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【小説】なれるよ(11)


前回:【小説】なれるよ(10)



 



 定食屋を出て、洋一はため息をついた。季節はグラデーションのように移り変わり、道行く人々にはコートやカーディガンを着ている者も見受けられる。吹く風は冷たさにも似た涼しさを持って洋一の頬を撫で、過ぎ去っていった。街路樹の葉がまた一つ落ちる。

 洋一は、仕事終わりに取引先に誘われて、夕食を共にした。土曜日だというのに、先方はそんなことは関係のない様子だった。待っている間も、食べている間も洋一は事件のことを聞かれはしないか気がかりだったが、先方は野球しか頭になかった。ドラフト会議がどうの、日本シリーズがこうの、などという話を延々聞かされ、洋一は少し嫌気が差したが、事件のことを聞かれなかったのは素直にありがたかった。

 だが、それが一般の態度であることに気づくと、より話は耳に入ってこなくなった。

 先方と別れ、洋一は街灯が照らす夜道を歩いている。アウターのポケットに手を入れて屈んでいると、微かに歌声が聞こえた。楽器が鳴る音も。無視して家に帰ることだってできたはずなのに、気づけば洋一は、音のする方へと向かっていた。そこは、公園だった。

 角に立つ洋一から、反対側の角は見えなかったので、かなり広いことが窺える。ステージ照明があからさまに目立っていて、そこだけ大々的に穴が開いたようだった。

 門をくぐって公園に入る。見上げると、高層ビルに睨まれたイチョウ並木が、夜に負けず黄色を主張していた。近づくにつれて、音はだんだんと大きくなる。やがて、洋一は枯れ草が巻き付く石壁の前に辿り着き、その手前ではこの気温でTシャツのみという若い男女が、ステージから漏れ伝わってくる音楽を楽しんでいた。それも、何人も。いくつかベンチはあったが、全て占拠されていて、洋一は立ち尽くすしかなかった。

 聞こえてくるのは、歌声と、ギターとドラム、分かりにくいがベースもある。それ以外の音はしなかった。

『踊れ、踊れ』

 歌詞に唆されるかのように、Tシャツたちは体を揺らして、思い思いに楽しんでいた。疾走感のある曲調に乗せられ、わずかに心が逸る。見えていなくても、その演奏は洋一の高揚を促進させるに足りた。洋一は、知らぬ間に踵を踏み鳴らしていることを自覚した。しばらく味わったことのない感覚だった。曲は次の曲に移行している。先程よりかは幾分落ち着いた曲だ。

『ここだ』

 存分に溜めて歌われたその言葉が、洋一にはまるで自分にだけ向けられたように感じられた。職場でも、定食屋でも所在なく漂っている心地が洋一にはあった。どこにいるかが分からなくなり始めていた。しかし、確かに洋一はここにいるのだ。都会の真ん中の公園で、しっかりと立っているのだ。

 洋一の体は揺れた。このまま聞こえてくる音楽に、身を委ねていいとすら感じられた。

 だが、洋一の脳裏には祐二の顔がはっきりとした輪郭を持って浮かび上がってくる。

「いいよね、兄ちゃんは。音楽を聞いて楽しむことができて。俺にはもうできないのに」

 そんな囁きが頭を駆けずり回るようだった。弟が死んだことを忘れて、一時でも楽しむことにかまけてしまった自分を洋一は恥じた。ずっと覚えているだろうと思っていたのに。自分が忘れたら、祐二の人生はさらに風化していってしまう。兄として失格だ。

 そう思うと、洋一の足は自然とリズムを刻まなくなった。演奏も止まって、ざわめきだけが聞こえる。洋一の手は強く握られていき、少なくない視線を浴びるのを感じた。洋一は、何も答えることなく、ただ自分に楽しむ資格があるのかを自問していた。

 しばらくして、拍手が聞こえた。また、演者が登場したらしい。鳴らされた最初の音を聞いた瞬間、洋一は動き出した。勢いよく振り返り、石垣から、その向こうの盛況から遠ざかっていく。祐二と一緒に聞くことができない以上、洋一はそこに留まる理由を見いだせなかった。

 祐二が隣にいたら、何と言っただろう。

 


 



 祐二が亡くなってから三度目の月命日は、一一月だというのに、夏がぶり返したような汗ばむ陽気だった。洋一は、過去二回もそうしたように祐二の墓に足を運んだ。ささやかな参道を囲む木々は枯れていて、落ち葉があちらこちらに放り出されている。掃除はあまりされていないらしい。

 洋一は桶に水を汲み、花屋で買った二束の仏花を持って、祐二の墓へと赴く。しかし、既に来客があった。若い女性が線香をあげ、しゃがんで手を合わせていたのだ。黒いダウンに身を包み、横顔からは色の薄い口紅をはじめとした、あっさりとしたメイクが目に付く。

 洋一には、この小柄な女性は見覚えがなかった。今までどこかで顔を合わせただろうか。もしかしたら、祐二の大学の同級生かもしれない。だが、朝の七時半に来る理由がどこにあるというのだろう。

 洋一が訝しんでいると、彼女も洋一に見られていることに気づいた様子だった。しかし、彼女は動揺する素振りは全く見せず、むしろ胸をなでおろすかのように、そっと微笑んでいた。

「すみません、仲島洋一さんですよね?」

 洋一は、あまりに急だったので「はい」としか答えることができなかった。

「この度はご愁傷様でした」

 彼女が由々しく頭を下げた。銀色のヘアクリップが揺れる。

「あの。初めまして、ですよね。本日はどうなされたんですか」

 真っすぐ顔を見ようとすると、大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、洋一は思わず目を逸らした。行き場をなくした沈黙に、背筋を指でなぞられるような感触があった。彼女は祐二の墓を見つめてから、しばし口をつぐんだ。だが、意を決したように話し出す。

「今日も晴れてますね」

「あ、はい、確かに晴れてますよね。降水確率は〇パーセントでしたっけ。絵にかいたような気持ちのいい秋晴れで」

 区道を走るバイクのけたたましいエンジン音が、二人の間を通り抜けていく。

「あの日も、こんなような青空だったんでしょうね。地上で起こることなんて気にせずに、好き勝手に晴れてる」

「あの日って、もしかして事件があった日ですか」

 彼女は空を見上げてから、地面に目を落とした。垣間見えた黒目の明度は、一段階下がっていたように、洋一には感じられた。

「はあ……。友里も連れてきてあげたかったな。でも、今の友里には涼しくなってきたとはいえ、太陽の光はまだ眩しすぎるか。目を細めて、手を額に当てて。日傘も差してあげたいな」

「あの、友里さんというのは……」

 彼女は間を置いてから、質問に答えた。

「友里は私の妹です。私は春日侑希といいます。仲島さん、この度は妹が大変お世話になりました」

「おっしゃっている意味が……」

「先日の無差別殺傷事件。加害者が最初に刺したのが友里でした。腹部から血が大量に流れ出て、あと三〇秒遅ければ助からなかっただろう、って病院の先生に言われたんです。通報してくれた人のおかげだよ、とも」

「それってもしかして……」

「通報してくれた方の名前を知ったのは、翌日のニュースでした。心のある方が友里に駆け寄ってくれた。おかげで友里は助かったんです。感謝してもしきれません。でも、祐二さんが亡くなったのを知ったのも、そのニュースでした。ショックでしたよ。友里が助かったのに、祐二さんは助からなかったんですから。なんで、こんな酷いことが現実に起こるんだろう。神様なんていないんだ、と思いました」

「あの、友里さんは今どうされてるんですか」

 洋一は恐る恐る聞いてみる。返ってくる言葉が、洋一には分かっていたとしても。

「手術を終えてしばらく療養した後、一昨日退院しました。出血は酷かったものの、傷は幸いにして浅かったようです。車椅子に座って、病院の外に出てから家に帰るまで、ずっと小刻みに震えていました。帰ってくるなり、自分の部屋に行きたいと言い出して。それからはほとんど部屋から出てきていません」

 伏した目に涙が光る彼女に、どのような言葉をかければいいか、洋一には分からなかった。メッキで派手に固められたくせに、中身は空っぽな言葉たちが浮かんでは消えていく。洋一はあまりに無力だった。

「ねぇ、洋一さん、祐二さんはどうして友里を助けたんでしょう。見ず知らずの他人のために自分の命を危険に晒してまで。あんなに悲しむ友里の姿なんて見たくなかった。自分だけが助かったことを今も責めているみたいで。友里にはいつも笑ってほしかった。友里が生きているだけで、私は何より幸せだっていうのに。それでも。ねえ、どうしてですか」

 侑希が胸に縋りつくように落ちてきて、声を上げて泣いた。ドラマのように、頭に手を回して抱きしめることができない惨めな男がいた。宙に放り出された洋一の両手は、力なくぶら下がっている。

「どうして祐二さんたちは亡くなって、祐二さんたちを殺した加害者も死んでしまったんでしょうか。多くの人を巻き込んでおいて、自分も死ぬなんてあんまりじゃないですか。せめてこの目でどんな奴か見たかった。見て、心の底から憎んで、殺してやりたかった。なのに、どうして、どうして……」

 泣き続ける侑希に洋一がかけられる言葉など、元からなかった。「分かりますよ」と言ったところでそれが何になるというのだろう。たとえそれで彼女が共感を得たとしても、抱いてはいけない感情が強化されて、辛苦がより彼女を責めるだけだ。洋一は、何もできない惨めさを感じていた。

 それでも時間は二人を連れて、変わることのない時の流れを刻んでいる。


 


 




 シンクに雑多に盛られた食器。色の褪せたリュック。床に投げ捨てられた充電器。真新しいカレンダー。ひりつくような緊張を帯びた生活感が支配する空間。

『では、最初のニュースです。先日、不適切な発言をしたとして野党から追及を受けていた葛西農林水産大臣が、先ほど辞職する意向を示しました』

『続いてのニュースです。昨日、神奈川県の東名高速道路、高萩IC付近でトラックと乗用車三台が絡む事故がありました』

『続いてのニュースです』

『続いてのニュースです』

『続いての……』

 ドアが閉められる。




 駅を出ると高層ビルの大群が、洋一を待ち構えていた。過ぎ行く人間を罠にでも嵌めようとしているかのような不規則さだ。横断歩道が青になるのを待つ。遠くでクラクションが鳴ると、大部分が振り返っていた。

 信号を二つほど越えた交差点。その歩道の車道に隣接する場所。ガードレールの真ん前に、茶色がかった簡易テント。その下に白い台が設置されていた。いや、白と思しき台が二段。その上に、菊、カーネーション、向日葵、ガーベラ、トルコギキョウ、他にも名も知らぬ花たちが、シーツを隠すようにぎっしりと並べられていた。花束が重なっているところも見える。

 テントの骨組みには七色の千羽鶴が吊られ、手前には天然水のペットボトルが不格好に置かれていた。たまに、カートを押した白髪の老婆が手を合わせていくだけで、立ち止まる者は、見られなかった。横目で見ては、すぐに視線を逸らすだけだ。

 見渡す限りの花、花、花。それは無関係な人々の、心からの供養の証。そんなことは洋一にも分かっていた。それでも、脳裏に思い出されるのは事件がもたらした風景。

 殺到する野次馬。飛び交う怒声。スマートフォンから見える黒頭。熱されたアスファルト。Tシャツ。ジーンズ。軽かった白骨。墓誌に刻まれた享年二四。ビールを懸命に注ぐ佳美の姿。泣き出してしまった侑希。祐二のことを忘れて、楽しんでいた自分。

 目の前の花々に、目が宿ったように洋一には感じられた。口が浮かぶ。横に伸ばされた目に、上がる口角。覗く歯は黒く、誇大化した自我が口を開けて待っている。

 洋一は、その幻覚を拭い取ろうと右手を振り払った。花びらが数枚舞う。いくつかの花束が、花束と花束の間を転がり落ちた。もう、どうなっても変わらない。洋一は台に左手をかざして、一気にどけた。白いシーツが現れた。全てを漂白するかのような純白だった。一束を持って地面に叩きつける。黄色いリボンがふわりと地面を撫でた。気に入らない。

「おい、あんた、何やってんだ」

 見れば、分かるだろ。

「いいから、元に戻せよ。可哀想だろ」

 カワイソウ?

「ここは、去年の通り魔事件の犠牲者のための献花台なんだ。あんた、亡くなった人のことを何だと思ってるんだ。人の純粋な弔意を踏みにじるなんて、最低だぞ」

 最低なのは、誰だよ。

「いいから、戻せよ。戻せ!」

 男が洋一の肩を小突いた。周囲が騒然とする。だが、洋一に見えていたのは地面には散らばった花々のみ。弱い日差しを受けて、枯れ始めているものもある。しばし見つめた後、振り返って歩き出す。太陽が再び顔を出し、薄い影を作る。

「おい、待てって」

 投げかけられた悪意のない声が、背中を刺す。言葉では、痛みは感じない。信号はもうすぐ赤になりそうだ。洋一は、歩くスピードを速める。

 陳腐な靴音が、繁華街にいたずらに繰り返される。空虚な意識が、泡沫の人混みに溶けていく。

 涙が、こぼれた。





※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。


また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。

そして、紙の本も以下の通販サイトで販売していますので、こちらも合わせてお願いします。


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お読みいただきありがとうございました。

年内にもう一本新作を投稿させていただく予定ですので、そちらの方もよろしくお願いします。


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