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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(17)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(16)




 深津を連れて会議室三に入ると、そこには高咲さんがいて、ラックにダッフルコートを掛けていた。俺を見て、ギリギリになってすみませんと軽く頭を下げていたが、その後ろの深津を目にすると、高咲さんの態度は一変した。少しの間、目を丸くしたかと思うと、すぐに深津に駆け寄る。


「深津さん!よかった無事で!昨日スマープに来なかったからどうしたのかと……」


 NAの匿名性を無視して、思わず深津の名前を呼んでしまう高咲さん。深津を心から案じていたことが分かる。


「それは、すいませんでした……。なんか行きたくなくて……。親戚の家に泊めてもらっていました。本当に申し訳ありません」


「いえいえ、深津さんの顔をまたこうして見ることができただけで十分ですよ。本当によかった。あのそれで、深津さんは今日NAに参加するということでよろしいですか」


「はい……。よ、よろしくお願いします……」


「緊張しなくても大丈夫ですよ。深津さんは初めてのNAですよね。じゃあ説明が必要ですね。あの、NAというのはですね……」


 高咲さんが、俺たちにしたようにNAの概要を、深津に説明する。深津は下を向きながらも、耳だけは高咲さんに向けている様子だ。寒気が流れ込んでくるので、俺はドアを閉めた。ドアの前で話し続ける二人をよそ、俺はひとまず席に着いた。三ヶ月も会っているのに、まだスマープ外の参加者の名前は分からない。それでも、匿名であることの安全性に寄りかかるのは、俺にとっても気分がいいものだった。


 やがてファシリテーターの男が、ドアを開ける。高咲さんと深津は申し訳なさそうにドアから離れ、そして隣同士の席に座った。今年に入って三回目のNAが始まろうとしていた。


 今回のNAのテーマは「将来の夢」だった。ファシリテーターに近い参加者から当てられて、反時計回りですぐに俺の順番はやってきた。小学生みたいだとも思ったが、前の人も、その前の人も、実に真剣な様子で大層な願望を語っていた。ふざけることは許されそうにもない。俺は「社会復帰をして親孝行ができるようになりたいです」と模範解答をしてやり過ごした。実際に心の片隅では思っているから嘘にはならないだろう。部屋にいる全員から拍手が起こった。


 六角は「再び家族で暮らすこと」、高咲さんは「二週間ぐらいヨーロッパを回りたい」と、それぞれに語っていた。高咲さんがそんな浮かれたことを言うなんて、少し意外だった。そして、順番は最後の深津まで回る。遠慮深そうに立つ深津の背筋は曲がっていた。へその前で手をもじもじさせている。それでも、迷いながらも着実に口を開いた。


「僕は、将来はえっと……。先生になりたいです。それはなぜかと言いますと……。小学生のときに、僕は平均よりは成績が良かったんです。それで、クラスメイトに頼まれて勉強を教える機会があったんですけど、そのときに『お前、教えるの上手いな。将来、先生になれるんじゃないか』って言われて。本当に何の交流もないクラスメイトだったんですけど、だからこそ本心から出た言葉といいますか。そこで『僕は将来、先生になるんだ』とぼんやり感じたのが、今でも続いています」


 深津が今にも逃げ出したい気持ちを必死で堪えているのは、場にいる全員が感じていた。誰も深津の独白に口を挟むようなことはしなかった。


「あの、それで……。これは言っていいのかどうかわからないんですけど……」


「大丈夫ですよ。深津さん。ここにいる誰もあなたのことを否定しません。だからどうぞ安心して話してください」


 隣の高咲さんに促され、深津は話す決心を固めたようだった。一息ついて、語り出す。


「あの、僕は中学校のときにいじめを受けていたんです。毎日『キモい』だの『学校来んな』だの言われて、もう学校が嫌で嫌でしょうがなくて。死にたいってずっと思っていて。それでも学校に通い続けられたのは、担任だった浦島先生のおかげでした。浦島先生は僕なんかの話にも、耳を傾けてくれて。よく励ましてくれて。あるとき、僕が「将来は先生になりたいと思ってるんです」とこぼしたら、「深津君ならきっと立派な先生になれるよ」って言ってくれたんです。それが嬉しくて嬉しくて。だから僕も浦島先生みたいな、生徒思いの優しい先生になりたい。それが今の僕の、将来の夢です。本当、身の程知らずですよね……。こんな大それたことでごめんなさい……」


「深津さん、謝ることなんてないですよ。私なんかのきわめて個人的な夢よりよっぽど具体的で、立派じゃないですか。素晴らしいと思います」


 俺も高咲さんと同じ感想を抱いていた。深津が、そんな切実な将来像を描いていたなんて。ちゃんと市にある教育学部に入部しているのだろう。俺は、先ほどの聖堂で高圧的に深津に接してしまったことを、内心恥じた。


 いの一番に拍手をしていたのは、高咲さんだった。他の参加者も倣う。俺も拍手をしたけれど、場の雰囲気に流されてではなかった。深津への罪滅ぼしに少しでもなれたらと、大きい音が出るように力強く手を叩いた。深津は恐縮といった格好で、小さく頭を下げている。深津に新たな繋がりができたことが、自分のことのように嬉しかった。






 ミーティングは、この日も一時間半程度で終わった。俺は少しずつ慣れてきて、発言量も増えていたが、深津は結局最初の独白以外は、何もしゃべることができなかった。かつての自分を見ているようで、責めることは俺には出来ない。他の参加者も初めて参加した深津に暖かいまなざしを向けていて、ここは貶されることがない場であると改めて認識する。


「深津さん、初めてでしたけどどうですか?緊張しませんでした?」


 ミーティングが終わったところで、高咲さんが話しかけていた。高咲さんは、ミーティング中も深津の背中をさすり、リラックスできるようにしていたから、本当に頭が下がる。


「は、はい……。すごく緊張しました……。いきなりだったもので……」


 紺のアウターに手を掛けながら、深津は答える。言葉とは裏腹に、口角が上がっていた。


「まあ初めては誰でも緊張しますよ。これから少しずつ慣れていけば大丈夫です」


「そうですか……。ありがとうございます……」


「あの、深津さん。来週のスマープには来てくださいますか?深津さんがいないと寂しかったので」


「はい。来週こそはまた伺いたいと思います」


「そうですか。よかった。一週空いたとかそんなことは気にせずに、気軽に顔を見せてくださいね。みんな待ってますから」


 深津は来週は来てくれる。もうあの孤立感を味わずに済むかと思うと、溜飲が下がる思いがする。会話を続ける二人をよそに、俺は帰ろうとドアを開けた。


「弓木さん、もうお帰りですか」


「はい、そろそろ帰ろうかなと。今日はお疲れ様でした」


「こちらこそお疲れ様でした。ありがとうございます。深津さんを連れてきてくれて」


 俺は少し恥ずかしくなり、「ありがとうございました」とだけ言って、教会を後にした。道路では、雪が踏み固められて氷になっている。滑らないように慎重に歩く。


 足元を見ながら、翌週のスマープの光景をイメージしようとした。だが、思い起こされるのは過去の記憶ばかりだった。だけれど、それで構わなかった。五人揃って和やかな雰囲気で、プログラムを受けられるのなら、それだけでいい。他に何を望むというのだろう。俺の中でにわかに、翌週への期待が生じた。足取りもわずかながら軽くなる。


 だが、翌週のスマープにも深津が姿を現すことはなかった。






 病院に行くと、二〇七号室に案内された。エレベーターはなかなか降りてこないので、乃坂を先頭にして階段を上がる。深津が入院したと聞かされたのは、その日のプログラムが終わった後だった。約束したのに深津が来ないのはどういう訳かと高咲さんが、乃坂に問い質して聞き出したのだ。誰もが沈んでいて、プログラムにもあまり身が入らなかったことを思い出す。深津は俺たちの中で既に不可欠な存在になっていた。


 病室のドアをくぐると、深津はすぐ右側にいた。水色の病衣を着て、生気の薄れた顔をしてただテレビを眺めていた。左足にはギブスがなされている。テレビはなんてことはない昼のワイドショーを流している。やがて、入ってきた俺たちに気づいたのか、深津は一瞥する。頭の動きが潤滑油を差されていない機械のようにぎこちなかった。


「深津さん、大丈夫ですか」


 俺たちを代表して、乃坂が深津に話しかけた。


「まあ、何とか。ご心配をおかけしてすみません」


「どうして謝るんですか。私たちは深津さんが無事ならそれでいいんですよ」


「そうですよ。深津さんの命に別条がなくて本当によかった。危篤状態になっていたらどうしようかと……」


「そんな大げさな。別に大丈夫ですよ」


「何も大げさじゃねぇよ。俺たちはこういう問題を抱えた人間だろ。他の人間よりも、死はそばにある。お前が平気で、いや平気じゃねぇんだけど、それでもこうやって無事に会うことができて、俺は正直ほっとしてるよ」


「そうですか。ありがとうございます」


「それで、具合の方はいかがですか。どこか痛いところあります?」


「そうですね……。折れた肋骨が今も少し痛むくらいですかね。脳震盪も起こしていたみたいなんですけど、今は松葉杖を使えば普通に歩けます」


 他の四人は、矢継ぎ早に深津に質問を投げかけていた。だが、俺は深津に何かを聞くことはできなかった。深津の伏せられた瞳に、言葉は封じ込められてしまう。いつも隣の席に座っているのに。


「深津さん、あとどれくらい入院しますか。来週で今クールのスマープは最後ですし、ぜひ来ていただきたいのですが」


「先生にもこのまま何事もなければ明後日には退院できると言われましたし、来週のスマープにはまた参加できるようになると思います。だけど、僕なんかが行って本当にいいんでしょうか」


「それはどういうことでしょうか」


「僕は薬物の他にアルコールにも依存しています。お酒を飲んでから薬物を使うのがセットになっていました。それでも、最近は薬物こそ使っていないものの、お酒は飲み続けています。正直いつ薬物を再使用したとしてもおかしくありません。そんな僕が立派に止め続けている皆さんと、顔を合わせていいんでしょうか」


「今さら何言ってんだよ。俺は今でもたまに薬を使っているけど、スマープには毎週来てるぜ。来ること自体に価値があるんだよ」


「そうですよ、深津さん。またスマープに来てくださいよ。一緒に回復しましょう」


「そうですよね。でも正直、僕にはお酒や薬物を止める自信がないです。気づいたら手を伸ばしてしまっていて。本当に駄目な人間ですよね。こんなんで将来、先生になりたいとか、笑っちゃいますよね。真人間じゃない僕が、人を育てることなんてできるはずがないのに」


 深津は、自嘲していた。自己否定の蟻地獄に落ちていくようだ。引っ張り上げようと、高咲さんたちは声を掛け続けたが、どの言葉も深津には届いてはいない様子だった。


「ああそうか。そもそも僕も真人間に育てられていないのか。父親も僕と同じアルコール依存症だったから。仕事から帰って来ては、お酒ばっかり飲んですぐに酔っぱらって。僕と母親は父親のご機嫌伺いをすることに必死で。何か気に食わないことがあればすぐ暴力を振るわれるし。あんな人間にはなりたくないとずっと思っていたはずなのに、気がついたら自分がなってる。母親は『この人は私がいないと駄目なの』と言って離婚しないし、僕も僕で、薬物やお酒にお金を使ってしまって、一人暮らしのための資金は一向に貯まらないし。ああ駄目だ。僕に生きている価値なんてないな」


 その言葉は誰でもない深津自身に向けられていた。鋭利な言葉の刃で、深津は自分の心を抉っていた。


「深津さん、そんなこと言わないでください。確かにお酒や薬物を止めることは難しいかもしれません。でも、そんな上手くいかない状況も含めて、深津さんなんですよ。毎日を必死に生きている深津さんには、それだけで価値があるんです。私たちは誰もその価値を貶すことはしません。だから、安心して来週、スマープに来てくださいね」


「乃坂さん、ありがとうございます。考えておきます」


 そう言った深津の唇は乾いていて、今にもひび割れそうだった。その後も俺たちはしばらく深津のそばに居続けた。会話は思い出したときになされるのみ。だけれど、深津はそれを拒絶しなかった。面倒くさそうにしながらも、ちゃんと返事をしていた。開け放った窓から風が吹き、カーテンの裾が揺れている。深津は、やがて眼を閉じて眠った。






 照明をつけると、ゆとりのない光が俺に差した。俺以外誰もいない部屋で、俺は二時間前のことを回顧していた。窓から覗く空は、黒が青を侵食し始めていた。


 深津は、自分のことを駄目な人間と語っていた。生きている価値がないとも。まるで自分のことなんてどうでもいいという口ぶりで。俺もかつて深津と同じように感じていた。クスリを使っていたころの俺は、何もかもがどうでもよかった。仕事も、生活も、人生も。クスリを使うためだけに生きているも同然だった。


 そして、今の俺には仕事がない。スマープやNAでもあまり発言できていない。毎回会場を後にするたびに、打ちのめされたような気分になる。俺は今でも駄目な人間だったのだ。社会に何も貢献せずに、のうのうと生きていることが恥ずかしい。


 鬱屈した気分を紛らわすために、俺は久しぶりに酒を飲んだ。コンビニエンスストアで買った安い発泡酒だ。しばらくぶりだった酒を、体はなかなか受け付けてくれず、俺は咳き込んでしまった。虚しく響く咳は、孤独をより一層浮かび上がらせる。残りの酒は流し台に捨てた。シンクに酒がこぼれる音が、俺を余計に惨めたらしくしていた。


 振り払いたかった。悲惨も、無情も、全てを投げ捨てたくなった。はっきりとした意識を持って俺の体は動く。棚の三段目の引き出しからライターとストローを手に取り、キッチンの横のアルミホイルを無造作に巻き取った。そして、衣装ケースの奥に手を伸ばす。プラスチックの袋に入ったきめの細かい白い粉末が俺を迎え入れた。アルミホイルに開けると、溶けることのない雪のように望ましく、おぞましかった。


 ライターを手にする。あとは火を点けるだけなのに、なかなか点けられない。本当は分かっていた。自分なんてどうでもいいと言っていながらも、心の底では自分を諦めきれていないことを。自分を大切にしてやりたいことを。労り、慈しみ、自分に価値があると信じたいことを。自分はどこまでいっても自分で、決して投げ捨てることができないことは、理解していた。そのつもりだった。


 だが、こんな自分なんていらないという破壊衝動が勝る。俺は、ライターのスイッチを押し、火をつけ、アルミホイルを下から炙った。発生した煙をストローで一気に吸い上げる。酒とは違い、クスリは何の問題もなく馴染んだ。どこか上から自分を見ているような心地に陥る。疲れはあっという間に消えて、歓喜を叫びたくなった。これが有頂天というやつだろうか。ならば俺はそれに「おかえり」と言おう。クスリを使っていた自分の帰還を、俺は何の抵抗もなく受け入れた。頭のもやが晴れて、このまま何時間でも起きていられそうだった。


 床に、丸められたアルミホイルが、力なく転がっている。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(18)

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