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【小説】なれるよ(4)


前回:なれるよ(3)


 蔦の巻き付いた石垣。ひどく規則的な踏切の音。淡い黄色に塗られた電車が、線路脇を走る赤い自転車を追い抜いていく。座席はすべて埋まっていて、電車の中で、二人は吊革を持って立っていた。

 線路は海岸線へとさしかかる。洋一の前では、白髪の混ざった老婦人が文庫本を読んでいる。祐二はスマートフォンで、また動画を見ている。水色のヘッドホンが、大きい頭に不釣り合いだった。

 洋一が顔を上げると、目の前には藍色の海が見えた。遮るものがなく、水平線まで見通すことができる。次の駅まで、あと三分あるのがありがたかった。
 
 言い出したのは祐二だった。急に「海に行きたいんだけど」と、歯を磨いている洋一に話しかけてきたのだ。どうやら例の俳優が出演した映画に、海でのシーンがあったらしい。

 舞台は少し寂れた港町で、主人公とヒロイン、ライバルの三人は、事あるごとに海に行っていたらしい。夕陽が翳る中、主人公がヒロインに告白をしたラストシーンが、とにかく綺麗だったと、祐二は興奮気味に語っていた。パンフレットまで持ち出して。

 喧嘩したことなど、まるでなかったかのように。
 
 電車のドアが、軽やかなベルの音とともに開く。ホームに降り立ってみると、潮の抜けるような匂いが、洋一の鼻腔に飛び込んできた。頬に当たる風も、どこか湿っぽくて嫌いではない。実に三年ぶりの海だった。

 感慨にふける洋一とは対照的に、祐二は海の気配を味わうこともなく、改札口の側で、「早くしてよ」と急かしている。手をかけている鉄道のマスコットキャラクターの看板は、影になっていて、大きな目に哀愁を漂わせていた。

 駅前の道路を青い車が横切っていく。

 駅を出て、砂がぽつぽつと浮かぶ階段を降りたら、砂浜に出た。遠くで、ピンクのサンダルが落ちて砂を被っている。四月の海には家族連れも、ナンパにしか興味がないような空っぽの連中もいない。いるのはサーファーが数人。それも年季の入ったベテランだけ。脇腹に灰色の曲線が入った黒いウェットスーツを着て、波をかき分けている。

 二人は、そのまま砂浜に腰を下ろした。重みでゆっくりと砂が沈んでいく。波の音だけが、静かに響いている。

「海っていいよね。こうでっかくてさ。些細な悩み事なんて、どうでもよくなってくるよ」

「そうだな。落ち着くな」

「特に波の音がいいよね。癒やされるよ。そうだ、兄ちゃん。どうして波の音を聞いてると、癒やされるか知ってる?実はちゃんとした理由があるんだけど」

 祐二は、得意そうに顎を少し上げていた。洋一は知らないと答えることもできたが、波の音を耳にすると嘘はつけなくなった。

「1/fのゆらぎだろ。人間に心地のいい揺らぎが、波の音には含まれてるんだって」

「えー、なんで知ってるの?自慢しようと思ったのに」

「職場にヒーリングミュージックばっかり聴いている人がいて、その人から聞いたんだよ。お前だってどうせ映画で知ったんだろ?」

 分かりやすく目を逸らす祐二に、洋一は砂を海に向かって投げることで答えた。また見ると、こめかみから汗が一粒滴り落ちていた。

「まあ、それはともかく。俺は、兄ちゃんにリラックスしてほしくて、ここに来たんだよ。ほら、兄ちゃんいつも仕事大変そうじゃん?たまには、くつろげる時間だって必要だよ。糸だって張りつめてたら、いつか切れちゃうでしょ」

「いつもくつろいでいるお前に言われたくないけどな」

 会話にも飽きた二人が波打ち際まで行くと、四月の海の冷たさは電流が走っているようで、祐二はすぐに逃げ帰っていた。洋一は、それを見て表情を緩めた。



 サーファーを眺め、寄せる波を感じ、水平線の先を想い、どれくらい時間が経ったのだろう。ホームに電車が入ってくる音が何度も繰り返された。人々のざわめきも少ない。空は相変わらず厚い雲に覆われている。

「そろそろ帰るか」

 洋一は、立ち上がって祐二に話しかけた。反応は返ってこない。

「寒くなってきたし、雨も降り出しそうだ。いたってもうすることないだろ」

 実際、雲は憑りつかれたかと見間違うほどの灰色を垂らしている。雨が降らないのが、不思議だった。

「俺はまだいるよ。今日は、夕日を見に来たんだ。見なきゃ帰れない」

「夕日なんて見えるはずないだろ。こんなに曇ってんだから。それが掃除機をかけたみたいに、晴れるとでも思ってんのか。今日の天気予報だって一日中曇りの予報だったし、このままじゃ風邪ひいちまうぞ」

「信じないんだ」

 その言葉があまりにも唐突で、洋一は、え、と聞き返す。

「晴れる、って信じないんだ」

「だってこんなに曇っていて、あと一時間かそこらで、急に晴れるわけないだろ」

「誰が決めたのそんなこと。これから風がとても強く吹いて、この雲を吹き飛ばしてくれるかもしれないじゃん。そして、橙を濃くした太陽が、水平線に沈んでいくんだ。藍色が塗り替えられて、綺麗なんだろうな。帰りたければ帰れば。俺は残るから」

 その言葉通り、祐二は胡坐をかいたまま動こうとせず、視線は水平線の彼方を見つめていた。揺るぎのない表情を持って。スマートフォンで動画を見ているときのにやけた顔とは、似ても似つかない。

 ここで祐二を置いて帰ったならば、心の片隅が、締め付けられるように痛むだろう。兄としてそれはできない。どこか寂しげなその横顔を見ながら、もう一度、砂浜に座り直す。洋一が座っても、砂浜はそれほど沈まなかった。顔を上げるとカモメが二羽、飛び去っていった。飛んでも飛んでも辿り着くことのない旅にでも出かけていた。



 結局、夕日を見ることはできなかった。霧よりも濃い雲に覆われて、光の一筋さえ差さなかった。洋一は、頭にまで靄がかかってしまったかのように感じられた。地球に果てはなくて、遥か上空の飛行機は、今日も見えない壁にぶつかっているのだろうか。

 サーファーはもう一人残らず引き上げていて、今、この世界には洋一と祐二の、二人しかいなかった。二人だけが、潮風に包まれて、隠されていた。

「俺って何なんだろうな」

 祐二が小さく呟いた。洋一にわざと聞こえる音量で。

「ねぇ、兄ちゃん。俺がいなくなったら、悲しい?」

「そりゃ、悲しいに決まってんだろ」

 洋一は、祐二の見上げる瞳が黒いことに気がついた。祐二の瞳に映る自分の瞳もまた黒いことにも。

「うん、そうだよね。でも、世界はそうじゃないんだ。俺がいなくなって悲しんでくれるのなんて、アイツと母さん、それに兄ちゃん。じいちゃんに、あとは高校時代の友達が数人と……。ミキはどうだろう。あいつも今頃は、新しい男でも作ってんのかな」

「急にどうしたんだよ。そんな悲観的なこと言いだして」

「海を見て思ったんだ。『ああ俺って小っちゃな存在だな』って。俺みたいなのがいなくなっても、地球の自転は止まらないし、波は相変わらず打ち続ける。夏にはこの砂浜も賑わって、黄色い声が飛び交うんだよな。俺はこの世界に、一体何を残せるんだろう。死んで、焼かれて、骨になって、墓に収まって。きっと、地上には何も残らないんだろうな。そんなの最初からいないのと同じだ。せめて、一人でもいいから記憶に残る存在になりたいよ」

 洋一は何も言わなかった。言えるはずがなかった。自分もそう変わらないことを、心のどこかで知っていたから。すぐ忘れ去られる存在であることを、頭の片隅では認めていたから。なりたい自分には、永遠になれないであろうことも、おそらくは。

「テレビで、神戸が『自分は今生きている証を残してる』って、言ってたじゃん。俺が生きている証なんて、どこにもないんだよ。卒業アルバムに写っているのは、『仲島祐二』であって俺じゃない。あんなのは虚像だよ。今だって、一日中家にいて動画見て。クソみたいじゃん。生きているのか死んでるのか分からないよ」

「そんなことねぇよ!」

 波の音が聞こえなくなった。吹く風も、洋一には何の感触ももたらさない。

「お前は生きてる!誰も悲しんでくれない?生きている証がない?ふざけんな!お前と過ごした記憶は、俺の中にちゃんとある!お前が死んだら、俺が泣いてやるよ!人目もはばからず泣いてやる!流れる涙の一粒一粒がお前の生きた証だ!だから、何も残せないなんてことはないんだよ!分かったか!」

 言い切った後、吐く息は荒かった。立て直そうと息を吸うごとに、潮の香りが、洋一にはより強烈に感じられた。それもまた、洋一が、祐二が生きている証だった。

「うん、ありがとう。俺、働いてみようかと思うんだ。どんな仕事だっていい。向いてないことだって、頑張ってみる。人との関わりを、増やしていこうと思うんだ。自分が生きた証を多くの人に残せるように。一人でも多くの人の記憶にいられるように。今日は付き合ってくれて、ありがとね。さ、行こう。もう電車来ちゃうよ」

 祐二は立ち上がり、スマートフォンをポケットから出す。海を背景に二人の写真を撮ろうというのだ。洋一も素直にそれに応じた。取られた写真は、街灯の光が差さない砂浜ということもあって、二人の顔は夜に同化して、四つの目だけがフラッシュに反射していた。

 失敗したなぁと祐二は、苦笑交じりにスマートフォンをしまう。これでは記念写真の意味がない。しかし、撮り直すのはタブーのように感じられたので、祐二は海に背を向けて、駅へと歩き始めた。途中、振り返って、立ち止まっている洋一に手を振る。カーディガンの裾が、少しだけ揺れていた。

 洋一は、海へまとまることがない言葉を二つ三つ投げかけて、祐二の元へ歩いていく。波が静かにさざめいている。星空も今日は見えない。何百年もの時間をかけてやってきたのに、見られることがないというのはとても寂しいものだと、洋一は一瞬だけ空を見上げながら考えた。

 電車は二人を乗せて動き出す。じっと動かない水平線が二人が過ごした時間を、確かに留めていた。





 祐二が就職活動を始めてから二ヵ月が経とうとしていた。気づけば葉桜の季節も去り、窓から見える公園には、紫陽花が咲いていた。花びらの一つ一つが、雨に濡れて、幼げに首を傾げている。

 祐二がリクルートスーツを買ったのは、ゴールデンウィークのことだった。洋一も一緒についていった。新卒がスーツを作るそのピークは過ぎたようで、店内に人はまばらだった。店員の言われるままになっていた祐二を、洋一は一笑することで懐かしんだ。

 その翌日、ダブルの裾上げが施された新品のスーツを着て、祐二はハローワークに向かおうとしていた。

「ハロワには、スーツを着て行かなくてもいいんだよ。みんな、ラフな格好で来てるし」


 洋一がそう教えても、祐二は

「いや、俺はスーツで行きたいんだ。これは生まれ変わった俺の決意なんだよ」

 と言って聞かなかった。洋一は、自身の漲りを祐二の言葉の端から感じた。今度こそは期待していいかもしれないと。とはいっても、二回目からは私服で行っていたが。決意はハローワークにでも、置いて来てしまったのだろうか。

 それからも祐二は履歴書や自己PRが書けないと、何度か洋一に泣きついてきた。その度に洋一は就活本で得た、汎用的なアドバイスをして励ました。ありきたりなアドバイスしかできなかった自分は、弟のことを見ているようで見ていないのだと思い知ることになったが、自己PRセミナーや模擬面接を受けるように勧めると、祐二が素直に従ってくれたのは洋一にとってありがたかった。

 最初に受けた面接は通らなかった。話ではものの一〇分で終わってしまったらしい。終わった瞬間に落ちたことが分かった、と祐二は落ち込んでいたが、それでも一夜寝たら、

「兄ちゃん、今日の飯何?」

 と呑気に言う。あまりに呆気ない。しかし、こういう人間が世の中を回しているのだと、洋一は感じた。気温は上がっていき、紫陽花の花も少しずつ散って地面で乾いていく。

 朝食ができるまでの時間、洋一は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。今年になって初めての麦茶。テーブルに置くと、祐二は「サンキュー」と自然にはにかみ、一口で飲み干す。

 どれだけ続くか知れなかった時間は、着実に終幕に近づいていた。


続く


次回:【小説】なれるよ(5)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。

また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。

なお、全十回予定です。

そして、紙の本も以下の通販サイトで販売していますので、こちらも合わせてお願いします。

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