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【小説】白い手(3)


前回:【小説】白い手(2)





 インターフォンを押す。立派な装飾が施されたドアが、固く閉ざされているように見える。玄関の向こうから「どなたですか?」と少し刺々しい声が聞こえたけれど、奈々は怯まずに自分の名前を告げた。

「入って」と言われて、奈々はゆっくりとドアを開けた。写真立てにスノードームといった、物の多い玄関がひりつくほどの生活感を伝えてくる。

 そして、上がり框の上には電動車いすに座った寺島秀作(てらしましゅうさく)がいた。少し皺がよった顔はにこりともしておらず、それは緊張しているのとは違うように奈々には見えた。

「寺島さん、本日はよろしくお願いします。私、今回のケアサービスを担当させていただきます、鷹野といいます」

「分かってるから。さっさと上がれよ」

 ぶっきらぼうに言う寺島は、奈々に敵意さえ抱いているようだった。今まで射精介助を担当していたスタッフが辞めて、新しく奈々が来たから警戒しているのだろうか。

 奈々は不安に思う心を隠して、にこりと笑った。「では、失礼します」と上がり框をまたぐ。

 左手で電動車いすを操作する寺島。その右腕はだらんとぶら下がっていた。

 奈々が通された寝室は、色あせた畳の和室だった。ベッドの左側に必要なものが揃えられ、横になったままでもある程度の用事なら片付きそうに見える。

 寺島は動かせることのできる左腕を支えにするようにして、ベッドに乗り移った。仰向けになると、奈々を睨むかのような目で見てくる。

「ほら、女房は今買い物に出かけてんだからさ。戻ってくる前に、ちゃっちゃと終わらせてくれよ」

 その言い方は少し横柄だったけれど、奈々に文句なんて言えるはずがない。言われるがまま、「それでは、ズボンと下着をお取りしますね」と介助を始めた。

 パンツを脱いで見た寺島の陰茎は、既に少し大きくなっているように奈々には見えた。

 バスタオルで腹部と腿を覆い、まずはお湯を含んだタオルで寺島の陰部を清拭する。垢や汚れはなくて、今は買い物に出かけている妻に綺麗にしてもらっているのだろう。

 寺島は不服そうな表情をやめてはいなかった。自分に全く心を許していないことが分かって、奈々はやりづらいなと思ってしまう。

 それでも仕事は全うしなければならないので、鷹野は暖かな表情を装って「それでは、まずは勃起の介助を始めさせていただきます」と声をかけた。「お願いします」と言葉はかしこまっていたものの、寺島の声と表情は明らかに不機嫌で奈々は気が引けてしまう。

 責任感で自分を奮い立たせて、寺島の陰茎に手を当てる。円を描くように、ゆっくりともみほぐしていく。両手の指で陰茎を撫で上げ、会陰部を押して刺激する。それでも、寺島の陰茎はなかなか目に見える反応を返してはくれなかった。

 徒労を繰り返しているようで、奈々は軽く焦ってしまう。寺島から感じる苛立ったオーラも、焦燥に拍車をかけた。表情を垣間見ると、今にも舌打ちをしそうで、何か声をかけることは奈々にはためらわれた。

 義務感で手を動かしていると、自分が機械にでもなったようで、あまりいい気はしなかった。

 四苦八苦しながら、それでも寺島の陰茎が完全な勃起状態になったときには、介助が始まってから一五分が経過していた。寺島の器質的な要因のせいにはしたくなかったので、奈々は頭の中で自分を非難する。

「コンドームを装着させていただきます」との声に、寺島がした返事は「ああ」のたった一言だけで、奈々に不満を持っていることを隠そうともしていなかった。

 奈々は自分に落ち着くよう言い聞かせながら、寺島の陰茎にコンドームを装着した。十分に硬くなった陰茎が、早くしろよと自分をなじっているようだった。

 ローションを手でこすって人肌の温度まで温めてから、奈々は再び寺島の陰茎を慎重に握る。一定のリズムを刻むように上下にこする。

 だけれど、寺島はうんともすんとも言わず、表情だけでなく陰茎そのものからも拒絶されている感覚を、奈々は味わった。ここまで来て引き返すことはできないので、めげずに手を動かし続ける。

「速さは、これくらいでよろしいですか?」と訊いても、寺島は「別に」と言うだけで、完全に心を閉ざしていた。地獄のようにさえ感じられる空気の中で、奈々は手を動かすだけの機械に成り下がる。

「させて」と必要最小限の言葉を寺島から聞いて、奈々はスピードを速めた。まもなくしてコンドームに精液が飛び散る。奈々が顔に目を向けると、寺島はまだ口を閉じたままでいた。

「以上で今回の射精介助は終了となります。寺島さん、お疲れさまでした」

 コンドームを片づけ、陰部を清拭し、下着とズボンを着せると、奈々は微笑みを作りながら、寺島に呼びかけた。

 だけれど、ベッドに座ったままの寺島は、他人に見せられる表情をしていなかった。目は明らかに奈々を見下していて、「早くここから出ていけ」と思っているのがまるわかりだ。

 奈々は萎縮しきりだったけれど、それでも今回の介助も糧にしなければならない。だから、勇気を振り絞って尋ねた。

「あの、寺島さん。今回の介助で『ここがよかったな』とか、『ここはもっとこうしてほしかったな』という点は、何かおありですか?」

「よかったとこ? そんなもんねぇよ」

 冷たく吐き捨てるように口にした寺島に、奈々は嘘でも微笑むことができなくなった。満足していないのは表情や雰囲気で分かっていたけれど、正面から伝えられるとうなだれたくなってしまう。

「勃起させるのにも時間かかってよ。ちんたらやってたから、射精も全然気持ちよくなかったし。お前下手くそなんだよ。前の人はもっと上手にやってくれたっつうのによ」

 こうもはっきり言われると、奈々が返せる言葉は「申し訳ありませんでした」しかなくなる。金を払っていれば何を言ってもいいのかと少し反感もあるが、わざわざ言葉にして言ってくれる以上、甘んじて受け入れるべきなのだろう。まだまだ自分が未熟なことは、百も承知だ。

「お前さ、この仕事向いてねぇんじゃねぇの? さっさとやめちまえよ。別に仕事なんて他にいくらでもあるだろ」

 寺島はもはや奈々の介助の腕だけではなく、人格そのものまで否定しそうな勢いだった。もしかしたら、何らかのハラスメントに当たるのかもしれない。

 それでも、奈々は再び頭を下げていた。寺島に非があるなんて、思ってはいけなかった。

 奈々がしおらしくしていると、寺島も辛辣な言葉を投げることはやめた。「まあいいや」と、呆れたようにこぼす。その声はもはや、奈々に何の感情も抱いていなかった。

「お前、二度と俺の介助すんなよ。次頼むときは、別の人にしてもらうようにするから」

「まあそれもまだ分かんねぇけどな」。鬱憤が形になったような寺島の評価に、奈々の胸は深く抉られる。来なければよかったとさえ思ってしまう。これ以上ここにいても、精神が削られていくばかりでいいことはない。

 奈々は半ば無理やり話を終わらせ、ほとんど逃げるように寺島の家を後にした。駅までの道を俯きながら歩く。

 介助が終わった後は、事務局に連絡を入れて報告をしなければならない。だけれど、ただそれだけのことでも奈々には気が重かった。

 溢れんばかりの日差しを注いでくる太陽が、途方もなく能天気に感じた。



 奈々が帰った時、拓雄も優花もまだ仕事に出かけていて、家にはいなかった。冷房がついていない部屋のうだるような暑さは、外とちっとも変わらない。

 奈々は着替えるよりも先に、ソファになだれこむようにして座った。テレビを見ることはおろか、スマートフォンを手に取る気力さえなくて、ただ呆然と窓の外を眺める。

 五階から見る景色は、判を押したように変わらない。だけれど、その無意味な時間こそが今の奈々には必要だった。ただ冷房の風を浴びていると、寺島に言われた辛辣な言葉が、自分から少しずつ蒸発していくようだった。

 奈々が目を開けたのは、窓から差し込んでくる西日の眩しさによってだった。いつの間にか、ソファに横になって眠ってしまっていたらしい。

 スマートフォンを見ると、帰ってきてから一時間が経っていた。まだ出勤時間にも、拓雄や優花が帰ってくるまでも、中途半端に時間がある。

 再び眠りたい気分でもなかったので、奈々はひとまずソファから立ち上がった。

 コップに氷を二つ入れて、麦茶を注ぐ。三〇個パックに水道水をそのまま注いだものでも、何の問題もない味がして、奈々の喉と心はわずかにだが潤った。

 今日の夜勤のことを考えながら、奈々はぼーっと部屋の中を見回す。淳矢がいない部屋に慣れつつあることが、少し恐ろしい。

 目に入ったのは、正面の壁に掛けられたカレンダー。当たり前のように二〇二三年の八月を示していて、奈々に時間は止まらないし、戻ってもこないことを無言で突きつけていた。



* * *



「お兄ちゃん、お昼だよ」

 手作りした親子丼と、野菜を切って盛っただけの簡単なサラダをお盆に載せて、奈々はドアを開ける。

 ベッドでは淳矢が部屋着姿のまま横になっていて、マットレスを起こした状態でテレビに映る映画を見ていた。

 とはいえ、ただ時間を潰しているわけではない。ALSの症状が進行して元の仕事が難しくなった淳矢は、映画やドラマを見て音声入力で評論をしたためることで、いくばくかの収入を得ていた。

「ああ、ありがとな」

 淳矢はスマートスピーカーに指示を出して、映画を一時停止させた。派手な爆発の場面で止まったテレビをよそに、奈々はテーブルに昼食を置く。

「いただきます」と淳矢が言ったから、奈々はスプーンを手に取って、親子丼を掬い、淳矢の口の中に入れた。ゆっくりと飲みこむ様子を、奈々は焦れずに見守る。

 診断を受けてから二年、淳矢の症状は確実に進行していた。腕を肩よりも上に上げることは難しくなったし、嚥下障害も進行して、食事にも以前の何倍もの時間がかかっている。

 それでも、淳矢は奈々に向けて「美味しい」と言ってくれた。鶏肉を細かく切って食べやすくした配慮が届いているようで、奈々には嬉しい。

 だけれど、少しずつ不明瞭になっていく声を聞くと、いつまでこうしていられるか不安にもなってしまう。

 食事は淳矢の食べるスピードに合わせて、時間をかけて行われた。淳矢は食べるのに精いっぱいだったから、食事中に会話は生まれない。しんとした空気が、時間を何倍にも引き延ばしているかのようだ。

 淳矢は食べるときは決して映画を見ない。画面に張りついた爆発が、垣間見るたびに奈々の心に揺さぶりをかけてくる。

「どう? この映画、面白い?」

「いや、別に。ストーリーは弱いし、アクションもどこかで見たような感じだし。これを映画館で観ろってなったら、俺はちょっとキツいかな」

 辛辣な評価に、奈々には思わず小さな笑いが漏れた。記事にするときには、もっとマイルドな表現を使うのだろうけれど、自分にだけ本音を言ってくれることが少し嬉しかった。

「じゃあ一時間したらまた来るから。床ずれ防止のために、体位変えないとね。もちろん、その前にトイレとか行きたくなったら、いつでも呼んでくれて大丈夫だから。私も部屋でテレビ見るくらいしかやることないし」

 そう言い残して奈々はお盆を持って、リビングに戻ろうとする。

 だけれど、振り向こうとした瞬間、淳矢に名前を呼ばれた。目が暗くよどんでいた。

「いつもありがとな」その言葉が何かを諦めたような言い方だったから、奈々は「どうしたの、急に」と聞き返してしまう。

「最近よく考えんだよな。俺に残された時間は、あとどれくらいなんだろうって」

「ちょっとそんなこと言わないでよ。ネガティブになっても何もいいことないでしょ」

「まあそれはそうなんだけど、でも自分で分かっちゃうんだよ。今日は昨日より手が動かしづらくなってるな、物を飲みこみづらくなってるなって。だって自分の身体なんだから。こんなこと奈々に言っても仕方ないけど」

「お兄ちゃん。そう考えちゃうのは、たぶんすることがないからだよ。ドラマ好きだったよね? 今私ハマってる韓国ドラマあるんだけど、今度見てみたらどう? きっと面白いって感じると思うな」

「そういうことじゃない」淳矢の声が少し苛立ちを含んでいたから、奈々は縛りつけられたようにその場から動けなくなる。

「そういうことじゃないんだ。どれだけ面白い映画やドラマを見ても、自分がベッドに寝てる事実に、ふと我に返ってしまう瞬間があるんだ。この映画の続編が作られても、たぶん俺は観ることはできないんだろうなって考えると、無性に怖くなる」

 奈々は何も言えなかった。自由に二本の足で動ける自分が何を言っても、綺麗ごとにしかならないと感じていた。

「たぶん病気が進むってことは、いろいろな物が離れてくってことなんだろうな。着られない服も行けない場所も増えていく。それだけじゃない。人も少しずつ俺から離れていって、最後は家族しか残らなくなるんだ」

「……じゃあ、自分から手放していくのは違うじゃん」

「違くないよ。どうせ別れるんだったら、まだ早い方がいい。俺が自分の言葉で、自分の意志を伝えられるうちに。最後まで付き合っても、悲しみが大きくなるだけだろ」

「だから、有紗(ありさ)さんを振ったの?」

 奈々がそう訊いた瞬間、部屋はまるで時が止まったかのようにさらに静まり返った。淳矢も眉をひそめたまま、何も言わない。

 だけれど、少し間を置いてから「映画を再生して」とスマートスピーカーに呼びかける。テレビから大げさな音楽が流れ出して、奈々は自分がここにいてはいけないと悟った。

 ドアを開けて、淳矢の部屋から出る。洗い物をする気分にはなれなかった。


(続く)


次回:【小説】白い手(4)

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