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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(15)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(14)



「思っていた以上に遠いですね」


「そうですね、でもあともうちょっとですよ、たぶん。頑張りましょう」


 木々の葉がこぼれる中、磐城が先頭を歩いている。集団の後方で六角が頼りない声を出した。やはり五〇歳を超えた六角にとっては、この坂道は大変なようだ。今は下り坂を歩いているから、帰りは上り坂になる。途中で音を上げてしまうかもしれない。そんな六角を、前を歩く高咲さんは、愛想よく励ましていた


 俺は振り返ってそれを認め、再び前を向いた。ざらざらとした木肌の樹木が赤や黄の葉をつけていて、その隙間から少しの青空が見えた。日差しは一〇月にしては生暖かい。


 俺と高咲さんと六角の三人は、スマープの他にNAへの参加も続けていた。何度か参加しているうちに、六角はすっかりNAの輪に溶け込み、ペットボトルのお茶を飲みながら、名前も知らない参加者と談笑したりしていた。相変わらずスマートフォンを見てばかりの俺とは正反対だ。


 NAにはダルクにも繋がっている人もいて、その人からも俺たちは紅葉狩りに誘われていた。同じ市の山間に行くらしい。池に紅葉が反映されて綺麗だと、写真を俺たちに見せてきてもいた。来週のことで急だったが、運よく三人とも予定が空いていたので、参加することができた。熊谷にも声を掛けたが、日雇いの仕事が入っているとのことだったし、深津は言わずもがなだ。そうして俺たちは今、ダルク主催の紅葉狩りに参加している。


「磐城さん、あとどれくらいかかります?」


「さっきカーブミラーが見えましたよね。あそこで大体三分の二くらいですから、あと五分もしないうちにつくと思いますよ」


 マイクロバスを降りてから、歩き始めて二〇分ほど経っただろうか。なかなか先が見えず、本当に辿り着くのだろうかと思っていた矢先、斜め前に開けた空間が見えた。カメラやスマートフォンを持った人が点在していて、想像以上に賑やかだ。やがて、入り口まで歩くと、目の前には池のへりをなぞるようにして、木々を彩る紅葉が見えた。


「では、皆さん、ここからは自由時間です。また一時間後にここに戻ってきてください」


 俺たち三人は池へと歩き出す。赤と黄色がいい塩梅で混ざって橙となった木々たちを、誰もが食い入るように見つめている。池を取り囲む紅葉が、一巻の大きな絵巻物のように俺には感じられる。同じように色づいた個所は一つもなく、種々様々な表情を見せて、めくるめく物語を展開しているようだった。後方には山々が聳え、これまた灰色の岩肌が橙に彩られている。舞台に立つ役者を最大限に輝かせる舞台装置としての役割を立派に果たしていて、見ていて心地がいい。


 極めつけは池に映る紅葉だ。水面が葉の輪郭をぼやけさせて、まるで柔らかな水彩画のタッチを思い起こさせる。風に揺れるその景色は、独特のリズムを持っていて、見る者を掴んで離さない。正直なところ、どうでもいいと思っていた紅葉がこんなにも鮮やかに見えることが、俺には意外だった。画面越しでは味わえない総天然色の豊かさを、受け止められる感受性がまだ残っていたことに驚いた。


「うわー!きれい!」と高咲さんが声を上げる。俺も「綺麗ですね」と返した。


「思っていたよりもずっと素晴らしいですよね。木々が輝いてる」


「なんか水面に映った紅葉がいいですよね。風に揺れて神秘的というか」


「あーあ、同じ市にこんな素敵なところがあるなんて。もっと早く来てればよかったなぁ」


「高咲さんは、ここに来るの初めてですか?あの、僕は初めてなんですけど」


「私も初めてですね。紅葉とかあまり興味なかったので。あ、六角さんはどうですか?ここに来たことあります?」


 高咲さんの問いかけに六角は答えなかった。その目線は、紅葉ではなくどこか決まった一点に集中しているように俺には感じられる。話しかけるのがためらわれるほど、研ぎ澄まされていたが、少し悲しげでもあった。


「六角さーん、どうしたんですかー?」


 高咲さんが今度はより六角の耳の近くで話しかける。


「あ、すいません、高咲さん。ちょっと聞いてませんでした。で、何を言おうとしてたんですか?」


「六角さんって、ここに来るの初めてですか」


「あの、実は二回ほど来たことがあります。そのときはこんな状態じゃなかったんですけどね……」


 そこで、会話は途切れてしまった。六角の目は伏せられている。気まずい空気を払うかのように、高咲さんは池のへりへと歩き出した。スマートフォンを取り出して、色々なアングルから写真を撮っている。俺も高咲さんの元へと向かう。六角も少し逡巡した挙句、ついてきた。だけれど、何かに怯えるかのように背を縮こまらせていた。


「ほら、一緒に写真撮りましょうよ」と高咲さんがあっけらかんと言う。その言葉に吸い寄せられるように、俺は池の前に立った。吹いてくる風すら、一〇月とは思えないほど温かった。俺の右に高咲さん、さらにその右に六角が立ち(というより立たされ)、高咲さんは腕を一杯に伸ばして、俺たちのスリーショットを撮影した。写真はあまり好きではないが、高咲さんが隣だったからか、どことなく悪い気分はしなかった。写真を見て喜ぶ高咲さんをよそに、六角はそそくさとその場を離れようとする。


「ママ」


 ざわめきを剥ぎ取るような声がした。しっかりしているが、まだあどけなさの残る声だ。見ると、山吹色のパーカーを着た少女が、三メートルほど離れたところに立っていた。背はほどほどに高く、やや丸みがかった目には六角の面影が窺える。彼女にとっても予期せぬ出来事だったのだろう。もちろん、それは六角にとっても。少したじろいで見せたのちに、背を向けて場を離れようとしていた。


「ねぇ、ママだよね。何で行こうとするの。私のこと嫌いなの?」


 娘の呼びかけに、六角は足を止めて振り返る。口元が歪んでいた。父親も気づいたようで、六角の方を向いて、目を一瞬だけ見開いた。だが、すぐに真顔に戻ってしまう。真顔のまま近づいてくる元夫は、迫り来る壁のように六角には感じられたのかもしれない。年齢にしては、長い髪が歩くたびに揺れていて、無言の圧力があった。六角はうつむいて、目を逸らしている。


「久しぶりだな。離婚して以来会っていないから、もう五年ぶりになるか」


「そうね……。それ以来になるわね……。あのときは迷惑をかけてごめんなさい」


 元夫が話しかける。六角の視線は、地面に生えた雑草に向けられている。目の前に色づいた紅葉があるというのに。


「今さら、謝られてもな。お前がああしていた以上、いつか別れるのは変わらなかっただろうし。お互いにとって一番いい選択をしたんじゃないか」


「そうだといいけど……」


「で、お前今どうなんだよ。きれいさっぱり止められたのか」


「今まで止めようとはしたんだけど、なかなか上手くいかなくて……。でも、ここ半年は何とか止めることができてる。自助グループにも参加したりして。あ、この二人、そのグループで知り合った高咲さんと、弓木さん」


 不意をつかれて紹介されたので、俺も高咲さんも軽く会釈をすることしかできなかった。顔を上げると、元夫は明らかに俺たちを不審がっていた。「そうか」とだけ言われる。


「ところで、実結。今、十二歳よね。言えなかったけど、中学生でしょ。中学校入学おめでとう」


「うん、ママありがとう」


「お受験でもないし、義務教育におめでとうもないけどな」


「ごめんなさい……。私がどうこう言えることじゃなかった……。私のせいで、二人は大変な思いをしてきたはずなのに……」


「ああ、そうだよ。お前がいなくなってから大変だった。稼ぎは減るし、職場でも近所でも噂をされて、転職したり引っ越すしかなくなって。PTAでも大体が母親の中、父親は俺一人で気まずかったよ」


「そうだったのね……。分かってはいたけれど、私のせいで辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」


「だから、謝るなよ。正直に言うとな、俺は五年経った今でもお前を許せていないんだ。なんで俺がこんなに大変な目に遭ってるんだって何度も思ったよ。もういい機会だし、本当にこれで終わりにしよう。今後、俺たちには一切関わらないでくれ」


「……」


「今な、片親ってことで、実結は学校で少なからず言われているらしいんだ。それに、別れた母親が元ヤク中なんてことが発覚したら、実結がもっといろいろ言われちゃうだろ。今大事な時期なんだよ。頼むからそっとしておいてくれ」


 六角は何とか顔を上げていたが、またうつむいてしまうことは、時間の問題であるように俺には思えた。


「それに、今は止められていても、またいつ再使用するかは分かんないんだろ。どうせそっちの二人だって、元ヤク中なんだろ。自助グループつったって、ヤク中同士が集まって傷の舐め合いをしてるだけなんじゃないのか。はっきり言って、俺にはお前が信じらんねぇよ」


「すみません、それは違うと思います」


 高咲さんが、話に強引に割って入る。「傷の舐め合い」と言われて、俺も神経に障らなかったわけではない。だが、長期間参加しているだけに、高咲さんにとってはどうしても見過ごせなかったのだろう。


「六角さんは、毎回のプログラムも真摯に取り組んでいますし、着実に回復への道を歩んでいます。その姿勢に、私たちは勇気づけられています。それに、私たちがしているのは『傷の舐め合い』ではなく『励まし合い』です。回復の過程では、同じ当事者からの励ましが必要なんです。六角さんは、私たちのグループにとって、とても大事な存在なんですよ」


「そうだよ、パパ。ママが昔はクスリ使っていたって言われても、今は使っていないって言えば済む話でしょ。昔のママと今のママは違うんだよ。そんなことも理解できずに言ってくるクラスメイトなら、私は関わらなくても大丈夫だから」


「でも、それだと実結は寂しくないか」


「パパとママがいつまでも仲が悪いことの方が、私は寂しいよ。せっかくのいい機会なんだし、これからもママに会える方が私は嬉しい。だから、お願い。仲悪くしないで」


 愛娘からの懇願を受けて、元夫は二回頭を掻いた。そして、横を向いて、池に映った紅葉を眺める。地上と水面のコントラストは、変わらずに暖かくそこにあった。風が一つ吹いて、元夫の髪がなびく。


「まぁ、そのなんだ。実結もこう言っていることだし、今度一回飯でも食おうか。お互いのことはそのときにでも、もっと落ち着いた状態で話そう。俺、携帯の番号変わってないから」


 遠くで風に吹かれて、葉が一枚落ちた。少し流れて、水面に着地した。


「ほら、実結行くぞ」


「うん。ママ、また今度ね」


「うん、またね」


 そう言って、元夫と娘は池を後にしていった。恥ずかしいのか足早に立ち去る元夫を、娘が駆け足で追いかける。振り返ってみると、六角の表情は晴れやかだった。自らが発した言葉の余韻を噛みしめているかのようだ。水面に葉がまた、一枚一枚と落ちていく。遠方の山の向こうには、雲一つない青空が見える。この紅葉は見られる期間が短く、来週にはもうほとんど葉を落としてしまうらしい。


 高咲さんが、もう一枚写真を撮るという。俺は、そそくさと六角の元を離れた。一人スマートフォンのカメラに映る六角。撮られた写真は、下で手を組む六角をささやかな日光が照らしていて、温厚で鮮明だった。六角がどんな顔をしていたのかは、言うまでもない。






 バスは山道を下っていく。ガラス越しに見る紅葉は、少しくすんでいたけれど、目に染みるほど綺麗なことにはあまり変わりがなかった。行きとは違ってバスの中には、会話がない。みんな歩き疲れて寝てしまったようだ。窓側の席に座っている弓木さんも、窓の縁に肘をついて、右手で頭を支えて、もたれかかるようにして眠っていた。耳につけているイヤフォンからはどんな音楽が流れているのだろう。


 私たちを乗せて、バスはループ橋へとさしかかった。まだ緑の残るこの時期のループ橋は、遊園地のアトラクションみたいに思える。遠心力が働いて、私は弓木さんの方に思わず寄りかかってしまう。アウターの生地は着古されているのか固く、筋肉の少ない細腕はすぐに骨の感触がした。だけれど、私が寄りかかっても、弓木さんは起きることはなかった。私は、すぐに弓木さんから頭を上げた。どうか寝たふりではなく、本当に寝ていてほしい。


 しかし、私が頭を離した瞬間、弓木さんの手から頭がずり落ちた。アウターの袖が引っ張られて捲れる。私の目に景色は入ってこなくなった。バスのエンジン音も聞こえない。私の目線は、ただ一点のみに向けられていた。私の脳裏には、初めてのスマープにワイシャツで来ていた弓木さんの姿がよぎっていた。


 弓木さんはそれを拍子に、起きてしまったようだ。辺りをきょろきょろ見回して、私に軽く会釈をしてからもう一度目をつぶった。今度は腕を組みながら。私は考える間もなく、会釈を返していたけれど、その会釈はどこかぎこちなかった気もする。きっと表情も笑えてはいない。


 弓木さんはそれを秘密にしておきたかったのだろう。だとしたら、この困惑は私の中に留めておくのが最善だ。私も、気持ちに蓋をするように腕を組んで目をつぶった。バスは市街地へと運行を続けている。音楽がないと、着くまでの時間がやたらと長く感じられた。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(16)


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