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【小説】白い手(4)


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 まだまだ続く残暑に、強く照り付ける日差し。地下鉄を降りて、日陰のない道を奈々がスマートフォンを頼りに歩くと、その建物はあった。

 何の気なしに歩いていたら見逃してしまいそうなほど小さな入り口を入って、奈々はエレベーターで三階へと上っていく。降りるとその部屋の入り口は真正面にあって、ドアの横に〝「障害者の性」基礎研修会場〟と書かれた紙が貼られていた。

 ドアを開けると、中から聞こえていた通り、既に数人が椅子に座って待っていた。移動式の机と椅子が並べられた空間の前列中央に集まって、雑談をしている。奈々もその一つ後ろの席に荷物を置いて、会話の輪に加わった。

 自分よりも年代が上の男女。だけれど、奈々は全員が一度会ったことがあるから、挨拶をするのにそれほど苦労はいらなかった。

「こんにちは。皆さん、お久しぶりです」

 四人がリラックスした様子で挨拶を返してくれるから、奈々の緊張は少し和らぐ。「鷹野さん、いかがですか? お仕事を始めてみて」とワイシャツを着た帯島(おびしま)が、世間話みたいに訊いてくる。射精介助サービスを提供する一般社団法人の代表だ。

 訊かれることは予想できたから、奈々はここに来るまでに考えておいた答えを返す。

「正直に言ったら、まだ慣れない部分はあるんですけど、でも介助が終わった後の利用者の方の「頼んでよかった」と言うような表情を見させていただくと、この仕事を始めてよかったなって毎回思います」

「そうですか。健常者でも障害者の方でも、性的な自立が自尊心の向上につながることは間違いありませんからね。これからもよろしくお願いします」

 丁寧な口調の帯島に、奈々も素直に応じる。本音では少し大変だなと思うこともあるが、それは言わなくてもいいだろう。

 先輩職員の赤城(あかぎ)や都築(つづき)とも、情報交換がてら会話を交わす。近況報告は聞いているだけで奈々のためになった。

 研修の開始時間が近づくにつれて、少しずつ貸し会議室に入ってくる人は増えていく。その中には自分より若く見える参加者の姿もあって、奈々は身が引き締まる思いがした。



 研修はちょうど一三時に始まった。まず帯島が障害者の性に対する基礎知識について三〇分程度講義を行った後は、いくつかのグループに分かれて、ケーススタディの検討に入る。毎回課題は異なるが、今回は特別支援学級での性教育についてだった。

 性器いじり等の問題行動を起こす児童にどのような指導・教育をすべきか、鷹野たちは意見を出し合う。奈々も一応持論を考えてきてはいたのだが、赤城は関連する文献の記述を挙げながら、問題の本質を把握しようとしていて、自分の勉強不足に奈々は少し肩身が狭くなる思いがした。

 とはいえ、自分の至らない点を認識するのも、研修の目的の一つではあるのだが。

 さらに、もう一つケーススタディを検討して、今回の「障害者の性」基礎研修は終わった。

 帯島が終了の挨拶をしても、参加者たちはすぐには貸し会議室を後にはしない。研修終了後も、数十分残って懇親会めいた会話をするのが、この研修の恒例になっていた。

「鷹野さん、ちょっといい?」

 研修で使用したテキストをまとめていると、奈々は赤城に声をかけられた。声に責めたりなじってやろうという意図は見えなかったから、奈々も深く考えずに応じる。

「今日はお疲れさまでした」と言うと、微笑みながら「お疲れさま」と返してくれて、奈々と純粋に会話をしたがっているようだった。

「今回の研修も充実してたね。特にディスカッションじゃ、鷹野さんをはじめとした自分以外の意見が聞けて嬉しかった」

「あの、大丈夫でしたか? 私、何か変なこと言ってませんでしたか?」

「ううん、全然。よく考えてきたんだなって伝わってきたよ。それに万が一、的外れな発言をしても、ここは勉強の場だから。じっくり学んでいけばいいよ」

 懐の深い赤城の言葉に、奈々は少し安心した気分になる。大事な学習の機会を無駄にはしなかったことに、ひそかに胸をなでおろした。

「ところで、鷹野さん。最近、何か変わったことでもあったの?」

「変わったこと、ですか?」

「そう。鷹野さん、ここに入ってきたときも研修中も、ちょっと浮かない顔してたよ。なにか大変なことがあったみたいに。よければ、私に話してみて。話せば、少し気が楽になるかもしれないよ」

 完全に一〇〇パーセント、善意のみで言っている。それは奈々も、赤城の目を見れば分かった。

 赤城は射精介助のケアサービスが始まった当初から勤務している古株のスタッフだ。今抱えている悩みも、既に通ってきているのかもしれない。

 奈々は胸に沈んでいる澱を、赤城に吐き出してみる。主に寺島にきつく言われたという内容を、愚痴っぽくならないように落ち着いて伝えた。赤城も時折頷きながら、耳を傾けてくれている。

 誰にも言えなかったことは話しているだけで、その黒ずんだ色が少しずつ漂白されていくようだった。

「なるほどね。利用者の方にそんなことを言われたんだ。それは大変だったね」

 共感を示してくれる赤城に、奈々はほんの少しでも胸が軽くなった心地がした。自分は悪くないと言ってもらえているようで、ありがたかった。

「赤城さんは、利用者の方に心ないことを言われたことはあるんですか……?」

「ごめん。私はそこまで記憶にないかな。私が介助してきた利用者の方は、穏やかな人が多かったから。内心不満を感じられていたとしても、そこまで直接的にぶつけられたことはあまりない」

「そうですか……」

「本当は気にしないでって言いたいとこなんだけど、どうしても気にしちゃうよね。障害を持ってるからって、みんなが清廉潔白だったり純真無垢だったりするわけじゃないし。でも、そんなときは自分を守らなきゃいけないと思う。その人の介助はもうしたくありませんって、はっきり言った方がいいと思うよ」

「そんなこと言っていいんですかね……? 他の人にしわ寄せがいくだけなんじゃ……」

「いいのいいの。たぶん鷹野さんとその人は、相性が悪かったんだよ。他の人には文句言わないかもしれないし、それに言った文句は、結局は全部自分に跳ね返ってくるからね。その人だって、それが分かってないわけじゃないでしょ」

「赤城さん、案外冷たいこと言うんですね」

「いや、だって結局は人間対人間の問題でしょ。こっちを傷つけてくる人には近づきたくない。それは当然のことでしょ? 障害があるからって我慢してたら、それこそその人を特別な存在として扱ってるってことじゃない」

 一理ある。奈々はとっさにそう思った。障害があるからって、何を言っても許されるわけじゃない。当たり前のことだ。

 元々寺島は「もうあんたには頼まない」と言っていた。どちらも望んでいないのなら、これ以上関係を続ける理由はどこにもない。そう奈々は自分を納得させて、赤城の言葉に頷いた。

 射精介助はボランティアじゃない。お金を払って受けるケアサービスだ。

 奈々の態度を見て、赤城も納得したらしい。「そうそう」と、この話は終わりとでも言うように話題を変えていた。

「今月号の『月刊介護』、もう読んだ?」

 奈々は首を横に振る。「月刊介護」は毎月一〇日に発行される、介護業界の専門誌だ。鷹野も定期購読している。だけれど、諸々の予定が立てこんで、三日経った今でも奈々は、まだ目次にさえ目を通せていなかった。

「そう。でも、在宅介護の最前線とか、パーキンソン病の病因が判明したりとか、色々ためになる記事載ってたよ。時間があったら読んでみたらいいと思うな」

「それは私もそうしたいと思ってます」

「でさ、今月号から始まったエッセイが面白いの。障害を重く書かずに、ユーモアを交えて書いてて。知ってる? 作家の須崎知通先生。その人が書いてんの」

 赤城から出た名前が、奈々には一瞬飲みこめなかった。思ってもみなかった点と点が、線でつながった感覚がある。

 思えば須崎の部屋は本が大量に並んでいた。でもそれを即作家業をしていると、結びつけることは難しいだろう。

 奈々は思わず「えっ、そんなのがあるんですか?」と、間抜けな返事をしてしまう。赤城は半ばきょとんとした顔をしていた。

「えっ、知らないの? 須崎先生。何年か前に芥川賞獲ってたじゃない。車いす姿でスピーチしてて。覚えてないの?」

 覚えていない。というか気にしたことすらなかった。奈々はまったくと言っていいほど小説を読まないし、芥川賞なんてそれこそ、地球の裏側で一組のカップルが結婚したぐらいのニュースでしかなかった。

「すいません。覚えてないっていうか、今初めて知りました」

「そう。まあそういうこともあるよね。でも、よかったら読んでみてよ。受賞作の『真っ赤なロケットに乗って』は最近文庫版になったばかりだから、書店にも置いてあると思うよ」

「は、はい。そうしてみます」と答えながら、奈々の心に広がる動揺はまだ収まっていなかった。芥川賞作家とはいえ、ケアの仕方を変える必要は少しもないが、それでも今度会うときには少し緊張してしまいそうだ。

 会話を続ける赤城に話を合わせながら、奈々は帰ったらさっそく今月号の『月刊介護』を読まなければと思った。他の何を差し置いても、真っ先にしなければならないことに思えた。



 家に帰ると、奈々はすぐに自分の部屋に向かった。机に積まれている専門書の中から今月号の『月刊介護』を抜き出す。

 目次を開くと、確かに他の記事よりも大きな文字で『新連載・須崎知通の脳性まひ生活百転び百一起き』と書かれていた。さっそく当該のページを捲る。エッセイのタイトルが、本人の手書きと分かるよれた字で書かれていた。

〝皆さん、はじめまして。須崎知通です。私は今幸運にも作家をやらせていただいています。自分の思いを文章にして残せるのは何より楽しいです。もしかしたらテレビや新聞等で見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、私は脳性まひを抱えて生まれてきました。今は両脚がまったく動かず、両腕も動かすことはできますが、苦労している状態です。この身体で生まれてきて大変なことはもちろんあります。ですが、それ以上に楽しいと思えることや幸せだなと思えることもあるので、この連載ではそんな日々のことを思うがままに綴ります”

 そんな挨拶から始まった須崎の文章は、さすがはプロの作家だけあって、文章を読むのが得意ではない奈々にとっても、分かりやすく読みやすいものだった。確かに赤城の言う通り、障害を深刻ぶるのではなく、あくまでも自分を構成する要素の一つとして捉えている。

 エッセイは一〇ページほどあったが、平易な文章は奈々でも読み進めるのにさほど苦労はしない。日々のこと、子供時代のこと、家族のこと。様々なトピックがごく自然につなげられている。

 その中に、入院生活を送っている友人の記述もあった。病名は「現在の医学では治療方法が確立されていない病気」としか書かれていなかったが、その描写に奈々はどうしても淳矢のことを重ねてしまう。

 淳矢もまた最後の一年間は、診断を受けた大学病院で過ごしていた。



* * *




 長かった冬もすっかり終わり、暖かな日差しが窓から差しこむ。一〇階にある病室は、近くの遊歩道に咲き誇る桜を、空の上からみたいに見下ろせる。

 コートもいらないくらいの穏やかな日に、奈々はベッドの側に座っていた。部屋に一つしかないベッドに寝ているのは、もちろん淳矢だ。とはいっても気管には呼吸器がつけられ、いくつもの管が身体のいたるところに取りつけられている。水色の病衣の奥にのぞく身体は、瘦せた土地になんとか生えている木のようだ。

 看護師が痰の吸引を終えて病室から出ていくと、奈々と淳矢は二人きりになった。奈々は淳矢の姿をしっかりと捉える。訪れるたびに、少しずつ皺が増えている淳矢の姿を。

「ねぇ、お兄ちゃん。昨日さ、また面白い漫画を見つけたよ。ジャックプラスで配信された『チルアウトはいらない』っていってね。クラブミュージックを題材にした青春ものなんだけど、終盤がめっちゃエモくて。私すごい感動しちゃったんだけど、よかったら今から読んでみる?」

 奈々の提案に淳矢は、はっきりと一回瞬きをした。気管切開手術を受けて喋れなくなってから、一回瞬きをしたらYES、二回瞬きをしたらNOというのが簡単な意思表示となっている。

 奈々はタブレット端末をバッグから取り出して、漫画アプリを表示する。淳矢に画面を見せながら、瞬きを確認するたびにスワイプしてページを捲っていく。

 症状が進行して、淳矢は全身の筋肉を少しずつ動かせなくなっていたけれど、それは顔の筋肉も例外ではなかった。小さく目が細められているだけでは、奈々は表情から心情を読むのは難しい。

 だけれど、つまらなく思ったり退屈してはいないことは、なんとなく分かった。

 一人で読んだときは五分もかからなかった漫画でも、淳矢と一緒に読んだら優に一〇分以上かかってしまう。

 だけれど、奈々はまったく不満には感じなかった。淳矢と同じ漫画を読んで感動を共有できていることが、今は嬉しかった。

 読み終わって「面白かった?」と訊くと、淳矢もはっきりと一回瞬きをしてくれる。それだけで奈々は胸が温かくなったし、また淳矢に楽しんでもらえるように面白い漫画を見つけなければという気になった。

 それからも奈々が一人で喋ったり、タブレット端末で「いいね!」をしたSNSの投稿を一緒に見ていると、あっという間に時間は過ぎ、気がつくと面会時間が終わるまで、あと三分ほどに迫っていた。

 奈々はそっと息を吐く。また明日も会えるとはいえ、病室を離れるのが口惜しく感じられた。

「じゃあ、お兄ちゃん。私そろそろ行くね。あっ、そうだ。今なんかしたいこととかほしい物とかある? 可能な範囲で用意するよ」

 そう言って奈々は棚の上に置いてあった文字盤を手に取り、淳矢の前にかざした。タブレット端末もいいけれど、こうしてアナログの道具を使うのも、ちょっとした機能維持の練習の一つになる。

 淳矢はゆっくりと右手を持ち上げた。一文字一文字確かめるように、人差し指で指す。

〝あ、り、さ〟

 淳矢が示した文字は、ゆっくりとだった分、奈々には余計切実さを持って感じられた。「有紗さんに会いたいの?」と言ってみても、奈々は有紗の連絡先を知らない。淳矢のスマートフォンを使わない限り、コンタクトを取るのはほとんど不可能だった。

 淳矢は瞬きをしない。そのまま文字盤を指し示し続ける。

〝し、た、い〟

 そのメッセージに、奈々は一瞬呆気にとられた。「会いたい」とかじゃないんだと、率直に思ってしまう。

 こんな寝たきりの状態でも、性欲はあるのかとひどく意外に思えた。いや、もしかしたらこういう状態だからこそ、性欲が高まっているのかもしれない。

 ALSと診断されてから間もなく、淳矢はセックスができなくなった。もともと性欲は人間の三大欲求の一つだ。淳矢が溜めこんでいるのも、おかしくはないなと奈々は思い直す。

 だけれど、それはもう叶わない願いだ。どう返しても間違いな気がして、鷹野は「そっか」と曖昧に応えることしかできなかった。淳矢の願いを叶えてあげられない自分に、無力を感じた。

「じゃあ、お兄ちゃん。私、もう行くね。また明日」と、逃げるように病室を後にする。

 一人取り残された淳矢はどんな思いをしているのだろう。そう考えると、奈々の心はじんじんと痛んだ。


(続く)


次回:【小説】白い手(5)


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