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【小説】なれるよ(6)


前回:【小説】なれるよ(5)




 
 電話を切る。スマートフォンを布団に投げた。不採用であることを、わざわざこんな時間に電話までして知らせてくるとは。残業が多いことが窺える。俺が応募した形態は契約社員で、給料は求人票に十二万円と書かれていた。理想を取り下げて、現実的に俺でも採用されるであろう仕事に応募したが、結果は散々だ。

未経験でもできる仕事に拒まれて、俺は必要とされていないことを、何度目か思い知った。俺は、間違っていない。そう思うことにも限界が来始めていた。

 誰からも見られていないと、却ってよく眠ることができる。どれだけ寝てもいいというのは自由だったが、歓迎すべきものではない。いくら寝ても頭は重く、もやは取れないままだった。

どうして、生きているのか死んでいるのかも分からないような状態で、日々を送らなければいけないのか、ずっと考えていた。考えれば考えるほど、自分に非があることを、誰もが吹聴してくるようで、苛立ちは増した。俺は来たくてこの場所に来たわけではない。顔の見えない奴らが集まって、俺を誤った方向に導いたのだ。

 俺は、顔の見えない奴らをイメージした。笑っていた。俺はこんなに苦悩しているのに、奴らはへらへら笑って楽しんでいた。俺は、それを許すことができない。自分と他人は無関係で、笑顔でいることは何ら悪いことではない。分かっていた。嫉妬とも呼べるその感情は、決して抱いてはいけない。間違った憎悪が俺の中で渦巻いていた。

 だから、もう止める。憎悪を抱いている自分を消す。常に正しい社会の中で、間違った俺はいられないのだ。そう考えたとき、あの日のニュースが去来した。俺と同じ名前の加害者。今は捕まって留置場にでもいるのだろう。偉大な先達である彼のことを思い浮かべてから、俺の頭は余計働かなくなり、ある未来だけを見据えるようになった。もう準備はできている。

テーブルの上には、黒いプラスチックのカバーが光を吸収していた。俺は彼と同じ道は辿らない。

 ベランダに出ると、夜なのに気温はさほど下がっていなかった。煙草に火をつける。あの煙草以来、しっくりくる煙草には終ぞ出会うことができなかった。結果として、最もあっさりとした味わいの入門用と言われる煙草を、今俺は吸っている。味気無く、ただニコチンを吸入している姿は悲惨なものだった。誇りも何もあったものではない。

 見上げると、数多の星が瞬く夜空に、細い月が出ていた。これから徐々に太くなり、しまいには満月にならんとする月だ。俺とはまったく正反対だ。柔らかい光に「つまんねえ」と吐き捨てる。

最後の月に別れを告げて、俺は部屋に戻った。放り出された服や雑誌に、月や星の光が当たるのを、カーテンを閉めることで遮った。人工的な光もすぐに消し、俺は布団に入って、寝た。

 明日は、きっと来る。





 

 

 

駅にはまだ人が大勢いた。電車は二十二時過ぎだというのに、座れる席がなく、祐二はだらんと、椅子の仕切りに寄りかかっていた。洋一には、車窓から屋上看板が照らされているのが見える。

 アパートに戻ると、部屋の中は湿気が充満していて汗ばむほどだった。洋一は電気を点けてすぐ、エアコンの除湿機能をオンにする。排気音が喧しい。ぐったりしている祐二の肩を持って、部屋まで運んでいく。布団の上で肩から手を放すと、祐二はそのまま花が萎むように、横になった。明日から仕事が始まるというのに、飲み過ぎだと洋一は苦笑した。

「おい、せめて部屋着に着替えてから寝ろよ。あと歯磨け。初日で会社の人に、息臭いって思われたら最悪だぞ」

「はいはーい。分っかりましたよーだ」

 完全に泥酔していて、呂律も怪しい祐二はトイレに向かって行った。洋一がそのまま残って部屋の片づけをしていると、知らない歌が聞こえてきた。英語の歌詞らしいが酔っていると、完全にカタカナにしか聞こえなかった。隣人に怒られるかもしれない。

 洋一が注意しようと思った矢先、祐二はバンド名がシンプルに描かれたTシャツに、下は黒いスウェットを着て戻ってきた。額が少し赤い。そのままベッドに向かい、また、すぐに横になった。スウェットから下着が覗いている。まあ寝やすいならそれもいいだろう。

寝る支度をしようと、洋一はドアに手をかける。心細い声が聞こえてきた。

「兄ちゃん。俺、明日大丈夫かな」

 祐二はこちらを向いていない。

「仕事をこなせるかどうかも不安だし、残業も嫌だなあ。それに会社の人が、怖い人ばっかりだったらどうしよう。怒られたくないよ」

「あのな、皆働く前はそう思うもんなんだよ。お前だけじゃなくて。でも、いざ始まってみれば大体なんとかなるから。仕事の内容とか残業とかは知らないけど、ちゃんと保険にだって入れてくれるんだろ。契約社員とはいえ。それに会社の人だって、そんなに怖い人ばっかりじゃないと思うぞ」

「そうかなあ。ちょっとのミスで鬼のように叱られない?」

「そりゃあミスしたら叱られるかもしれないな。でも、最初のうちは多少は大目に見てくれるよ。誰でも最初は初めてなんだし。それに、怖い人ばかりだと思うのはお前が怖がっているからじゃないか。世の中悪い人ばかりじゃないんだから。な?」

 返事はなかった。その代わりに聞こえてきたのは穏やかな寝息。いったいいつから寝ていたのか。一人で話していて恥ずかしいな。そう洋一は照れ臭そうに笑った。すると、スイッチが切られたように体の力が抜けていき、強い眠気に襲われた。目をこすりながら確認すると、目覚まし時計はしっかりと七時半に設定されていた。安心して照明を消し、部屋から出る。

 祐二が自立しようとしている。食事を作る機会も減っていくだろう。それは洋一にとっては歓喜でしかないはずだった。だが、そこにはいくばくかの寂寥感も含まれている。見慣れたリビングがいつもより広く感じたのは、思い過ごしではないように洋一には思えた。




「兄ちゃん、起きてってば」

 体を揺さぶられ、洋一は目を覚ました。大きく伸びをしようとすると、ソファからずり落ちてしまい、腰が痛んだ。頭が、ずきずきしていて重たい。

 それでも体を起こすと、ソファの後ろに、既にスーツを着た祐二が立っていた。寝癖はきちんと整えられているが、初めて着るビジネススーツはまだ不慣れで、スーツに着られているとはこういうことか、と洋一は感じた。

「兄ちゃんがこんな時間まで寝ているなんて珍しいね。いつもはもう起きてる時間なのに」

「昨日飲んだからな」

 スマートフォンをタップする洋一。液晶に表示された時刻に、打たれたかのように意識が取り戻された。出社時間まであと二〇分しかない。

「悪い!こんな時間まで寝てて。朝飯作ってやれなくて」

「いいよいいよ、コンビニで何か買って食べるから」

 祐二は靴ベラを使い革靴を履きながら応答した。靴先には光沢が残っていて、踵もすり減っていない。ああ、祐二は本当に就職したのだと、洋一はようやく納得した。定番の黒いビジネスバックを持って、祐二は重いドアを開けた。

日光は感じられなかったが、蝉の鳴き声がうるさかった。

「しっかりやれよ。でも、いきなり飛ばし過ぎると疲れるから程々にな」

「分かってるって。頑張るから」

 祐二はこちらを振り向いて微笑んだ。一瞬を永遠に変えるかのような柔らかい表情だった。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 部屋から覗く空は晴れている。祐二は光に恵まれた世界へと、一歩を踏み出していった。輝かしい光景も急ぐ洋一の印象には残らない。慌てて自らの準備をする洋一。

祐二と交わす最後の言葉だと知っていたら、噛みしめるように立ち止まっていただろうか。

遅刻をしてでも、祐二の後ろ姿を目に焼き付けていただろうか。



続く


次回:【小説】なれるよ(7)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。

また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。

なお、全十回予定です。

そして、紙の本も以下の通販サイトで販売していますので、こちらも合わせてお願いします。

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