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作家の責任?

ヴァージニア・ウルフのことだけど。
作品は、創作した本人の責任なのだろうか。
コロナ以来、彼女の作品が注目を浴びているらしい。
#ウーマンリブ #幼少期の近親者による性的虐待 #世界一美しい遺書  
彼女につけられるハッシュタグは、ショッキングで多彩で目を引く。
名前だってそう。
#カーディガンのポケットに小石をつめて庭先の川に身を投げた
#溺死
そして、彼女の小説は #難解  だ。
また、less dramatic. #なにも起こらない
#意識の流れ  という奇異なトレンドを担った。
トレンドの片方、もう片方はジェイムス・ジョイスのユリシーズが担っている。

六年ほど前、パリのシェークスピア・アンド・カンパニーでフォトブックを買った。センセーショナルな噂と名前だけ知っていた。ページをめくると、彼女のあてて書かれた手紙の派手さにも解説の仰々しさにも、無知ゆえついてゆけなかった。それで翻訳本を手にしたが、難解すぎた。

難解なのは言葉のせいじゃなく、#イギリス古典文学 をベースにしていることと、前述の意識の流れのせいだ。段落や改行なく、そして独白の主人の交代が説明されないまま、つらつらとつらなる文章にはdizzyを感じた。

そのめまいは何に似ているのか。
一週間でその本は放り投げた。
そのころ、次男の大学進学と、大学生二人を抱える家計の問題と、翻訳の仕事と、夫の仕事の『切った張った』が家の空気を緊張させていた。緊張は部屋の壁紙一枚下にはびこり、不安が床の敷物の下とこたつ布団をめくった暗闇に渦巻いていた。

『集中力』は、なんのこと?
すべき集中以外をわすれることか、
それとも、すべてを渦に巻き込んで、間違わないよう『集中』して
アウトプットすることか。
私は後者だった。

どこの『家庭』でも同じだろう。
思い悩むことは再現なくある。必要ないことも、安全ならいいことも、
常にベストにするためにどうすべきか、
女ってもんは、考えてしまう。
それが多少本人の健康や、闊達明朗な精神を蝕んだとしても、
褒められるものであって、けっして「ばかだなぁ」などと
素敵なことを言ってくれる家族も、他人もいない。
そして、あきらかに、ちょいと精神をやった。

でもどこの家庭にもあることで、日薬だけが癒すことができる。

六年経って、ウルフの本を再び手に取った。
どうしたのかと、自分に問いたいくらいわかった。沁みた。日常の意識から突如飛躍する若い頃の回想、そして現状への悔恨と諦め。それを
ダロウェイ夫人の意識の流れ、もとい思考の飛躍は、人生半ばを過ぎた女性が経験するものだった。綺麗で若い頃のまるで自身が光や花の化身とまごうばかりにもてはやされた時代、さりとて男性とサロンで政治や文学など少し込み入った話をしようとすれば疎まれ、次第に自分は形ばかりの人形に思わされる。歳を重ねれば社会がもとめる女性の役割が彼女を苛む。母という役割も、妻という影の役割もとらなかった彼女が、人として立とうすると、今度は『女』のレッテルが邪魔をする。

女は流動体だ。どんなものにもなれる。そしてその記憶をつねに引き連れている。女という性だけが、最後の実在をひきとめている。
だのに、社会がもとめる女は、雑用でできている。つまらないものをとりはずすと、きっと中身は人型の空間だけがのこる。
そんな時代の自分の立つ場所にウルフは耐えられなかったのね、とひどく同感する。

日常が滞りなくまわるよう取り仕切りながら、花や蝶だったころの胸の高鳴りを思い出し、かろうじて極端な家庭平和の破壊活動をしないよう、わずかな精神の飛躍に老いた心を弾ませ、萎んでゆく時間に花を添える。

それがわかるのは、もう下り坂しかのこっていないことを知っている人たちだけだ。ヒロインではなくウルフ自身を苛む社会通念、父親譲りの豊富な知識と読書欲。はみ出した部分にアイデンティティーを見出した彼女の置かれた窮地。飛び交う意識、過去、顕示欲、抑圧。

ウルフを語るに欠かせないのは #精神病 #精神薄弱  というキーワードだろう。#フロイト もそうかもしれない。

大戦後であっても衣食住に困らなかったのだから裕福と言えたが、彼女は別のことに困窮していた。自己表現だ。蓄積された知識を基盤としたあふれる言葉は、彼女のもとめられている姿よりも勝り、アンバランスを引き起こした。
才能あふれる人間にありがちだが、彼女は自分をもてあますことがあった。しかし、発狂とよばれる状態が、創作の先駆けになったことを日記のなかで彼女は認めている。
当時の精神医学はフロイト率いる派が主流であり、リビドーが問題の引き金であるとしていた。このあと、レイン等、狂人と呼ばれる人たちへの認識がかわる考え方が受け入れられるようになる。が、ウルフ当時は、リビドーが拒絶された時代だった。そのため、彼女は生涯子供をもたなかった。

こうした命ある間の混沌や問題を経年的に注意をはらわず、作品だけに身を委ね感傷に浸っていいものだろうか、と考えてしまう。
わずか六年の時間をへて、彼女の作品が理解できるようになった自分にとって、作品はウルフの心情吐露であり懇願であり、自己顕示の最終手段に思えて仕方ないのだ。

ジェームス・ジョイスがウルフ夫婦が営む印刷所に『ユリシーズ』を持ち込み、それを読んだヴァージニアが手法をまねて書いたといわれているが、内容は紛れもなく彼女の人生と意識が染み込んだ土壌から生まれたものである。私は、小説は、こうやって人生が染み込んだものであるのがいいと思う。少し前の彼女でも、後の彼女でもかかない今があらわれているものがいい。

喜びも苦悩も、若い頃の馬鹿騒ぎも、全部ひとまとめにして団子にしたようなのではなく、人間の経年劣化の軋轢・抑圧・混迷がよみたい。

本はそういうものだと思う。
作品がすべて。それは作者の責任かもしれないが、
読む側は、団子じゃなく、小豆の産地や煮方、にも注意を払いたい。

'21年末、学会の研究発表をZoomで拝見した。二回の大戦は文化人に多大な影響をあたえた。政治的にも文化的にもおおきな変換のじきにあった時代の、一つの象徴として取り上げられていた。私は、精神科医の神谷美恵子氏の書かれたバージニア・ウルフ書から入ったためか、彼女の精神状態の変化を看過した文学解説には足りないものを感じた。そして自身の読書経験からも、それを踏まえずして読んで理解したところで、お喋りな心のいそがしい移ろいにしか感じない。しかし一度、ひどい憂鬱と理由のはっきりしない心の起伏を経験し、過去の亡霊たちと日々暮らしていれば、『ダロウェイ夫人』が単なる創作でなく、伏線だらけの彼女の人生を吐露していることがわかる。

読者に、創作の背景を推量させるのは正しい方法ではないかも知れないが、日本で流行りのあざとく彼らの称賛を狙って書かれた小説とはちがって、作者が自分にメスを入れて身を削ぐようにして書かれた作品は、そうやってよむべきじゃなかろうか。



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