に住む人がいつも見る富士山と西に住む人がいつも見る富士山は、違う姿であろうが、本来は一つの富士山”、とか、“10歳のAさんと60歳のAさんは、見た目は違うが本来は同じAさん”、のような話だ。本来一つ、そういうことか、うんまあわからないが言いたいことはわかる気がする。ちなみに教学上、人側から観た視点を約生、仏側から観た視点を約仏と言うのだそうだ。
 そこに、前から受ける内容を理由とする「ゆえ」を付けただけである。

一見問題ないようだが

 わかるようなわからないような話に、「ゆえ」を付けられた。立ち止まって、少し深掘りしてみよう。

 もちろん「本来一つゆえ」言える妥当とみられることもある。
 一卵性の双子は「本来一つゆえ」容姿や言動がそっくりだという。氷も雪も本来同じH2Oゆえ、融けると同じ水になる。日本人が見る大谷選手とアメリカ人が見るオータニサーンは本来同じ人ゆえ、日本人とアメリカ人で話が通じる。僕の空と君の空は「本来一つゆえ」つながっていることだろう。
 なら問題ない、そうなのだろう、しかも大宗教組織のトップが公式行事の中で宣言したものなので、なるほどハイわかりましたと人々が疑わずに受け入れてしまっても、特に不審な話ではない。むしろ、疑うほうが糾弾・破門されるだろう。

 結論から言うと、「本来一つゆえ」「本来○○ゆえ」は、事の順序・因果を無視する論法で、人の知能の認識を惑わす。仏教の特徴であると言われる、「縁起」すらを無視する考え方だ。
 本来一つ「ゆえ」が通用するなら、この人間世界のすべてがひっくり返る。なぜなら、他でもない仏法が、あらゆることは「本来一つ」と説くが、もとより、人間の存在やその知覚というものが、すでに「本来一つ」からの逸脱だからだ。すなわち宇宙は「本来一つ」だったのだし、水と湯は「本来一つ」だ。あるいは、この世とあの世は「本来一つ」と言うのだろうか。これらに対して、「ゆえ」と述べることで途中の脈絡を一切無視できるのなら、宇宙旅行は自由にできるはずだし、湯に触れてもやけどしない。この世を去りあの世へ往くことも、人にとってやぶさかでないことだろう。
 似たようなことで「結局~ゆえ」にも同じことが言える。
 「結局一つゆえ」は、結局腹の中で一緒になるから、とコーヒーとミルクと砂糖を個別に飲むようなものだろう。また、ある料理家youtuberが言っていた。多くの相談が来るが、料理がうまくいかない人は、例えば弱火で1時間煮ると書いてあるところを、結局一緒だろう、と強火で10分とかやっている、と。ちゃんとレシピ通りにやれと。

 これら一切は、人間が生きる上でその知能が身につける「分別」の一例だ。むしろ、分別のない一つである姿が「本来」であることは、仏法を学ぶ中で聴かないはずはないだろう。そしてこの本来の姿を目指すことが修行であり、到達することが覚りである、とも学ぶだろう。しかし、この「本来」が我々人間/実存と相容れないことも学ぶはず。だからこそ、修行は人間にとって困難を極めるのではなかったか。

 つまるところ、「一つ」+「ゆえ」は言えるが、「本来・結局」+「ゆえ」は過誤を含む論だと言えよう。

私の領解

なぜ「本来一つゆえ」ではいけないのか(事例)

 一方で、1200万門徒を代表する本願寺派門主のこのどえらい過ちのおかげで、自分が真宗理解について一つ考えたことがあり、今の自分の真宗の領解を、ここに示してみたい。真宗とはあらゆる結果を認め受け入れる(ざるを得ない)のだということを。
 注意を要するのは、受容される結果がその結果の内容に拠らないのであれば、その結果への過程も問われず、何でも有りだろう、という陥りがちな思索だ。この見方に対し親鸞は、“薬あればとて毒をこのむべからず”(歎異抄13章)としている。悪人を救う(薬がある)のだからといって、進んで悪を作す(毒を飲む)ことはならない、と。

 科学上有名な「二重スリット実験」がある。この実験によれば、光子は波と粒子の両方の性質を示すが、光子が波であるか粒子であるかは、空中を伝播中はどちらであるか判別できず、光子が物体にぶつかってできた像という結果でしかわからないのだという。我々観察者は、過程をつかめぬまま、結果だけを受け入れざるをえないのだ。だからといって、結果へ至る過程が無いわけではない。
 過程がどうでもいいわけではないのだ。我々には判別できないが、結果を導いた過程がそこにはある。見えない「縁起」がある。

 私たちは幾日も生きてきたが、すでに何千何万日と過ぎた。言わば、明日の命は経験上、(人生の日数 - 最期の1日)/(人生の日数)> 999/1000 = 99.9%以上約束されていると言ってよかろう。これをもって、明日も生きられる、という保証にはならないことは、頭ではわかる。そのための縁がなかったから、命終わらなかっただけなのだと。これを、「本来」生きられると経験が生んだ錯覚で勝手に勘違いしてはならない。

 もう一つ、最近知った次のページを紹介したい。
If the Moon Were Only 1 Pixel - A tediously accurate map of the solar system /もし月がほんの1ピクセルだったら

 ただひたすら、右へスクロールするだけのページなのだが、宇宙空間の何も無さを少し体感できる。 ―宇宙スケールだと、99.9%どころではない。― 各惑星を一直線に並べても、だいたい99.8%超の領域に何も無い。有るといっても、その0.2%のうちの約5分の4は太陽なので、太陽を除いてしまうと99.96%超は何も無い。ここまでは直線上で考えただけなので、実際の宇宙は3乗される。手っ取り早く上3桁で3乗するだけでも、太陽系空間の99.9999999%※は虚空だ。さらに太陽系を出ると、惑星も存在しないので人が認識できる領域の比はもっと減る。かと言って、この宇宙に何も無いのではない。
 ところが、宇宙論ではこの広大な宇宙のすべてが、かつては高温高圧の本来一つのごくごく小さな領域に閉じ込められていたという。ここに、「本来一つゆえ」を持ち込むことは、いかに「縁起」を無視した話であるかがわかるかと思う。宇宙空間は本来一様であり一つ、しかし我々は、残りの0.0000001%の、さらにそのほんのごく一部なのだ。

 ※…… これでもお腹いっぱいだが、こんなもんだったかな~♪とエクセル先生にざっくり計算してもらったら、冥王星までで太陽と惑星が占める以外の空間は99.9999999998%だそうな(大質量の近くは空間が歪むだのそんなこた知らん)。太陽を考えないとさらに3桁以下略

(おまけ)容積のざっくり計算

 こうして、「縁起」の途中を人の分別・知能が勝手に無視することで、実際と整合しない論を生む。つまりこのような例から、結果は受容せざるを得ないが、その過程にまでは人の判断を入れてはいけない、と私は読んだのである。本願寺派門主が発布した消息は、縁起までを無視していた。
 私に心得ちがいあれば、お直しください。

なぜ「本来一つゆえ」ではいけないのか(推論)

 ここでさらに一歩踏み込んでみる。過程に人の判断を入れてはいけない理由として考えられることは、約仏としての受容すべき結果の一覧に、人にとって都合のわるい結果、またその最たるものである、死をも含むからだ。死は人が忌むことなので、人の望みからは除かれる。あの夜回り先生も、悲運に苦しんだ末の生徒たちの喫煙、万引き、麻薬、傷害、姦淫、自傷、といったあらゆる行為を「いいんだよ」と受け入れたが、死ぬことだけはダメだ、と明確に拒絶させた。この時点で、人において「どんな結果も受け入れる」とはならない。
 一方、生死一如とする法には、生も死も無い。つまり生を受け入れるならば、受け入れるべきことに生ける者の死も含まれる。まさに仏眼との差だ。つまり、死をも已むなしとするものでないと、その過程を問わないとは言えない、との推論は凡夫の知能でも許されよう。だからここに、本来生死一如ゆえ、と「本来~ゆえ」を持ち込むと、生も死も無いのだから死を厭うな、戦争に参戦せよ、という過ちの再来が必ず起こる。
 人の判断は、すべからくその者の都合のいいほうへと向かう。こうして、「本来~ゆえ」には必ず落とし穴がある。

苦との付き合いをつぶやく

 改めて鑑みると仏法は、人の望みに対して、何の解決にもならない。煩悩の望みと釈迦の教法の望みとが、そもそも交わらないからだ。一方は現世利益で、他方は浄土往生だ。だから仏法を求めても、煩悩は悦ばない。我々が生で窮々する苦しみは何ら変わらない。苦しみは変わらないが、仏語に順えば報われる苦しみとなる。
 何も変わらないから報われないからと、つい自釈したくなるが、すると往々にして、我が煩悩に陥れられる。まことに、求道とはにっちもさっちもいかない。向こうからきっと結果がやって来ると、信じるしかない。まことに頼りない。けれどいずれ機が熟しやって来るのだから不思議だ。
 人々が仏法に信順することによってもたらされることは、「安穏」なのだろう。ただし信順を強いることはできない。たとえ強いたところで「つくべき縁あれば伴いはなるべき縁あればはなるることもある」(歎異抄6章)。また強いれば強いた分の反動が(苦にせよ楽にせよ)返ってくる。返ってくるものが迷惑かやりがいかは受け取り人次第。命の者の苦悩を除くとは、苦悩が虚しくならないと仏語をたのみ精進を続ける、その結果が

此の上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎり守り申す

領解文

なのかもしれない。

以下余談

 今稿とは余談ですが関連して。

 自民党や政府を背後から操るとされる日本会議、ここは政財界のみならず宗教界からも構成されるが、彼らは、本来(日本は)美しいゆえ、という論で動いているように思える。安倍元首相は“美しい国”を自民党の目指す国家像として掲げた。もはや団体の傀儡と言える。地位も財産もひとかたならぬほどあり、しかもあなたは美しいといつも水晶玉が答えてくれる世界で暮らすかの人たちの周囲は、さぞ“美しく”華やかだろう。人は美しい国の何が悪いと言うかもしれない。実際、国民は結果としてそれを受け入れた。この論の落とし穴を、早いうちに明らかにしておかねばならない。

 宗教はまず例外なく、「本来」この世は美しいと説くだろう。美しいと思うからこそ、生きようと意欲が生まれる。これ自体は認めてよい。
 しかし、ひとたび人の眼で美しいを言い出すと、美しくないものを人の主観が対比させ勝手に浮かび上がらせる。美しくないものの存在が「本来」とは違う!!と考え出すと、美しくないものを排除!!に向かうだろう。もし彼らが自身を楊貴妃やクレオパトラ級だのと観たら、他のすべてを排除に向かうことになる。こうして、「本来(美しい)ゆえ」から“本来”に沿ぐわないものを切り捨てにかかる。すなわち彼らが美しくないと判じたものを、意図的に潰しにかかるだろう。例えば貧困者、共産主義、……

 こんな差別的な声を、どこかで聞いたことがないだろうか。例えばヒトラーを思い出さないだろうか。ユダヤ人は穢れた民族だとする偏見を担ぎ上げた一方、アーリア人は優れた民族であると対比を浮かび上がらせ、ユダヤ人を葬った。習もそうだ。中華文明が世界を統一すべきだとの数千年の悲願にしがみついている。あるいはその執着は彼のひがみの表れと学者も言っている。言わずもがな過去の日本を忘れてはならない。
 人の自らの妄念に取り憑かれた者は、自らが生んだ幻に追い詰められ、自らを滅ぼしていく。この自縄自縛は、もがけばもがくほど食い込んで、自らを縛り上げていく。その人物が強い権力を保持していたりすると、もう止められぬまま、近くから巻き込み破滅に向かう。プーチンがそれをはっきりと表してくれている。

 昨今の日本のかじ取りを担っているはずの自民党議員の、論でなくもはや信に基づくかのような強引さは、宗教的背景を思わざるを得ない。ならば、日本会議が強く手綱を引いていよう。それでなくとも、自民党は旧統一教会とズブズブに通じグダグダに続けていたのだ。近年の日本は自ら戦争に突き進んでいる、と有識者が危機感を募らせる声もしばしば自分に届く。その声が、誰の何を根拠とするのかは知らないので自民党などの関連があるのかは自分はわからない。が、日本こそ美しいとのけぞる日本会議と自民党の政権意識の根底には、人を突き動かす宗教的信念は存在するはずだ。
 彼らにはもう、学も論も通じない。主権者である国民が一刻も早く引導を渡すしかない。

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