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【小説】なれるよ(8)


前回:【小説】なれるよ(7)




 


 リノリウムの床に、靴音が跳ねる。スーツの袖が上下に揺れる。陰鬱な空気を和らげるために、窓に飾られている一挿しの花は、今の洋一を苛立たせるに過ぎなかった。べたついたシャツが気持ち悪い。途中、点滴を差した患者にぶつかりそうになったが、洋一はすんでのところで避けた。

 歯痒い視線から必死で離れるように、走る。エレベーターを降りると、心電計を引く看護師とすれ違った。それは、祐二のいる病室の方角からだった。

 三〇二号室に飛び込むと、既に康利と佳美がいた。佳美の下瞼はむくんでいて、辿り着いた洋一を見ると、顔に手を当てた。涙はもうあまり流れていなかった。康利の下唇には皺が寄っていて、皮膚は垂れ下がり、威厳が剥がされている。一気に十歳も歳を取ったようだった。ベッドのシーツは、目を背けたくなるほど、白々しい。

「洋一……。祐二が……」

 枯れた涙でかすれた声で、佳美がこぼす。顔を上げられない佳美の肩に、康利の右手が乗る。ごつごつした手が、微かに震えていた。病室の外にしか音はなかった。

 祐二はベッドに寝ている。朝に見初めたスーツ姿ではなく、薄い水色の病衣を着て。陽だまりの中で寛ぐかのような穏やかな顔をして。洋一は布団を動かして、病衣を丁寧に捲った。仰向けになった体には縫合された一筋の刺傷が浮き出ていて、肌はなめらかで、灰色がかっていた。

 手を伸ばしてみる。そばに手をやると、触れていないのに、体温を吸い取られるようで、洋一はためらった。実感したくないという切望が押し寄せてくる。

 だが、洋一は不可視の境界を侵して、祐二の胸に手を当てる。鼓動が止まっていた。ざらざらした感触。死後硬直が始まっている。禁忌に、触れてはいけないものに触れている。洋一はこれ以上ないくらい手を放したくなったが、祐二の遺体には引力があり、離れることを許さなかった。

「祐二ね、背中を三か所も刺されたらしいの。一回刺されて、倒れた後にさらに二回。病院に運ばれてきたときには、もう心臓も肺も止まってたんだって。親より先に死んじゃうなんて、そんなのないじゃない……。どうしろって言うのよ……」

 佳美がベッドに崩れ落ちる。純白のシーツが灰色に変わっていく。涙はまだ枯れていなかったようだ。洋一は何とか引力に抗い、手を放した。病衣を元に戻し、また布団をかける。唇が震えたが、洋一の目から涙は流れることはなかった。あまりに突然のことで、心が正常に働いていなかったのだろう。

 人間としての営みが遮断され、洋一は立ち尽くすしかなかった。祐二の生きた証を残せない自分は、ここにいてはならないのだと。それでも、足は動くことはなく、ただベッドのそばに置かれていた。

 どうして祐二だったのか。どうして、無数ともいえる街を行き交う人々の中から祐二が選ばれたのか洋一には不思議だった。だが、きっと誰でもよかったのだろう。狙いを定めた人の後ろに、悲しむ人がいるかなんて、死んだ加害者は想像もしなかったに違いない。洋一は想像力の欠如した加害者を恨んだ。だが、それは、狂気が祐二ではなく、別の人間に向かっていればと一瞬でも考えた洋一も、さして変わらなかった。

 災害にも似た事件。人格を持った人間が起こした、れっきとした事件。残された人間は、消えない鎖に縛られて、生きていく。被害者も遺族も。解けないように固く結ばれた鎖に、もがき苦しみながらも、生きていく。

 そこに、加害者がいないことが、洋一には弟が殺されたことと同じくらい悔しく、胸が締め付けられる思いがした。




 遺体は、二〇時に霊安室に運ばれるとのことだった。今夜は最後のお別れをなさってください、と白い髭を蓄えた老医者が語っていた。一九時を回った今、病室にいるのは、祐二と佳美だけだった。佳美は、もう五時間も座ったままでいる。洋一も康利も始めは佳美と一緒に座っていたのだが、やがていたたまれなくなり、病室の外に出る時間が増えた。洋一はそれを逃げではないと、自分に執拗に言い聞かせていた。今も病室の灯りは点き続けている。

 言葉が価値をなくした空間に、絶えず人影はあった。

 カーキ色の壁が続く廊下。青い看板に白抜き文字の案内表。病室。コインランドリー。売店。人はまばらだったが、病院には病院で生活があるのだと、洋一は知った。しかし、祐二がその生活を享受することはもうない。

 することもなくなり、洋一がリノリウムの床をただ眺めていると、スリッパの足音が聞こえた。康利が近づいてきたのだ。康利は壁に寄りかかる。拠りどころを求めるかのように。

「お前、大丈夫なのか。こんなところにいて。祐二のところに行かなくて」

「父さんこそ、祐二のそばにいなくて大丈夫なのかよ。もう一時間ないんだろ」

 康利は答えない。洋一も言葉を重ねない。自然、二人は黙ってしまった。廊下を歩いてくる人はおらず、窓の外の横殴りの雨、叩きつける音だけが、二人を乱暴に包んでいた。

「祐二は……」

 絞り出すように、康利が口を開いた。

「祐二は最後なんて言った。お前になんて言って会社に行こうとした」

 スーツに身を包み、喜色満面といった祐二の顔。希望に満ちていた。ドアを開ける後ろ姿。振り向いて、発せられた言葉。

「覚えてない」

 今朝のことなのに思い出すことが、洋一にはどうしてもできなかった。二千年も昔のことのようで、頭が攪乱されていた。覚えておく必要なんてないと、そう決めつけた過去の自分を、洋一は責める気にはなれなかった。

「そうか。覚えてないか」

 康利は下を向いて、表情を固める。

「本当に、どうして祐二だったんだろうな」

「そうだね、祐二は何も悪くないのに……」

「俺がもっとちゃんと祐二に接していればよかったんだろうな。もっと祐二のことを思いやれれば。そうすれば、祐二もまた違った性格になって、新卒で就職ができていたかもしれない。そうだったら、あのとき、あそこにはいなかったはずだ」

「たらればを言ってもどうにもならないだろ、そういえば祐二は帰ってくんのかよ」

「そうだな。……なあ、俺達はどうやったら許されるんだろうな」

「許されるって何だよ。祐二は殺された。むしろこっちが犯人を許す側だろ。まあ俺は許さないけどな。絶対に」

「いや、祐二を殺したのは俺たちだ。俺たちは祐二を守ってやれなかった。ちゃんと祐二を見てやればこんなことにはならなかった。俺達じゃない。俺が悪いんだ。俺の育て方が間違ってたんだ」

 洋一の中に言葉は、浮かんできてはいた。だが、口に出すことはできなかった。何を言っても、康利を否定することになるだろうと感じていたからだった。洋一は、誤魔化すように上を見やる。抑えめなはずの蛍光灯が眩しかった。

「洋一、そろそろ戻るか。せめて最後の三十分くらいは、一緒にいてやらないとな」

 そう言うと、康利が病室に向かって歩き出した。洋一は、その後ろ姿を見送ることしかできない自分を、上から覗いているような気がした。だが、見下された自分は拳を握り締め、固まった息を吐き、前を向いて康利を追っていた。見下す洋一は天井に留まったまま、おぼろげに消えていった。

 静かな廊下に乾いた靴音が響いている。

 風もないのに、白い桔梗の花びらがひらりと揺れた。



続く


次回:【小説】なれるよ(9)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。

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なお、全十回予定です。

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