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【小説】30-2(9)



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 家に帰って、私はまずパソコンを立ち上げた。他のサイトには目もくれず、Youtubeのマイページを開く。

 どうせ再生はされていないし、コメントも来ているはずがない。もし一回でも再生されていたら、土下座してやる。全ての土下座を過去にする、究極の土下座を見せてやる。

 そう意気込みながら画面を見ると、案の定、コメントも再生回数も増えていなかった。namelessも、だんまりを決めこんでいる。

 失望が広がった。

 パソコンを閉じて、スーツから部屋着に着替える。ネクタイを解いて、これで首を吊れたらなとも思ったけれど、ひっかける場所は部屋にはなかったし、そもそも死ぬ勇気すら、私には一かけらもなかった。

 しばらく横になってスマートフォンを見たり、目をつぶったりすること一時間。私は再びパソコンを立ち上げた。文書ソフトを開くと、真っ白な画面が襲いかかってくる。

 それでも私は、キーボードの上に手を載せた。次回作の脚本。書くことは決まっている。

 主人公は、趣味で小説を書いている青年。今まで誰にも読まれていなかったが、ある日ネットに投稿した小説が何の前触れもなくバズる。急に自分を取り巻く環境が変わった彼の、喜びと苦悩を描く予定だ。

 だけれど、パソコンの前に五分間座ってみても、私は一文字も書けずにいた。ゴミのようにありきたりなセリフさえ考えつかない。

 頭を掻く。ベッドの上のスマートフォンを見る。

 でも、そんなことをしても一文字も出てこない。立ち上がって、身体を伸ばしたくなる。

 これが産みの苦しみなのだろうか。

 いや、そんなわけがない。私は苦しんでなんかいない。ただ、ぼーっとしているだけだ。

 この程度で苦しんでいるなんて、他のクリエイターに失礼だろう。ふざけんなと、殴られるかもしれない。

 線路を電車が通過する音が聞こえる。しかも、これで三回目。パソコンに向かって一五分が経っても、私は何一つ書けずにいた。シーンがおぼろげにさえ浮かんでこないのだ。

 脚本家にはクライマックスから書く人もいるそうだが、私は順番通りにしか書けない。

 ああ、ダメだ。何か甘いものが食べたい。何か腹に入れたい。

 でも、それは逃げだ。今まであらゆることから逃げてきた私は、今こうして何もできない大人になっているから、作ることからだけは逃げたくない。

 だけれど、ずっと固まっていても、何も思い浮かばなのも事実で……。

 ふと、あくびが出た。ぷつりという音を立てて、集中の糸が切れた。

 だらしなく私は身体を倒す。ちかちかと瞬く天井照明が眩しい。

 大きく身体を伸ばす。導かれるように言葉が落ちた。

「もういいや」

 その言葉は部屋中に霧のように広がって、私の身体に浸透した。

 なけなしのやる気も、意地も、プライドも、何もかもがどうでもよくなった。

 たぶんどうあがいても、今日は書けない日なのだ。書ける日よりも書けない日の方が、私にはずっと多い。

 いつか未来の自分がどうにかしてくれると、根拠のない憶測を抱いて私は起き上がった。

 財布を手に「酒吞も、酒」と、玄関に向かっていく。

 よれよれの部屋着で、外に出ることに抵抗はなかった。どうせ私は誰にも気にされていないのだ。裸でさえなければそれで十分だろう。

 ドアを開けて、アパートの外に出る。

 ふと見上げると、照明がついたままの三〇五号室が、柔らかな光を放っていた。

「死ーね、死ね死ね死ねー、宙市ー、早く死ーね」

 暗くなった道は誰一人歩いておらず、ここが地方であることを思わせる。だから、私は思う存分独り言を言うことができた。

 道路脇の住人には聞かれていたかもしれないが、それもすぐに忘れられるから構わない。

「小鹿宙市、気持ち悪いわ。何で生きてんだよ。早く死ねよ。ナハハハハハハハ」

 自分自身に的確なツッコミを入れる。普段外では笑わない私も、このときばかりは大笑いすることができた。

 他人には言ってはいけなくても、自分相手だったらいくらでも「死ね」と言える。なんて素晴らしいことだろう。

「お前なんて、このまま生きててもいいことねぇんだよ。お前が死んでも誰も困らないし、悲しまねぇ。生きてる意味ないんだからとっとと死んじまえ。ゴミが」

 もちろん本当に死にたいわけじゃない。それでも、人をいじめている感覚が気持ちよかった。

 酷い言葉はどれだけ言っても、私の心には刺さることはない。頭の中で作ったもう一人の自分。ダメージは全てそいつに行って、私は何の損害も被らない。

 だから、いくらでも口汚い言葉で罵ることができた。

「小鹿宙市は殺します! ナハハハハハハハ」

 ガッツポーズを作って、自分に殺害予告をする。本当に殺せたらいいのに。

 自分で死ぬのは怖いから、誰か一思いに私を殺してくれないだろうか。

 まあそのときになったら、私は必死に泣いて命乞いをするのだろうけど。ああ、みっともない。

「はい、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ、死ーねっ」

 手を叩きながら「死ね」コールを連呼する。言っているうちに楽しくなってきて、私の頬は自然と緩んだ。

 みんないじめはダメだと言うけれど、人間の本性は誰しもがいじめっ子だ。

 殴って、蹴って、罵って。ストレスの捌け口を探している。私にとってはそれが自分なだけだ。

 誰にも迷惑をかけていない。だから、言うのをやめるつもりはない。

 でも、踏切を渡るとコンビニエンスストアの明かりが見えてきた。さすがにコンビニの中では、確実に店員に聞かれるから、少し恥ずかしい。

 入り口をくぐると同時に、私は全ての独り言をやめた。

 だけれど、酒やつまみを選んでいる間も、私は心の中で自分に「死ね」と言い続けていた。

 産みの苦しみから逃げて、酒に溺れようとしている私は、ダメ人間の極致だ。生きている価値が一ミクロンもない。

 どれだけ心の中で「死ね」と唱えても、私の情緒は全く傷つかなかった。他人事みたいに、うまく聞き流してくれていた。


(続く)


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