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人のことを私の目線で書くという話

私のnoteに出てくる人のうち、私が「私と話したことはいつでもどこかで話されるか書かれるかするかもしれないけど、いい?」と許可をもらっているのは実は二、三人。あとは連絡のつかない人と名も無きだれかとそれから意図的に隠している人が数人。

自分のことを人の目線で書かれるのってどうなんだろうって思っている。私自身は嫌いじゃないけど、多分ネタにするほどのことをしていないと思うので、そもそも書かれない前提かもしれない。

ちなみに私がここ最近でネタにしたいと言われたのは「ましろさんの話って、めっちゃ百合的に萌えることが多いんですけど、書いてもいいですか」と律義に聞いてきてくれた人がいたぐらい。

私はアニメが好きだから、「私のこと皆川純子さんがしゃべっているように聞こえるなら書いてもいいよ」といった。そう、リメイク版のセーラーウラヌスの声をされている声優さんで、とにかくかっこいい女性や少年役を得意とされている方。優しさと明るさを含んだ声が私は大好き。その人もアニメとか好きだったから、すごく納得してくれたので、おまけで女子校のバレンタインの話をしてあげた。

私の場合、自ら消費コンテンツになりにいっているわけだけれど、聞き手と語り手のバランスが良かったのか、思い返しても特に嫌悪とかはない。その後何度かその人には聞かれたから、相手も嫌ではなかったはずだ。

私が人のことを書くという話に戻ろう。その場合、日常的にちゃんと会話が出来るときもあれば、実際に書くかはともかく「収集」の側面が大きくなりすぎて話を聞いていないことがあるから、バレたら話をしてくれなくなるんじゃないだろうかと思ってしまうのだ。なんとなく。消費しようという意図があって話を聞いているわけじゃなく、分からないことを知りたいから聞いているし書くのだけれど、その感覚は通じるのだろうかとか考えてしまう。

いや、話すことにおいては許可は得ている気がしてきた。「こういうの聞かせてあげたい子がいるんだけど」とか「あなたのこういう話をしたら喜んだよ」とか言っている。日常的に。誰かの話を知らない誰かにするのが好き。

でも、書くということは言っていない。書くという私にとっての日常は相手にとっての非日常な気がしてならないから。そう言うわけで、友人に許可を取るということに恐れがある。

なんでこんなに考えなきゃいけないかって、今私の手元には30000字の未完の小説があるからだ。ゆくゆくは公開したいけれど、ノンフィクションベースなので、私の知り合いであれば知っているという話が多すぎる。

グミを食べながら書いています。書くことを続けるためのグミ代に使わせていただきます。