見出し画像

【小説】30-2(2)


前回:【小説】30-2(1)|これ|note



 今年の誕生日は土曜日だったので、私は月曜日までの時間を、映画館に行ったり、本を読んだりと無為に過ごしていた。

 休日は苦手だ。仕事をしていないと、自分が何も社会の役に立てていないゴミ人間だと再認識してしまうから。むしろ、一日も休まず働いた方が、余計なことを考えずに済む。

 どうせ頭も体力も使わない、小学生でもできる簡単な仕事しかしていない。最低賃金程度でも、給料をもらうのが申し訳ないくらいだ。

 かと言って、私は会社が好きなわけではなかった。繰り返すが仕事がきついわけではない。職場のガヤガヤとした雰囲気が嫌なのだ。

 人よりも少しだけ聴覚が過敏なところがある私は、たとえ他の人なら聞き流せるような話し声でも、たちまち気になってしまう。

 特に笑い声は嫌いだ。世界では今も戦争が起こっていて、そうでなくても悲惨な事件が後を絶たないというのに、どうしてそんなに笑えるのかと思う。

 人生が楽しいとでもいうのか。私の人生は希望も何もない、真っ暗闇だというのに。

 何とか午前中の仕事を終えた私は、昼の休憩時間を迎えていた。私語やおしゃべりがどっと増える、私にとって一日の中で最も憂鬱な時間帯だ。

 今日も窓際の自由席では、お決まりのメンバーが集まってヘラヘラと喋っている。

 ああ、鬱陶しい。全員、声も話し方も大嫌いだ。ぶん殴って、喋るのをやめさせたいとさえ思う。

 だけれど、退職になるリスクを考えると、いつも私は何となく合わせてやり過ごす方を選んでしまう。

 本当はあんな奴らのもとになんか行きたくもない。

 だけれど、人と話せない奴はダメ人間だ。コミュニケーション能力至上主義が生んだバイアスが、今日も私を窓際の自由席へと向かわせる。創作のためには、人と話せた方がいいのは明白だ。

「ああ、小鹿(おじか)さん。お疲れ」

「お疲れ様です」

 席に着いた私を無視するように、林谷(はやしや)が他の二人に「私、昨日ハンバーガー屋さんに行きまして」と話を振る。食ってかかるような話し方が気に入らないなと思いながら、私はレーズンパンを口に運んだ。

「そこでビーフバーガーを食べたんですよ。もうこのくらいデカくて、食べにくくて大変でした」

「あなた、大げさに言う癖あるじゃん。実際はそんな大きくないんでしょ」

「いや、坂口さん、本当にこれくらい大きかったんですって」

「でも、それくらい大きいハンバーガーだったら、健康に悪そうでしょ。油とか塩とか使いまくってんじゃないの」

「知らねー、俺食べたことないから。小鹿さんはどう思う?」

 坂口がそこにいるという理由だけで、私に話を振ってくる。正直どうでもいいとしか思えない。

 私は口を動かしながら、「そうですね」とだけ答えた。お前らが休みの日に何を食べたかなんて、心底興味がない。

「でしょ。林谷さん、あなた食事気をつけないとぶくぶく太っちゃうよ」

「それはそうなんですけど、でもそこのポテトがまた絶品でして……」

 それからも箸にも棒にもかからない話を、三人は続けた。うざったい話し声から耳を遠ざけたかったけれど、それでは来た意味がないと自分に言い聞かせた。

 不快な話し声を聞くことは、本当に嫌だったが、それでもレーズンパンを食べ終えたタイミングで口を開く。

「あの、皆さんって映画ってよく観ますか?」

「いや、観ねぇけど。金澤(かなざわ)さんはどう?」

「僕も全然観ないですね」

 あっさりと切り捨てられて、話をする気が失せたけれど、がっかりはしなかった。

 日本人の半数は、年に一度も映画館に行かない。三人が世間で、毎週映画館に行く私がずれているのだ。

 とはいっても、普段は半径五キロメートルの話しかしない三人だ。わずかな可能性にかけて話してみる。

「あの、ウチの市でロケをした映画が今公開されてるんですけど、知ってますか?」

「知らねー。何それ、そんなのあんの?」

「はい。『月のロンド』という映画で、先週の金曜日から上映してるんですけど、観てないですよね……?」

「だから観てねぇって」

「そうですか? あるオーケストラが解散するまでを描いた映画で、あっでも別に全然暗い話とかじゃなくて、最後の演奏は感動しますし。それに羽金の山の方で撮影もしたみたいですよ」

「へぇ、そうなんだ」

「はい。面白いので、ぜひ観てほしいんですけど……」

 反応は思った通り芳しくなかった。興味のない人間に、物を勧めることの難しさを実感する。

 それでも、私が映画の予告編を見せようとスマートフォンを手に取った瞬間、林谷が右手を上げた。話しはじめる合図に私の心はぽっきりと折られる。

「あの、私、動物園、一人で行きたいと思ってるんですけど……」

 そこから三人は私を差し置いて、また愚にもつかない話を始めた。

 動物園ぐらい一人で行けバカと思う。けれど、私はスマートフォンを眺めることで、怒りをもみ消そうとした。SNSをチェックしていても、三人の我慢ならない声が神経を逆なでさせる。せっかくの休憩時間が、まるで拷問だ。

 なんで私はこんなに嫌な思いまでして、ここに座ってるんだろう。三〇分になったら、ここを立とう。自席で音楽を聴いて時間を潰そう。私はそう決めて、自由席に座り続けた。

 どうして三人がそんなに楽しく話せるのか不思議だった。毎日顔を合わせてグダグダ喋っているというのに。

「そういえば、小鹿さんっていくつだっけ?」

 いつの間にか話は、健康の話題へと変わっていた。最近腰が痛くなってきただの、共感できない話の流れで聞かれたので、私は「二十八歳です」とだけ返す。

 一昨日、誕生日を迎えたことは言わなかった。この三人に話の種を提供するのが、面倒くさかった。

「林谷さんは二十九だから、二人年近いじゃん」

 坂口が言ってきても、だから何だとしか思えない。林谷の年齢なんて知るか。

 そう思えるほどに、私は三人への関心を失くしていた。

「二十八とか二十九とかって、まだ若いよね。俺もう来年で四十だもん。何となく体調がよくない日も増えてきたし、本当大変だよ」

 アラフォー特有の健康の話題を持ち出されて、私は「そうなんですか」と、相槌を打つことすらできなかった。他人の体調なんて知ったこっちゃないと思うのは、私が冷たい人間だからだろうか。

 具体的な年齢は知らないが、年が近いであろう金澤が「分かる」と話に乗っかっている。

「俺も最近、関節とかが痛むこと多くなってきたから、坂口さんの言ってることよく分かる。健康で若いっていうのは、それだけで大きな財産だよ」

 ありがたい言葉も私の胸には響かない。でも、聞き流すこともできないから苦痛だ。

 そもそも私はもう人生の九〇パーセントを過ぎているから、決して若くない。仮に六〇歳で死ぬとしたら、今は五十五歳の気分だ。人生の終わりが、強烈に迫ってきている。

 この場を離れたい気持ちを抑えることに必死で、私は頷くことさえ忘れていた。

 だけれど、林谷はまた素早く手を挙げ、自分の話をしようとする。

「でも、私ですね。最近、トイレに行きたくて夜中に起きることが多くなってしまいまして。これは老化のサインだなと思ってるのですが」

「何それ、あなたヤバいじゃん。おじいちゃんまっしぐらだよ」

「なんか、夜間頻尿にはノコギリヤシがいいって聞いたことあるけど、あなたよかったら試してみれば」

「いや、サプリの力に頼るのはちょっと……」

「何それ、あなた改善する気ないじゃん」

 三人は呑気に笑う。まるで自分が還暦を超えても生きるのだと根拠もなくしんじているようで、反吐が出そうになる。

 だけれど、ちょうど一二時三〇分が来てくれて、私はようやくストレスのるつぼである自由席から解放される。

 軽く断ってから自分の席に戻ろうとすると、坂口が「小鹿さん、またね」と声をかけてくれた。

 冗談じゃない。誰がお前らなんかとまた話すものか。

 だけれど、人と話せない自分のダメさに耐えきれなくなって、再び来てしまうのだろう。

 そう考えると、本当に自分が嫌になる。今すぐにでも窓から飛び降りたい気分だ。

 無理やり気持ちを立て直すために、イヤフォンをつけた私は、好きなバンドの曲を流して、机に突っ伏した。

 音漏れがしそうなほどの大音量だから、仮眠をとることはできない。

 それでも、お気に入りの曲を聴いている時間は、会社にいることも忘れられる、私が唯一リラックスできる時間だった。



(続く)


次回:【小説】30-2(3)|これ|note

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?