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【小説】なれるよ(7)


前回:【小説】なれるよ(6)



 満員電車から押し出されるようにして、祐二は駅のホームに降りた。これまでも乗ったことはあったが、スーツ姿だと、その情景は今までとは違って見える。他のスーツの人々に憐憫を感じ、「お疲れ様です」と心の中で挨拶をする。そんな同情が寿司詰めにされたのが、満員電車というものなのだろう。これから毎日乗ることを考えると、祐二は少し憂鬱な気分になった。

 駅の改札口を出て、街へと歩き出す。面接で来たときもそうだったが、祐二はこの街の持つ雰囲気に独特なものを感じていた。ビルが林立しているのは、他の街と大差ない。しかし、色使いが決定的に違う。赤に緑に紫に、原色が目立つように、ふんだんに使われ、空の青を妨害している。今日は曇っているが、その派手さは変わりない。

 そのことが祐二には、少し気に食わなかった。すぐに何も感じなくなると思ってはいても。

 いくつかのビルに巨大なロボットや四頭身の女性キャラクターが描かれていることを祐二は確認した。街はある種の人々を受け入れ、また、ある種の人々を排除するようにできているが、この街はそれが顕著だ。

まだ、自分はこの街に選ばれてはいない。祐二は、背中が縮こまる錯覚を覚えた。
 
 道行く人々も特徴的である。チェックにチノパンというスタイルが多く、さらに外国人も多い。見渡す限りでも、東アジア系、東南アジア系、ヨーロッパ系にアメリカ系と、洋の東西を問わずに来ている印象を受ける。

 初めて日本に来て、どこに行ったらいいか分からない外国人にとって、日本のモダンカルチャーが表出したこの街は、まさにうってつけなのだろう。外国人に話しかけられたらどうしようと、祐二は余計な心配をしたが、誰一人として祐二のことを見ていないのだった。

 様々な人生を持った人々と、立て続けざまにすれ違いながら、祐二は会社へと向かう。八月だというのに黒い帽子に、黒いサングラス、そしてマスクをしている男が目の前を歩いてくる。その男は胸にブランド名がピンポイントであしらわれた、長袖の白いシャツを着ていて、肩からポーチをぶら下げていた。

 すれ違った時に、祐二は緊張を感じた。身長はあまり高くなく、顔も地味だというのに、鋭く尖ったような様相があった。男はズボンのポケットに手を入れたまま、逆方向へ歩いていく。祐二は、振り返ることはしなかった。

「うあああああああああああああああああああああ」

 耳をつんざくような奇声が交差点に投げつけられた。信号は青に変わり、人々が歩き出し始めていたが、踵を返して一気に逃げ出している。

 祐二が思わず後ろを振り向くと、男はナイフを持って立っていた。いや、ただのナイフではない。それは包丁と呼ぶにはあまりに刃が長く、柄に刻まれたシンプルな横縞が、却って異様さを放っていた。非力な男でも少し力を込めれば、皮膚の深くまで刺すことができそうだった。刃には血が滴っているが、あまり汚れていない。鋭く光る銀色が、突き立てるような危険を感じさせる。

 男の足元には女性が蹲っていた。リクルートスーツに身を包み、控えめなヒールにはストラップがついている。顔が地面にうなだれて、小刻みに震え、涙が頬を落ちる。白い肌が激しく紅潮していた。腹部からは赤黒い血が零れ落ちていて、熱されたアスファルトを赤黒く染め上げていく。

 それは見るからに致死量で、誰かが救急車を呼ばなければ手遅れになりそうだった。しかし、近づく者はいない。誰もが登場人物ではなく、逃げ惑うエキストラになろうと必死だった。

 男はしばらく呆然とした様子で立っていた。しかし、首を振り目標を見定めると、悲しいほどの叫び声を発して走り出していった。発狂した男からは既に、帽子もサングラスも落ちていて、踏まれたサングラスの破片が、日光を跳ね返していた。祐二には、逃げ惑う人々がまるで魚群のように見えた。

 今、彼女の周りには誰もいない。誰かが手当てをしなければ、彼女は助からない。彼女の周囲には、幸いなことに何人かがいた。しかし、我関せずと言った表情で、冷たく無干渉を決め込んでいる。スマートフォンを手にして、カメラを彼女に向けているから関心はあるはずなのだが、彼らもチラチラと後ろを振り返っては、逃げる準備を整えようとしていた。

 だが、彼女に駆け寄っていく人影もあった。祐二だった。彼の中で、意識よりも行動が勝ってしまっていた。およそ冷静とは程遠い行為だった。たった三回数字をタップするだけなのに、祐二の手は震えて、なかなか電話をかけることができなかった。近くで見た彼女の状況は惨たらしく、傷口からはピンク色の内臓が見え、血が流れ続けていた。目は既に閉じられている。

 スマートフォンのシャッター音に交じって、そう遠くはない場所で、また悲鳴が聞こえた。男女が入り混じった、実に生々しい悲鳴だった。

「あの、警察、ですか。今、人が、刺され、ました。×××、です。すぐ、来て、ください」

 電話はすぐに繋がった。相手が何を言っていたのかは、祐二には定かではない。声はただの音の集合体としか聞こえなかった。だが、そんなことはどうでもいい。今は目の前にいる彼女の処置の方が先決だった。

 祐二は、とっさにカバンの中から、薄黄緑のハンカチを取り出して、傷口に当てた。布地はあっという間に赤く染まり、角からひたひたと、どうしようもなく血がこぼれていった。彼女の紅潮した顔が、少しずつ色を失っていく。

「大丈夫、ですか!今、警察と、救急車を、呼び、ました!もう、少しの、辛抱、です!だ、大丈夫!きっと、助かり、ます!だから……」

 祐二がその刹那、最初に感じたのは鈍い痛みだった。だが、すぐに熱さがそれを上回った。体中の血が沸騰しているかのようだった。音はしなかった。ザクリとかグサリとかいう音は、フィクションだと祐二は知った。知りたくはなかった。顎からアスファルトに着地する。舌を噛んだ痛みが、一瞬熱さを和らげてくれたが、長くは続かなかった。

 ふと目線を下げると、ドロドロしたものがアスファルトに流れ出ている。祐二の血であり、熱であり、歴史であった。

 また、悲鳴が街に谺した。どこか遠くで鳴っているかのような、夢のような悲鳴だった。近づいてくる人は、いない。目の前で、駆け寄った人間が刺されたのだから、当然だ。今、二人に近づくことは、自死を意味している。

 それでも、誰かが手を差し延べてくれることを祐二は願った。自らの生を認めてくれるような感触を求めた。しかし、それが与えられることはなかった。

 代わりに聞こえたのは、シャッターを切る音。やけに現実的な機械の音。祐二が、精魂を振り絞って見上げると、いくつものスマートフォンのカメラが、自分たちを見下していた。悪意のない眼だったが、祐二には神話の怪物が持つ第三の目のように感じられる。

 いくつもの目によって強く睨まれて動くことができない。せめてもの抵抗で睨み返そうともしたが、そんな余力は祐二のどこにも残っていなかった。

 視界が霞み、そして途絶える。熱さもいつの間にか消えて、名前のない心地よさだけが、祐二に寄り添っていた。



 男の凶行は、その後も止むことはなかった。老婆を、痩身の男性を、土産を持った女性を次々に刺した。その度に生まれる悲鳴は、リバーブのような響きを持って、街を埋め尽くした。いくつかの空白地帯ができ上がっていて、上空から見れば、ミステリーサークルにでも見えたのだろう。喧騒が一人の男によって蹂躙されていた。

 やがて、男は立ち止まり、一際大きい絶叫の後に、自らの頸をその刃で刺した。

 男は、ナイフが突き刺さったまま、膝から崩れ落ちるようにして倒れていった。悲鳴が終結する。車両用信号は赤に変わっていたが、車を走らせる者はいない。クラクションの音がどよめいていたが、それもシャッター音を掻き消すには至らなかった。ひどく冷酷に鳴る機械音。彼らはスマートフォンに収められた写真を、いずれ削除するだろうか。

 パトカーの音がして、ようやくシャッター音はなくなった。澄み渡った空だけが、その一部始終を記録している。だが、それも雲に覆われて、再び晴れたならば、一新した青空に葬られることに、違いはなかった。






 
 ニュースは瞬く間にSNSを駆け巡った。人が刺されたというツイートが何千リツイートとその倍の「いいね」を獲得していた。加害者の姿を撮影した写真や動画付きの投稿もあった。投稿は拡散され、テレビのニュースでもその動画が使われるようになった。SNSで見たと呆れる人も少なからずいた。

 時間が経ち、事件の全容が明らかになっていくにつれて、人々はいたく悲しんでいくようになった。三人が死亡、四人が重軽傷。「何の罪もない人が……」と悲嘆に暮れることで、自らの感情が正常に機能していることを確認するかのようだった。

 誰も被害者のことを知らなかったのにも拘らず。無関係な人間を、「自分も襲われるかもしれない」と無理やり自らに結び付けようとしていたが、それはもう意味をなしていない。

 ニュースや動画の投稿には何百件もの返信がついていた。多種多様な丸いアイコンがめいめいに喚いていた。「自殺するのに、他人を巻き込むな」「死にたいなら、一人で死ね」。怨嗟の声が渦巻いていた。

 おそらく、それは正しい。これ以上ない正論だ。だが、想像力の欠如した言葉でもある。自分が自殺するなんてこれっぽっちも考えていない、人生を当たり前のものとして生きている人間の、凶器にも近い主張でもある。

 彼らは自分が絶望していて死が視界に入ったとき、「死にたいなら一人で死ね」と言われたならば、何を感じるだろうか。

 SNSには加害者を「無敵の人」とする言説もあった。失うものが何もないという意味での「無敵」。そこに、人間固有の心の理論は存在していなかった。まるで「無敵の人」という動物がいるかのように。動物だから、自分たちとは違う。その心情は理解できなくても当然だ。

 そう分断することで、安心を保とうとしていたのかもしれない。社会に対する私怨を「無敵の人」に転嫁して、「死にたいなら、一人で死ね」という言葉のナイフでめった刺しにする。そうすることで私怨を殺し、何食わぬ顔をして、また社会の一員に戻っていく。

 人々は、社会を持続させるために、私怨の依り代を欲していた。必要としていた。私怨が一人で死んでいくことを、強く求めていたのだった。



続く


次回:【小説】なれるよ(8)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。


また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。


なお、全十回予定です。


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