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【小説】なれるよ(5)


前回:【小説】なれるよ(4)



 近所のコンビニエンスストアでは、先週から外国人が働き始めていた。煙草の番号を伝えると、まだ慣れていないのか、指を差しながら迷っていた。二分ほど待たされたのに、謝罪の言葉もなく、対応も素っ気ない。レジスターの開く音の方が、まだ温度があった。

片言の「アリガトウゴザイマシタ」に、社会の一員に、俺はレジ袋を雑に掴むことで、抵抗してみせた。外国人は何も言わない。

 じめついた夜道を家に向かって歩く。水溜まりに映る街灯の光が、俺のシルエットを浮かび上がらせる。社会との接点を持たない、惨めな男の姿を。

 いつも使っていた煙草の自動販売機は、二日見ないうちに撤去されていた。コンクリートブロックだけが、そのまま寂しげに放置されていた。代わりに入りたくもないコンビニエンスストアに入ると、いつも俺が吸っていた煙草は、取り扱われていなかった。整然と並ぶ煙草たちは、不格好なパッチワークのようだった。

俺の味方は日に日に減ってきていた。

 就職活動だってそうだ。きっと受かるだろうという甘い見通しで、いくつかの企業に履歴書を送ったが、面接にまで進めたのは一社だけだった。その会社も、面接官のテンションが、面接を進めるうちに目に見えて落ちていくのが分かって、最初の五分から後はさながら敗戦処理と化していた。テンプレートの不合格通知は、一回見ただけでフォルダから削除した。
 
募集をしているからと言って、誰でもいいわけではないという当たり前の事実に気づいた頃にはもう遅く、雇用保険は打ち切られていた。預金通帳にぽっかりと穴が開く。気は進まなかったが、生活のために、今日も履歴書を一通送った。

選考中は応募先は俺のことを考えていて、繋がりが一つできたと思っていても、その繋がりはすぐに断ち切られ、俺に孤独であることを再認識させる。傷が抉られていく感覚は、愉快なわけがない。味方は減りこそするが、増えることはなく、日々は無意味に過ぎ去っていく。

 テレビを点けたまま、ベランダに出て、煙草に火をつけた。初めて吸う銘柄は、絡みついてくるような癖があり、思わずむせてしまった。彼が味方になる瞬間は、訪れることがないと直感した。

次は、また違う銘柄を試さなくてはならない。だけれど、あの自動販売機の煙草の、包み込んでくれるような味わいはもう二度と手に入らないのだと、簡単な諦めを覚えていた。

 その諦観に目をつぶるかのように、俺は慣れない煙草を吸い続けた。現実の不味さよりも、煙草の不味さの方が、俺にとっては十倍も、二十倍もましだった。俺は、多くのことができる。しかし、その能力を発揮する機会は与えられていない。社会には、俺未満の能力の正社員がごまんといるというのに、どうして俺は、仕事に就くことができないのだろう。

社会は、やはりどこかおかしい。

 見上げると灰色の雲の切れ間から、三日月が覗いた。穏やかな月光は、俺の正体を看破していた。俺が一人であることも、社会に居場所がないことも。必要とされたい、必要とされる存在になりたい。そう願うただの凡庸な男であることを、深く見通していた。

俺は一人、かぶりを振る。今の俺は本当の俺ではない。本当の俺は、平然と正社員で働いていて、食べていくのに困らない。俺ではなく、分岐器を操作している奴が間違っているのだ。煙草の不味さがいくらか緩和されたような気がした。

 ベランダから戻ると、テレビは九時のニュースを流していた。男が包丁を持って、通行人を立て続けに襲った事件がトップニュースだった。馬鹿なことだと切り捨てて、夕食の支度、といってもレトルトカレーを湯煎するだけだが、をするのは俺にとっては簡単なはずだった。しかし、テレビに釘付けになっている自分がいた。加害者の下の名前は、漢字は違えど、俺と同じ名前だった。

 同じ星に生きているんだなと、大げさなことを考えている。

 
 


 



 公園から蝉の鳴き声が道端に落ちる。六時になってもまだ空は明るく、歩く度にTシャツに汗が染みる。洋一と祐二が到着したのは、クリーム色の外壁が真新しい、けれど、ありふれた一軒家だった。表札には二人の名前しか書かれていない。

「ただいま」

「ただいまー」

「二人ともおかえりー、元気にしてた?さぁ上がって上がって」

 屈託のない声が、洋一に帰ってきたという実感を湧かせた。玄関をくぐり、目にしたのは、フローリングの廊下。ビニールクロスの白い壁は、最近張り替えをしたようだ。靴箱の上には、サインボールと家族写真。季節外れのスノードームが少し、場違いなように洋一には思える。

 祐二は勢いよく式台に上がり、スリッパも履かずに、上がり框を越えていった。遠慮する様子はなく、むしろそれが正解のようにも、洋一は感じられた。脱ぎっぱなしのスニーカーを、自分のそれと一緒に揃えてから、不変の空気に身を委ねていく。

 ダイニングに入ると、テーブルには既に深めのホットプレートが用意されていた。その横には野菜が切られて、堂々と盛り付けられている。白菜、長葱、春菊。子どもの頃の祐二は、葱が苦手だったなと、洋一はふと思い出す。好物のカレーも、玉ねぎだけは取り出していた。懐かしい思い出に浸ることができるのも、この場所ならではの特権だ。

 キッチンでは、佳美が一人立って、洗い物をしていた。「なんかやることある?」と洋一が聞くと、「いや、ないよ。テレビでも見てゆっくりしてて」とわざわざこちらを向いて言う。

その言葉の裏の意味なんて想像もしない祐二は、無邪気に喜ぶと、冷蔵庫に向かっていった。扉を開けて、中から缶ビールを取り出す。髭の濃い俳優が、パッケージに描かれていた。

「母ちゃん、これ飲んでいい?」

「まったく、祐二はこういうことにだけ、目ざといんだから。いいよ。今日は祐二が主役だもんね。ご飯食べられないよう、程々にしときなさい」

 家にいた頃から、佳美は何かと祐二に甘かった。それは、四年が経った今でも変わっておらず、訪れるたびに、甘さが増している気がする。そんな洋一の心配を気にする様子も見せず、祐二は缶を開けて、直接口に運んでいった。テレビでは、長寿アニメの陽気なテーマ曲が流れている。

「そういえばアイツは?」

 ビールの缶を床に置いた、祐二が訊ねる。

「ああ、父さん?父さんなら今は、町内会の用事で出かけてるよ。それと、父さんのことをアイツって呼ぶのはやめなさい。気の毒でしょ」

「でも、アイツ今まで、兄ちゃんばっかり贔屓してきたじゃん。中退した時も、『もうお前には関わりたくない』みたいな顔してさ。よく思ってないんだよ、俺のこと」

「お前、その話は今はいいだろ。母さんもいるんだし」

「なんで、今だからでしょ。アイツは俺のことなんて気にしちゃいねぇよ。今日一緒に飯食うのだって、それが良いとされてるからでしょ。本当は面倒くせぇと思ってるくせによ」

「そんなことない!」

 祐二の乱暴な思い込みを、佳美の強い声が掻き消す。その声は、洋一の記憶にはあまり見られないものだった。

「そんなことないよ」

 深い水の底から掬い上げるような、希求するような、穏やかな声がキッチンに溶けていった。

 日が沈んでいく。もうすぐ夜になる。来てほしいような、来てほしくないような、拗れた夜の来訪を三人ともが、心の内で予期していた。




 一時間ほどが経ち、ダイニングに、一年ぶりに家族四人が揃った。ホットプレートにはうっすらと牛脂が塗られて、天井の照明を反射している。仲島康利は、ビールの缶をそのまま開けて、ふんぞり返るように、椅子に座っていた。

縞模様のシャツがその強面に不釣り合いで、頭には白髪が、ぽつぽつと浮かんでいる。康利は時折、祐二を見るが、祐二が見返すと顔を逸らしてしまっていた。横顔だと、刻まれた皴が如実に表れることを洋一は認めた。

 キッチンから佳美がビールを二本持ってやってくる。洋一はそのうちの一本を受け取り、蓋を開けてコップに注いだ。黄金色の表面に白い泡がモクモクと浮きだってくる。泡は少しずつ弾けて存在を失っていく。顔を上げると、もう一つのコップに、共鳴するように、泡が立っていた。

「では、祐二の就職祝いに、乾杯!」

 佳美の音頭に続いて、洋一は小さく「乾杯」と呟いた。しかし、残る二人からは声は聞こえなかった。祐二は口を動かしていたけれど、康利はそれすらもしていない。アルミニウムの缶とガラスのコップが触れた時に、缶にコップの質感が吸収されるような、妙な感覚があった。

 パックのビニールが剥がされ、白い筋がきめ細かく入った牛肉が菜箸で取り上げられる。洋一がパッケージを見ると、一〇〇グラム一〇五〇円と書いてあった。二十代の男二人暮らしでは、手が出せないような高質の牛肉だ。

 ダイニングに快音が広がり、割り下が注がれると、醤油の焦げる匂いが香しい。最初に祐二が、程よく赤褐色となった牛肉に箸を伸ばした。持ち上げると割り下が滴り、照らされて輝いているように見えた。

「美味しい。母ちゃん、これいい肉でしょ。こんな柔らかい肉、食べたことないもん」

「分かる?祐二のために、近江牛頼んだの。なんてったって今日は祐二のお祝いだもんね。まだまだあるから、好きなだけ食べていいよ」

「うわー、ありがとう。本当に美味しい。ほら、兄ちゃんも食べなよ」

 洋一もホットプレートに手を伸ばして、一枚掴んでみる。溶き卵につけて食べると、牛肉の脂の旨味に、ほんのりとした甘さが合わさって、安心は感動に姿を変えた。気づいたらそれはなくなっていて、残像を逃さないうちに、ビールに手を伸ばした。

温かな空間。そのなかでも、康利は一人黙々と食事を続けていた。まだ、何も喋ってはいなかった。




 用意された牛肉はもうほとんどなく、焦げ目の付いた野菜が、ホットプレートに放置されている。祐二と佳美は歓談を続けていた。最近出かけた動物園のパンダが可愛かっただの、近くにできたラーメン屋が美味いだの、本当に他愛のない話。祐二が外でもこれくらい喋ることができたのなら、状況は変わっていたのだろうかと、洋一は笑った後にふと考える。

見上げると、壁掛け時計は八時を指していた。まるで何かの合図になったように、予期せぬ言葉が生まれた。

「よく頑張ったな」

 口を開いたのは康利だった。照れくさそうにビールを口に運んでいるが、缶からは何も流れ出てきていない。

「は?何、今更。別に頑張ってなんかねぇよ」

「お前がちゃんと仕事に就けて、俺は嬉しいよ」

「本当は、そんなこと思ってないくせに。嘘くせぇ。良い父親面して、自分を安心させたいだけなんだろ」

 康利は一瞬黙ってしまう。しかし、迷いながらも再び話し始めた。たどたどしい話し方だった。

「運動会のこと覚えてるか」

「何かあったっけ」

「三年生のときの五〇メートル走のこと、覚えてないか」

「そのことかよ。思い出したくもねぇよ」

「そうか。ということは覚えてるんだな。お前はスタート直後に転んだよな。起き上がってみれば相手は遥か先を走ってる。走っても棄権しても変わらない。でも、お前は最後まで走り切った。膝を擦りむいて、半べそをかきながら最後まで。俺はそんなお前の姿をみっともないと思って、ビデオカメラを背けた。昼休憩の時も洋一を労う一方で、『なんで転んだんだ』ってお前を責めたよな」

 佳美がテレビの電源を落とした。そして、静寂。

「中学の時も、高校の時も、俺はお前に何もしてあげられなかった。いや、してあげられることはないと決めつけて、逃げていたんだ。大学を出ても就職できないお前のことを、ずっと恥だと思っていた。でも、本当に恥ずかしかったのは俺だったんだ。時間が経てば経つほど、逃げてきたことが重みとなって、襲い掛かってきた。俺は何をしてるんだってな。今更後悔しても遅いけれど、それでも謝らせてくれ。すまなかった」

 康利が、テーブルに両手をついて、頭を下げた。それも、洋一には初めて見る光景だった。旋毛の周りには髪の毛がなくて、寂しく頭皮が広がっている。年輪のように年を重ねた証拠だ。

「いいよ、頭下げなくて」

 時計の針は、変わらず時を刻み続けている。短針が微かに、それでもはっきりと動いた。

「俺、アルコールが入っている時にだけ本音を言う人って、嫌いなんだよね。酔った勢いで言えることなんて、薄っぺらいよ。もっと素面の時に言ってほしかったかな」

 康利の眉が下がる。口は情けなく開いていて、目には透明な雫が垣間見えるように、洋一には見えた。

「でも、酔っているのは俺も同じか。それに思っていないと、言葉って出てこないしね。嘘でも本当でも」

 祐二の赤い頬が微かに動く。

「ありがとう」

 張り詰めた空気が、解けていくのを洋一は感じた。佳美も頷いていて、同じことを感じているのだと知る。

「頑張れよ」

「うん、頑張るよ。こっからが大事だしね」

 二人の声は、過去の思い出で詰まっていて、ぎこちなかった。抱き寄せるでも、肩を叩くでもなく、座っているだけの二人。テレビの液晶画面がそんな二人を何の効果も入れずにただ映している。

窓には淡い水色のカーテンが両脇に寄せられていて、洋一が窓の外に目をやると、繊月が見えた。小指一本で覆い隠せそうなほど弱弱しい。しかし、拭っても消えない光を、地表に向けて放っていた。

 仰ぐ人々を静かに思いやる、実に優しい光だった。



続く


次回:【小説】なれるよ(6)



※このnoteは、以前投稿させていただいた自作小説『今日の可哀想は美味しいか?』を改題し、大幅に加筆修正を施したものです。

また、第二十九回文学フリマ東京で頒布した同名小説を、そのまま全文無料公開したものでもあります。

なお、全十回予定です。

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