感傷マゾに対して色々と

 最近、感傷マゾという言葉をよく目にする。

 上記の記事に感傷マゾとは何か、大いに語られている。「存在しなかった青春への祈り」、「鬱展開は消費者に提供されているサービスみたいなものじゃないですか。本来は、「はいはい、鬱展開ありがとうございます!」と言って食べればいいのに、そこに虚構のヒロインが実在している想定で消費するのが、感傷マゾの土台ですよね」、「概念の夏やエモい田舎という「感傷」要素と、でもその最高の夏の思い出は偽物だと指摘されて傷ついて気持ちよくなりたいという「マゾ」要素が合体して、現在の感傷マゾの意味になった」など、興味深い定義が多く登場する。

 ここで興味深い主張がある。単に「概念っぽくて偽物っぽいエモさ」は「虚構エモ」とし、「罵りの川」の有無によって感傷マゾかどうか決まるという。これは「自己嫌悪を少女に代弁してもらって気持ちよくなる」ということであるようだ。少女に自分のダメさを罵られたいという欲望。これは、難しい。この座談会で例に挙げられている『AIR』は、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』において、「零落したマッチョイムズ(家父長制補完的な想像力)を脱臼」さらに「ダメ」な自己欺瞞(反家父長制的な想像力に隠れて超家父長制的な想像力を密輸入する構造)を解体する」と評価されている作品である。一方で、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』では、東を批判し、『AIR』は「自己反省が、実は「反省」としては機能せず、むしろマチズモを強化温存する「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎない」と主張している。『AIR』は、この座談会では、メンバーの思い出話として挙げられており、「感傷マゾグラフ」にも入っていないため、感傷マゾとして語ることは不適当であるかもしれない。しかし、『AIR』が隣接するものとして感傷マゾが話される以上、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」の問題が絡んでくるのではないか。もちろん、「罵りの川」が、少女による男性主人公の完全な拒絶か、実は男性主人公を絶対的に必要としているかで、話は変わってくるので、感傷マゾと呼ばれる作品の中でも、マチズモが強いか弱いかという差が出てくると思われる。マチズモがどうとかと、ポリティカル・コレクトネス的な問題に発展させないでほしいと思われるかもしれないが、宇野常寛的な意見を持つ人々が、感傷マゾに噛みついてきて「これだからオタクは~」というように嘲笑される事態が、個人的には非常に気になるので、敢えて問題化した。

 感傷マゾがマチズモで、ポリコレ的に問題を抱えているとき、そこに未来はあるのか。そして、マチズモ以外にも、中上健次(村上龍)を推して村上春樹を下げる(批評空間派)、ドラマを持ち上げてアニメを腐す(宇野)、オタクは現実に向き合えと言う(庵野秀明)など、感傷マゾが批判される土壌は十分にある(感傷マゾに分類される新海誠が村上春樹の影響を受けていることは、『天気の子』に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が登場することを挙げるまでもない。『エヴァンゲリオン』が感傷マゾか否かという話が出ている時点で『エヴァ』的なものを非常に意識しているように見える。そして、挙げられる作品を見る限り、感傷マゾ自体がオタク文化に集中して表れている)。そこが心配なのである。

 『ゲーム的リアリズムの誕生』において、東は『AIR』等の美少女ゲームに熱中するオタクを「かつてであれば「文学青年」と呼ばれたカテゴリーに属している」と記している。座談会の中で、オタク文化の中で「文学的」と呼ばれることが多い麻枝准作品や新海誠に言及しているので、感傷マゾは特に文学的なのであると思うが、それゆえに、かつて批判された文学の反復を思わずにはいられない。村上春樹批判は既に挙げたが、おそらく「内向の世代」批判にも通ずると思う。単純に言うと、「現実と向き合えていないからけしからん」という批判である。感傷マゾは応答を迫られるときが来るかもしれない(もちろん、文学の想像力として村上春樹的なものが現在ヘゲモニーを握っている以上、批判は古い想像力であるかもしれず、応答する/しないは問題にすらならないかもしれない)。

 長々と批判めいたことを書いてしまって申し訳ない。

 また、「どこかにあったかもしれない、なかったかもしれないという虚構性が、感傷には必要だと思うんだよね」という指摘に注目したい。これは、「日本的なもの」対する感情に似てはいないだろうか。日本は、明治維新、敗戦と、二度の政治的、文化的断絶を経験している。連続性が全くないとは言い切れないが、多くのものが切断された。例えば漢文への素養。そして、「日本回帰」は、1930年代(日本浪漫派)や1970年代(梅原猛の日本学)など、何度も繰り返されてきた。しかしこれらも、結局は本当はとうに失われてしまったものを敢えて描き出して見せることに過ぎない。日本浪漫派は自覚的で、空虚であるからこそこだわるというような形をとった。それを引き継いだ三島由紀夫は、『文化防衛論』において、伊勢神宮の建て替えを例に挙げ、「日本文化は本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」と論じている。オリジナルとコピーには差がない。「日本的なもの」にオリジナルもコピーもない。これは、感傷マゾの「概念としての夏」に接続できるのではないか。本物の夏も、概念の夏も、区別することはできない。区別する必要さえないのではないか。三島由紀夫は1970年に自決する。感傷マゾは死には向かわないように見える。この点の違いは、三島の乗り越えであろうか。学生運動、自己否定の思想が吹き荒れた1960年代を生き延びた村上春樹の態度と関係しているのであろうか。

 また、オタク文化由来と思われる感傷マゾであるが、そこにやはりアメリカが潜んでいるのではないかと思う。元々漫画やアニメなどのサブカルチャーは、アメリカから輸入され、日本で独自に発展を遂げたものである(リミテッドアニメーションは作画枚数を省略するためであったが、その特徴を生かし、バンクシステムなどが発達した。手塚治虫もディズニーへの意識が強かったりする。この辺りは東浩紀『動物化するポストモダン』や大塚英志『サブカルチャー文学論』に詳しい)。感傷マゾというものが、オタク文化の中で見出されるということは、その感情の奥に鎮座するのは、アメリカに対する何かなのではないだろうか。そして日本はアメリカに戦争で負けている。敗戦で切断された日本への何か、それは天皇へも向けられるのではないか。感傷マゾでいう少女は、実は戦後の象徴天皇の何かで、だからこそ「罵りの川」が必要なのではないか。

 長々と書いてしまった。感傷マゾについてはアンビバレンツな感情を持っているので、このような形になってしまった。

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