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紀洲スイフツはなぜ低迷したのか

 これまでわが国の野球について様々書いてきたところであるわけですが、最近は特に紀洲スイフツに関しての記述をしているというところで今回は紀洲スイフツという球団がなぜ黄金期を迎え、そしてなぜ衰退し暗黒時代を迎えることになったのかについて今回は書いていきたいと思います。
 読むにあたってこの辺の選手の話は読んでおくといいかもしれません。

プロ野球の歴史はスイフツとともに

草創期

 1938年から1940年までの3年間、プロ野球チームというのが発足し職業野球というものが我が国で実験的に始まった。しかし当時は陸軍野球の人気が強い時代で収益性が低く、交流戦という形で陸軍野球との試合がメインとなっていき結局プロ野球リーグは解散を余儀なくされた。
 この頃すでに紀洲スイフツの基礎となる球団が完成しており興津バッツとして参入、しかし結果は芳しくないままに終わってしまった。

 1942年、我が国でテレビ放送が開始されることとなり戦後テレビ放映の自由化を受け各財閥がそれぞれにメディアを創設、または買収しテレビ戦争が開始された。そして野球人気の高まりに対し戦後の陸軍の軍縮の流れから陸軍野球も縮小されることが発表され、改めてプロ野球の開始が議論されることとなった。
 1950年にプロ野球の創設に向けて紀洲コンツェルンが主体となって職業野球連盟協議会が設置され戦前のプロチーム5チームを基礎として1955年にプロ野球チームを創設することを決定、5年間はスポンサー集めや本拠地球場の建設などの準備期間に充てることが決まった。
 紀洲コンツェルンは社会人野球チームをすでに保持しておりこれを基礎として興津バッツを買収、紀洲スイフツと改名し参戦することを決めた。
 こうして紀洲スイフツは出来上がったのであった。

 興津バッツは名義上存在したもののプロ野球リーグがすでに解散しているためチーム自体は存在していなかった。これも彼らにとっては都合がよく、社会人野球チームを主体にチームを編成、元プロの選手たちも参加し陸軍野球のプロ志望選手たちの分配ドラフトも行われ曲がりなりにも戦力は整備されたのである。

プロ野球開幕

 1955年の開幕から紀洲スイフツは圧倒的な無双を見せた。戦後の不十分な設備の中で紀洲コンツェルンという大口スポンサーの力で環境を整備したスイフツは負けるはずがないのである。その後のシーズンも順調に勝利を重ね紀洲スイフツはプロ野球リーグの創設にも多大なる貢献をしたことから「球界の盟主」の名をほしいままにした。
 1959年、後にプロ野球の歴史を塗り替えることになる田中誠が紀洲スイフツにドラフト一位入団を果たす。彼の入団以後、特に1963年以後は本塁打記録を塗り替えたこともあり誠フィーバーともいうべき人気を博し、1961年から1966年は当時のプロ野球記録となる6連覇を果たすなど最強球団であり続けた。

 しかしその球団の内情は少し違っていた。球団創設の経緯から社会人野球出身の派閥と陸軍野球出身派閥の派閥争いは過激化、ドラフトで入団した選手がどちらの派閥に入るかという囲い込み合戦でチーム内は分裂していた。それでも優勝し続けられたのは彼らがそれだけの能力を持っていたということでもある。さらにエース塩沢を中心とした中立派も存在しチーム内は完全に派閥争いの泥沼と化していたのである。
 そして主砲田中誠は陸軍派の石原に指導され目覚めたことで陸軍派の人間となり、正捕手今井塩沢によって見出されたこともあり中立派という構図が完成した。多くの人間は主流派である社会人派閥に所属していたが紀洲スイフツは陸軍野球出身者から指導者を招聘するなど陸軍派は発言権が非常に強かった。紀洲コンツェルンは軍需産業ともつながりがありプロ野球チームは天下り先として使われていた実態は否定できない。
 一方で陸軍野球は衰退しプロ野球に人気が移行したことに伴い陸軍派はこれから縮小していくことが確定していた。チーム内の陸軍派選手はじわじわと主軸から外れつつありチームは主流派が握ろうとしていた。これを「作戦参謀」石原はよしとしなかった。

 さらに1966年、6連覇の最後の年の開幕前に石原は唐突に引退宣言を発表した。理由は不明だが一説によれば監督を買収し紀洲スイフツの優勝を防ごうと取引を目論んでいたという話があり、それが塩沢に発覚し糾弾され引退宣言をするに至ったと言われている。
 主流派にあたる人材を粛清するために優勝を逃しチーム内の人事異動の理由を作ることを狙っていた、もしくはそのような指示が球団フロントの陸軍派から出ていたのではないかと言われている。
 そして1966年は優勝したものの1967年は3位に順位を落とし、1968年には最下位に低迷したことでこの粛清計画を実施する下地は整った。

斜陽の始まり

 1968年は本拠地を広くしたことによる打線の低迷で優勝を逃した。観客動員の上限が増えたもののチーム成績の低迷で望んだような結果は得られなかった。これを受け「紀洲スイフツの黄金期を知っている」「田中誠の育成に成功した」という実績から球団フロントに石原が招聘されることとなる。
 長距離打者の育成を求められ入閣したことにはなっていたが石原はスモールベースボール路線をさらに強化することを提案。フロントには石原の腹心の部下を次々と呼び寄せ「球団改革任務部隊」を編成し「チーム改革」を断行した。
 まず高年俸のベテラン選手たちを戦力の入れ替えを名目に主流派の選手の一部がトレードなどによって放出された。そして広い球場を活かした守備重視のチームへの変更を命じ、打線の強化は二の次となった。これは親会社の意向もかなり影響しており打力のある野手は年俸が高騰することから年俸を抑えて勝つという石原のプランは球団上層部からは非常に魅力的に見えたのである。
 そして1970年、ついに首位に返り咲くこととなる。新規参入球団帝國ニッケルの猛追を振り切り得た勝利であった。ベテランの放出により戦力の新陳代謝が加速しスモールベースボール路線による手堅い野球は華はないが堅実さをアピールするには十分だったと言える。翌1971年もチームを優勝に導きスイフツ黄金時代の再来と噂された一方で「つまらない野球」とも評されるようになった。

「つまらなくても客が入ればいい」
「勝利を与えさえすればファンはどれだけ面白くなくても金を落とす」
「戦争は勝たなければ意味がない、勝てない戦争はしてはいけない」

 この手腕が評価され石原は1972年わが国で初めてのプロ野球チームのGMに就任することが決まった。石原はチーム一の高年俸であった子飼いの田中の処理に踏み切った。1972年も優勝を果たしたものの田中自身は負傷で離脱していた。このチームにはもうすでに田中がいなくても勝てるということが明らかになったシーズンでもあり、子飼いである田中を監督に就任させればチームをコントロールしやすくなるということから出した提案であった。
 結果的に2000本安打は打たせてほしいとのことでこの提案は拒否されるものの2000本安打条項が契約内容に盛り込まれ2000本を打てば引退し監督に就任することが内定した。加えてエースの塩沢は中立派として石原の引退の原因ともなっており彼を処理するため田中とともに引退し投手コーチ就任を要請した。だが田中の引退が先送りとなったことで保留となる・
 さらに自分からスタメンを剥奪し今や球界の頭脳ともいわれる正捕手今井も塩沢とともに中立派でありたびたびスモールベースボールに対し苦言を呈するなど歯に衣着せぬ発言が話題となっておりまたそれが人気ともなっていた。よって今井を孤立させるという方針を選択し自主的にチームを出ていく方向へと誘導した。今井の父親が系列企業の社長であったこともあり今井の入団時新人ながら6年契約を結んでいたという事実をリークし週刊誌報道が過熱、ドラフト3位ながら不可解に高い契約金なども問題となり今井の父親は自主的に経営陣から退陣、今井の後ろ盾をなくすことに成功した。
 契約更改では毎年厳しい要求を選手に課し続けたがこれは紀洲スイフツの体質とも言え、年俸を抑えるために毎年選手への要求は苛烈なものとなっていった。

 もはやこのころになるとチームは敵チームと戦いながらチームの内部とも戦うという泥沼状態に至るも、それでも今井塩沢といったグラウンドの司令塔が存在したことでなんとかチームとして保たれていた。結局74年まで連覇を続け5連覇したことでGM石原の手腕は高く評価されることとなり、特に戦力が離脱することが多かった73,74年の優勝はGMのチーム編成の巧みさによるものと言われていた。
 そして何より74年は田中が引退したシーズンでもあり、これにより監督を石原のコントロール下に置くことができた。さらに石原に反対していた塩沢は引退を拒否したことで戦力構想外となり戦力外通告を受けることとなった。石原派の発言権は強まり続け主流派はもはや陸軍派に対し反対する力を失っていた。

没落

 1975年、レジェンドの田中が監督に就任した。彼は長距離砲であったことから貧打を解消してくれると多くの人間が願っていた。だが石原の傀儡であったという面は否定できない。優勝を重ねたチーム故にこれ以上の補強は不要という理屈で新監督就任にもかかわらず目立った補強はなし。この調子なのでチームは5位に一気に低迷した。翌年もチームは6位と成績は悪く、新規参入球団帝國ニッケルはじわじわと順位を上げ上位争いに食い込んでいた。これを受け誰かが責任を取らねばならないということでファン待望の田中監督は早くも監督を辞めることとなったのである。

「あいつ(田中誠)は人が良すぎる」
「ここまで腐ったチームを監督一人の力で変えられると本気で思っているならファンも頭が腐ってる」

 しかしこの2年は無駄ではなかった。この2年間で首脳陣に対し明確にスモールベースボール路線を放棄することを要求した今井を干すことに成功した。8番キャッチャーが意味もなくバントをさせられるという場面が目立ち、前述のスキャンダル問題で今井はチーム内で浮いた存在となり76年オフにFAで帝國ニッケルへと移籍することとなる。粛清はほぼ完了したと言っていい。

 次期監督の選考は悩みに悩んだ。塩沢への監督オファーもあった模様だが石原ではなく主流派のスタッフが独断で行ったものと思われ塩沢はスイフツに対する愛想が尽きたと語りこれを拒否した。スターである田中が一瞬で切られたことから監督をやりたがる人も少なく、石原は陸軍で同じ師団に所属しており共に野球をプレーした経験がある水田清彦を監督として招聘した。
 この石原・水田体制は89年まで続く長期政権となる。陸軍派が完全に政権を握ったことで戦力の流出が相次いだが報復を恐れ多くは別リーグのSリーグに移籍した。これにより年俸を抑えられ、また血の入れ替えに成功した。補強費も確保でき偶然にも好転した。
 77,78年は3位に食い込むものの帝國ニッケルの後塵を拝し優勝を許してしまう。これに危機を感じた親会社の支援もあり1980年は帝國ニッケルの4連覇を阻止し優勝。81年以降は戦力の薄さゆえに再びの低迷となるがこの間に年俸を減らし戦力を調整(放出)、84,85,87年と優勝を経験し水田監督時代は低迷とまでは言わないもののそれなりに勝利できていたシーズンでもある。だがチームの柱はすでに外国人選手が主流となっており自国出身選手は定期的に現れては消えていく幻のような存在で、輸血でしかチームを維持できないとも言われていた。

 88,89年は再びBクラスに転落。このチーム状況に対し親会社も無策ではなく、89年のシーズン中から今季限りで石原・水田体制の終焉が噂され、球団内部の人事に大幅にメスが入った。これによりシーズン終了後に石原水田共に退任し木寺康夫監督を外部から招聘、以前決裂した今井との関係も和解しコーチとして入閣するまでに至った。90,91,92年とチームは低迷していたものの若手選手が定着し始めチームの将来性が感じられる期待できるシーズンを過ごした。
 93年に生え抜きの西村に監督をバトンタッチすると今井がヘッドコーチとなり優勝を掴み取る。とくに打線を強化することに成功し打者育成能力が評価される監督となった。
 だが94年、本社の経営状況の悪化に伴い再び緊縮財政路線に戻ることとなり石原が名誉顧問、水田をGMとする体制でスタート。これを受け今井は再び紀洲スイフツを去ることとなり名参謀を失った西村政権はこのシーズンを最下位で終え、翌年も5位となり監督を辞任した。これ以後フロントは陸軍派が握ることとなり94年から03年までの10年間優勝できない暗黒時代が到来することとなる。石原は2013年以降体調の問題で表舞台には顔を出していないが現在も球団内部の決定において強い影響力を保持していると言われている。
 この暗黒時代と緊縮財政の余波は近年さらに強まっており2006年から現在に至るまで最高順位が3位というありさまで16年間優勝から遠ざかっており暗黒時代の出口は未だ見えないままである。

暗黒の原因

財政問題

 親会社である紀洲コンツェルンは「ゴミ箱から軍艦まで」と言われるほどのコングロマリットであったが実際には1940年代から紀洲コンツェルンの始まりでもある製鉄業で帝國ニッケルに対し負け始めていた。特に特殊鋼の製造能力で帝國ニッケルに敗北していたのは大きく、また帝國ニッケルとの企業間戦争が過激化しそれによって体力をすり減らしてしまったという事実がある。
 これにより球団へ投資する資金もあまり多くなく1970年代以降は緊縮財政が続いている。80年代に複数回優勝したほか2004年、2006年と優勝をしているがいずれも年俸の増大により主力選手の放出をやむなくしている。
 一方でドラフト戦術の巧みさは間違いなく、多くのトップクラスの選手を育成し(最終的に他球団に放出し)てきた。特に球団移転後打線の貧弱さが目立ったが2000年代は本格的に打線の強化に乗り出し打力でアピールできる球団になった。しかしこれは総年俸の増大を招くということでもあり、とにかく本社からの資金供給が拡大しない限り財政問題は解決できないという泥沼にはまっている。結果として主力選手の流出は防げないという時期が続いている。

派閥問題

 球団が創設された当初から抱える派閥問題が70年近くにわたってこのチームを蝕み続けていると言っても良い。陸軍派と主流派の間の抗争は人数が多い主流派と発言権が強い陸軍派の間での捻じれを生み、特に石原章の手によって陸軍派が長きにわたり非常に強い力を発揮していた。一時失脚した時期もあるものの結局帰還し今でもチームに影響力を持ち続けていることがこのチームの最大の問題と言われている。

「ちょっと野球ができるだけの若造になにがわかる」
「野球選手は野球だけやっていればいい」
「弱い奴ほど群れたがる、私は一人でこのチームに勝利をもたらした」
「我々は軍人として戦争を体験してきた、若者にはそういう覚悟がないからダメなんだ」
「国を守るために死ぬのと同じぐらいの覚悟でこのチームを強くするために尽力してきた」

 本社が軍需産業にもかかわりがあり陸軍とのつながりが深いことから陸軍派は常に発言権が強く最終的には最初の分配ドラフトで陸軍野球の人間を入団させてしまったことがチームの没落の原因との指摘もある。
 同じ軍需産業系である帝國ニッケルはプロ野球への参入が1970年と遅く紀洲スイフツの失敗を見ているためプロ野球チームでの陸軍派の関与を抑えている。
 またこの派閥間抗争を抑え込んでいたエース塩沢正捕手今井などの流出によってチームの崩壊が止まらなくなりチームの勝利よりも派閥間抗争を優先するようなチームに成り下がった。その後陸軍派の選手の多くはフロントとして球団運営にかかわりプレイヤー側から陸軍派は完全に一掃された。しかし実権を握っているのが陸軍派であることに変わりはなくチーム内に根深く残る陸軍派を根絶することは困難極まりない状況となっている。

裏金問題

 球団財政に関して毎年使途不明金が発生しているという報道も行われたことがある。同一リーグ他球団である中津アグレッサーズに対し何らかの名目で出費があった模様だがその内容については不明、名誉顧問からの指示であったということである。
 中津アグレッサーズは市民球団として中津市所有の球団となっているがその球団運営には不明な点が多く中津市は陸軍基地、陸軍士官学校、中津陸軍造兵工廠など軍需産業の一大拠点となっている。
 中津アグレッサーズとは定期的に人材の交流があり指導者についても中津アグレッサーズOBから招聘するという事例は多々発生している。この使途不明金についても今後の調査がなされることを期待している。

 加えてドラフトでの縁故採用問題は定期的に発生している。かつては正捕手今井も関連企業の社長の息子という理由でドラフト3位指名を受け裏で6年契約という長期契約を結んでいたことも後に明らかになった。契約金もドラフト3位とは思えない相場を大幅に上回る金額であった。
 スター田中誠の息子である田中大輔に関してもドラフト5位で入団を果たしたが大学時代も決して好成績とは言えず獲得理由は不明であった。一軍で結果が出なくとも毎年契約を更新され不可解な残留を続けていた。最終的に主砲として活躍した時期があったことで批判をかわしたものの彼の入団に関しても不可解な点は多いと言わざるを得ない。
 これもまた球団の裏金問題として定期的に主張される球団の体質の問題点である。

まとめ

 とまあそういうわけで今回は紀洲スイフツという球団がなぜ没落していったのかについて書いてきたわけですけれども、以前から紀洲スイフツ関連の選手を積極的に記事化してきたのはこれが書きたかったからというところもあります。我が国の球史に関してまた一つまとめることができたというのは光栄なことでもあります。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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