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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(16)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(15)



 テレビでは、売れようと必死な芸人が、渾身のネタを披露している。俺はそれを見てぎこちなく笑う。外は暗いままだが、つい一時間ほど前までとは、暗さの種類が変化しているように思えた。きっと外に出れば、震えあがるような寒さが新年を迎えたことを、俺に告げてくるのだろう。


 思えば、俺は今まで一人で年越しをしたことはなかった。実家にいたときはもちろん、刑務所でも共同室に収容されていたので、たとえ寝ていたとしても、そこには他の受刑者がいた。一人だと、年を越したことを確認し合える相手はいない。俺はまだ、去年に取り残されたままだった。


 南渕先輩の家で年を越したことを思い出す。豪勢な寿司に明るい部屋。そして、そこには何よりクスリがあった。クスリを炙って、高揚したまま迎えた新しい年。手を開くと、南渕先輩と小絵さんの感触が、蘇るようだった。


 それに比べて、今の俺はどうだろう。机の上にあるのはカップラーメンの容器。床には衣服が畳まずに放置されて、掃除をしていない暖房の風はどこか鼻につく。抜け出したいが、この時間に行くところなど、どこにもない。俺は、まったく一人だった。


 気付いたときには、スマートフォンでSNSのアプリを立ち上げていた。検索窓に七年ぶりの文字列を打ち込む。何も変わっていないことにがっかりし、安堵する。写真の中の恐ろしい怪物に怯むことなく、俺はダイレクトメッセージを送った。テレビは当然のように、浮いた笑い声を流している。夜が明けて、一歩外に出て、軒先の正月飾りを確認でもしたら、俺は新しい年にいられるのだろうか。元旦の夜は少しずつ終わっていく。






「あけましておめでとうございます」


 外に出ると、軒先の正月飾りはもうほとんどの家で仕舞われていた。だけれど、五日もすれば年が明けたことを実感せざるを得ない。自転車を漕ぐ度に、刺々しい風が頬に当たって、大気はあの夜に一瞬にして切り替わったことに気づく。


「あけましておめでとうございます」


 スマープ会場に入ると、暖房の生温い風が優しかった。新しい年になっても、部屋にいる面々に変わりはなく、高咲さんと六角が机を挟んで喋っていた。今日はそこに熊谷も参加している。思っていたよりもスムーズに会話に参加できているので、少し驚いた。


「今年の駅伝は凄かったですよね。途中まで洋光大学がトップを走っていて、このままいくかと思いきや、最後の十区で東上大学が三分差を逆転しての優勝。あれは痺れました」


「僕、見てないんですけど、そんなに凄かったんですか」


「何と言っても、初出場初優勝ですからね。あんな歴史のある大会でも前例のないことだって、解説者の方が言ってましたよ」


「そうなんですか。それは前代未聞ですね」


「弓木、お前もちょっとは世間に関心持った方がいいぞ。何してたんだよ、正月」


「もう特にやることもないのでずっと寝てました。あとは借りてきたDVD見たりですかね」


「あのな、もうちょっとニュース見たりとか新聞読んだりとかして、世の中のこと知った方がいいぞ」


 金髪で刺青も入れている熊谷の口から、予想外の言葉が飛び出す。相応に年を重ねているらしい。


「そういえばさ、先週の新聞に載ってたんだけど、この建物、今年度末で取り壊されるらしいぜ」


 熊谷の声は大きすぎて、密談に全く向いていない。だけれど、それが却って内容に現実味を持たせていた。


「老朽化が激しくて、耐震基準も満たせていないから解体するんだとよ。夏には、ここはもう更地になってるってことだ」


「熊谷さん、それって本当なんですか?」


「嘘だと思うなら、スマホでこの建物の名前と『解体』ってワードを入れて調べてみろよ。記事出てくるから」


 確かに、熊谷の言う通り記事は出てきた。「二〇二七年度に解体」という青い文字に下線が引かれて強調されている。


「乃坂さん、ここが三月で解体されるって本当なんですか?」


「本当ですよ。この建物は老朽化のために解体されます。私たちは県庁近くの建物に映りますし、スマープも四月からはそこで継続される予定です」


「どうして言ってくれなかったんですか?もっと早く言ってくれれば、こんなに驚くこともなかったのに」


「すみません、今回のスマープのプログラムが終了したときに言う予定でした。でも、皆さんを見ているともっと早く言った方が良かったですね。ごめんなさい」


「あの、皆さん。あちら……」


 六角が遠慮がちに声を上げた。ドアの方を向いている。そこには深津が立っていた。焦げ茶色のジャンパーを着ていたが、血色の悪い顔が寒そうだ。深津はいつもそっとドアを開ける。この日は、話に夢中で誰もそれに気づいていなかったようだ。


「あの、深津さん、今の話聞いてました?」


 高咲さんが覗き込むように話しかけるが、深津は何も答えずに、自分の定位置にゆっくりと歩いてきた。「あけましておめでとうございます」と、例によってボソリと一言だけ発して座る。


「えっと……。皆さん、揃いましたね。じゃあスマープの準備をしましょうか」


 カレンダーは二〇二七年になっていた。俺はそれに青色のシールを五つと黄色のシールを二つ貼った。ふと見ると、隣の深津は、何も言わずにスマートフォンを眺めていた。深津のカレンダーには青いシールが七つ貼られていた。少し訝しんだが、本当のことは深津しか知らない。


 ただ、熊谷のようにもう少し打ち解けてほしいと思う。だけれど、その思いは言葉には出さないので、決して伝わることはなかった。






 翌週、俺はスマープが始まる三分前になってようやく会場に着いた。自転車を停め、もうすぐ取り壊される階段を、息を切らしながら上がる。部屋に入ると、高咲さん、六角、熊谷はもう席についていて、カレンダーの準備を終えていた。深津の姿はまだ見られない。そのまま五分経っても一〇分経っても、深津が現れることはなかった。


「深津さん、どうしたんですかね?いつもだったら開始時間までにはちゃんと来てるのに」


 高咲さんが不審そうに尋ねる。


「確かに少し遅いですよね。ちょっと、深津さんの携帯に電話してみます。皆さんは待っていてください」


 そう言うと、乃坂はスマートフォンを取り出し、部屋の外へと歩き出していった。壁掛け時計を見ると、開始時間から既に一五分以上遅れている。


「深津さん、大丈夫ですかね」


「心配ですよね、途中で事故などに遭われていないでしょうか」


「大丈夫なんじゃねぇのか、おおかた寝坊しただけだろ。大学生は生活も不規則になりがちだしよ。じきに現れるって」


「確かに、少しの遅刻なら寝坊の可能性が高いですよね。実は今日僕も、昨日東京に行った疲れが取れずにギリギリまで寝ていましたし」


「なに、お前昨日東京行ったの?何しに?」


「観光ですね。それは別として。もしかしたら深津さんも昨日大変なことがあって、今日はずっと寝ていたかったのかもしれません」


「だといいんですけど……」


 誰もが深津を心配していて、会話はあまり盛り上がらなかった。五か月も週に一回顔を合わせていると、言葉は少なくとも、知り合い以上の関係性になるようだ。たとえ喋らずとも、この部屋は深津を必要としていると感じた。


 束の間、沈黙が流れ、乃坂が戻ってきた。眉間に皴を寄せ、苦い顔をしている。


「たった今、深津さんの携帯に電話しましたが、電源が切れていて繋がりませんでした。また、深津さんのご自宅にも電話したみたところ、お母さんが出て『彰良なら一時間ほど前に家を出ていきましたけど。そちらにいらっしゃらないんですか』とおっしゃっていました。心配ですけど、とりあえずはプログラムを進めていきましょう。途中で来てくれるということもありますし」


 異論を挟む者はいなかった。何かを言ったところで、深津が現れるわけではないことはその場にいる全員が分かっていた。空気は目に見えるくらい淀んでいる。それでも、俺たちは促されるがまま、あと三回となったプログラムに移った。カレンダーでの発表は俺の番で終わってしまって、深津の不在を否応なしに感じさせる。


 俺は、深津のことを忘れようとプログラムに没頭しようとした。今回のテーマは「あなたを傷つける人間関係」。薬物の問題を抱えている人の中には、自分に自信が持てない人が少なくないという。その傾向を持つ人は、自分を傷つけるような人間関係に巻き込まれやすいらしい。そして、自分を傷つける関係性には、「否定される関係性」と「支配される関係性」の二つのタイプがあるというのが今回の要旨だった。


 それでも、滔々と語る乃坂の声は遮るものがないまま、俺のところまで届く。他の三人が音読していても、声は俺の隣をすり抜けていくようで、妙に落ち着かなかった。ホワイトボードも四人分の意見しか書かれず、スペースが中途半端に余ってしまっていた。


 この日は結局最後まで、深津が姿を現すことはなかった。プログラムは三〇分遅く始まったにもかかわらず、終わった時間は普段より一五分遅い程度だった。尿検査を終えて、帰宅しようと会場を出る。この建物を訪れるのも、あと二回かと思うと、少しの物寂しさを覚える。後ろ髪を引かれるように振り返ると、高咲さんがドアの横に立っていた。


「お疲れ様です、弓木さん。今帰りですか」


「そうですね。今日は特にやることもないので、このまま帰ろうかと」


「今日の話どう思いました?」


「自分を傷つける人間関係ですか。自分にも当てはまるところあるなと思いながら聞いていました」


「それは、ここにきている全員そうですよ、きっと。誰もが自責の念に駆られているんだと思います。おそらく今日来なかった深津さんも。弓木さん、これから深津さんがどこにいるか探しません?」


「そんな急に言われても……」


「弓木さん、今日は特にやることないんですよね。じゃあ探しましょうよ。深津さんのこと心配じゃないんですか」


 高咲さんの目は少し潤んでいた。返す言葉は一つしかなくなる。


「分かりました。僕も手伝います」


「そうですか!ありがとうございます!確か弓木さんは自転車で来てましたよね。だとすると、駅前のホテルのあたりを探してほしいんですが、お願いできますか?」


「はい、分かりました」


「そうですか、私は車なので、道路沿いのネットカフェや、深津さんの通う大学周辺を探してみます。じゃあよろしくお願いします。また連絡しますので」


 一つ頷いて、俺は駅前に向かって自転車を漕ぎ出した。駅前には地方都市らしくホテルが林立していて、俺はスマートフォンを見ながら、それらを一つずつ虱潰しにしていった。だが、どのホテルにも深津はいなかった。ホテルから出るたび日は落ち始めていて、俺の心を急かす。あまり栄えていない出口周辺のホテルも探してみたが、手応えはなかった。


 やがて、日は完全に落ちた。ひりつくような寒さを受け、俺はコンビニエンスストアへと逃げ込んだ。肉まんを買ってイートインコーナーで食べる。火傷しそうなほどの熱さが、やや大げさな暖房とともに、俺の体を温める。食べ終わった頃に、高咲さんから電話がかかってきた。


「もしもし、弓木さん、お疲れ様です」


「お疲れ様です」


「どうでしたか、深津さん見つかりましたか」


「いいえ、見つかりませんでした」


「そうですか……。私の方も見つからなくて……。深津さん大丈夫でしょうか」


「たぶん大丈夫ですよ。というか大丈夫であってほしいです」


「そうですね。あの、明日も探したいところなんですけど、私明日は一八時くらいまで派遣の仕事が入っていて、できないんですよね。弓木さん、私の代わりに探すの続けてくれますか?」


「大丈夫ですよ。それほど広い範囲は探せないと思いますけど、精一杯やりたいと思います」


「よろしくお願いしますね。じゃあ明日のNAでまた会いましょう」


「はい、また明日」


 スマートフォンをポケットにしまって、窓を見ると外では雪が降り出していた。粒が大きく、この様子だと明日は積もるかもしれない。そうなったら深津の捜索は断念せざるを得ないだろう。止んでほしいと願う自分がいる。それでも、降る雪は見る見るうちに強さを増していた。





 次の日起きて外を見ると、案の定、雪は積もってしまっていた。俺の膝の高さぐらいまであり、これでは自転車を漕ぐことはできない。仕方がないので、俺はインターネットで市中のホテルを調べ、その一軒一軒に電話をかけた。昨日も最初からこうすればよかった。


 それでも、電話越しに聞こえる言葉は「そのようなお客様は宿泊なさっていません」という言葉のみ。隣の市や町まで範囲を広げてみたが、結果は同じだった。深津はどこにもいなかった。


 気づくと、外は暗くなり始めている。俺はコートを羽織り、NAが行われる教会へと歩き出した。長靴を履いていないので、みぞれが靴の中に入ってきて歩くたびに、足が冷やされていく。何度かコンビニエンスストアに立ち寄り、教会に着いたときには、開始時間の二〇分前になってしまっていた。


 プログラムが行われる会議室に入ると、初回から変わらないメンバーと六角が座っていた。俺は、全員に挨拶をしてラックにコートを掛ける。暖かい部屋に入ると、急に尿意を催し、俺はトイレへと向かった。高咲さんはまだ来ていなかった。


 用を足し終わっても、開始までまだ一五分あった。このまま会議室に行ってもスマートフォンを見るしかすることがない。どっちつかずの時間を潰すために、俺は会議室を通り過ぎ、階段を上った。


 二階の聖堂のドアを開ける。深紅のカーペットが伸びる先に、一人の男が立っていた。灰色のジャンパーに耳まで伸びる髪。小柄なその男は、後ろ姿だけでも深津であると分かる。こんなところにいたとは。だとすると昨日はどこで夜を明かしたのだろう。


 俺は入り口で十字を切ってから、深津の元へ歩み寄っていった。ステンドグラスが暗い夜空を気休め程度に彩っていたが、俺の目にはあまり入ってこなかった。足音はカーペットに吸収され、俺が斜め後ろに立っても、深津は振り返ることはしなかった。イヤフォンもしていないし、気づいていないはずはない。


「おい、ここで何してんだ?」


 音がしない教会に、俺の声はよく響いた。深津はゆっくりと振り向く。顔は少しこけて、目の下にはクマができているように見える。


「お前、なんで昨日スマープ休んだ?」


「すいません……。あの、少し熱が出てしまって……」 


「そんな、すぐバレるような嘘つくなよ。母親からは電話で『いつものように出ていきました』って聞いたぞ。お前、昨日本当はどこ行ってたんだ?」


「ど、どうでもいいじゃないですか……、そんなこと……」


「そんなことって言うけどな。高咲さん、昨日お前のこと探してたんだぞ。あっちこっちに車を走らせて。申し訳ないとは思わねぇのか」


「それは、はい、すいません……。昨日は、親戚の家にいました。誰からの連絡も取らないようにしてもらって」


「じゃあ、無事だったんだな」


「はい……。なんとか……」


 力なくぶら下がった深津の手は、若干震えている。俺は安堵していたが、深津の口振りに不満も感じていた。頭を数回掻きむしる。俺たちのぎこちない会話を、磔にされたキリストだけが聞いている。


「ならいいや。それよりこれからNAのミーティングがあるんだけど、お前も出るか?」


「あの、NAって……」


「なんだ、分かって来てんじゃねぇのか。ナルコティクス・アノニマス。薬物依存者の自助グループだよ」


「それは知ってますけど、いきなり行っていいんでしょうか……」


「大丈夫だよ。最初は皆、誰かに誘われて来るしな。ほら、ミーティング会場は一階の会議室三だから。行こうぜ」


 俺がそう言うと、深津は小さく頷いた。小動物がするみたいだったが、愛くるしさはない。俺は、扉へと引き返す。後ろから平べったい足音が聞こえた。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(17)

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