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【パワプロ2022・架空選手】石原 章【パワナンバー】

石原 章(いしはら あきら)

浜島第一高校 - 陸軍第82師団(1944 - 1954) - 紀洲スイフツ(1955 - 1966)

裏の参謀

 後にスイフツの歴史を大きく変えるこの石原という男は1926年7月、浜島市で生まれた。戦争の拡大とともに海軍基地のお膝元である浜島市も軍靴の足音が響いてきた。浜島第一高校を中退し陸軍に志願した彼は第82師団に配属されることとなるも結局実戦を経験することなく内地で終戦を迎えた。その後は1945年に陸軍野球が再開されたことで野球を再開、捕手としてのキャリアをスタートさせた。
 陸軍野球の質の悪い道具で結果を残し、特に1951年には打率.433で陸軍野球史上最高打率を更新、首位打者に輝いた。戦前の「捕手は野球が下手な奴がやるポジション」というイメージを塗り替え打撃型捕手の先鋒となりこれ以後戦後の捕手はまず打撃が優先されるという流れを作った。

 1955年にプロ野球が正式にスタートするにあたり陸軍野球の選手を各球団に分配する分配ドラフトが実施されることとなり、プロ志望届を提出。くじ引きの結果紀洲スイフツが獲得することとなり入団。陸軍野球界の新スターの入団であり、紀洲スイフツにとっては大いなる一歩であった。
 一年目の1955年は打率.252と期待されたよりも低い数字ではあったが20本塁打を放ちキャッチャーで四番打者を務めるなど活躍、見事初年度の優勝に貢献した。1956年はさらに成績が向上し打率.301、12本塁打の活躍で2連覇、この貢献もあり最優秀選手(MVP)にも選出された。翌1957年は少々数字を落とし.298 14HRとなりチームも3位に終わってしまう。
 陸軍で鍛え上げた肉体とプロ野球への順応、そして肉体的にも31歳とアスリートとして全盛期を迎えた1958年。優勝を逃したチームを再び浮上させるためチームを鼓舞し必死のトレーニングを重ねた石原はチームの中心にいた。いつしかキャプテンと呼ばれるようになり、紀洲スイフツは開幕から快進撃を開始した。

パワナンバー : 10500 80936 97954

 軍人出身のフィジカルの強さからラフプレーに対して非常に強く、正捕手としての信頼を勝ち得た。磨き上げられた巧打はこのシーズンに頂点に到達し、首位打者争いに絡む活躍を見せた。
 後年守備面に関して批判を受ける機会が増えたが送球面に問題を抱えていただけでそれ以外の部分について大きく劣っていた部分は決してなかった。特にブロッキング能力に関しては今では再評価がなされている。

査定について

 とにかく打撃の天才感を再現したいというところ。長打こそそこまで目立たないが天才的な打撃でヒットを重ねた。その感じが↗3ACに詰まっています。
 守備面は思ったよりも悪くないけどやっぱり正捕手としては微妙だよなという感じを目指してこの感じに。あとで外野手になったりしますが再現年度はまだ未経験なので適性なしです。

対左G

 まーまったくもって左が打てないんでどうしようもないですよねこれは。陸軍野球にはいいサウスポーが不在だったというのもありプロレベルの左腕には対応しきれなかった部分は否めない。

悪球打ち

 フォアボール選ばな過ぎ&クソボールヒットにし過ぎという感じですがそれがやっぱり天才なんですよね。

三振

 天才ゆえの淡白な凡退。打率3割なのに100三振もしてる。天才だから仕方ない。

初球〇

 天才だから初球をしばきまわしてました。

エピソード

 翌年の1959年、ドラフト一位で高校の後輩、後にスイフツの主砲となる田中誠が入団することとなる。一年目から彼が四番に座ったことで石原は三番に打順変更、これが功を奏した。石原が.307 15HRと打線を牽引すれば田中誠は.304 21HRでこれを確実に返していった。田中誠の師匠として石原は彼を指導し、彼の打撃面での成長をアシストしていった。1960年には田中誠は初めて30本塁打を超える。
 1961年、田中誠は石原の指導もあり本塁打王を逃したものの初めて40HRを超えた。だがドラフトで入団した捕手、今井直政がエース塩沢から直々に指名され専属捕手になるなど石原の立場は危うくなっていく。
 62年以降対右投手でのスタメンが中心となり出場機会を減らしていく。一塁を守ることもできたが一塁には田中誠がおりすでにポジションに空きはなかった。代打の出場が増え、田中誠が誠フィーバーを引き起こし当時球界の歴史を塗り替える活躍をしていたこともありチームでの存在感は薄まっていった。
 1964年の後半戦には完全に今井が正捕手として定着したことで261打席の出場にとどまり、.311と非常に高い打率を記録したにもかかわらず捕手としての立場は失われた。1965年には外野に正式にコンバートされることとなり.267と低打率ながら21HRを放ち田中の後ろの五番打者として貢献。
 1966年、開幕前に引退を宣言して迎えたシーズンは前を打つ田中誠の不調に伴い石原への責任が増えるシーズンとなった。打率は.231に終わったものの230打席で9HRと長打力は見せチームも優勝、引退の花道を飾った。
 通算12年で1282安打、148本塁打615打点 通算打率.281であった。

 その後1969年紀洲スイフツのフロント入りを果たし球団を裏から支えるポジションに回る。前年球場を移転し広くなった結果打線が不振に陥り最下位に低迷したことを受けチーム強化のため招聘された。田中誠を主砲として育成した実績があることからチームに再び長距離砲を誕生させるための切り札としての召喚であった。
 石原はフロントの改革を断行し球団内部の人事を一新。1970年にチームを首位に返り咲かせその手腕が評価された。特にそれまでのスタイルから大幅に変更しスモールベースボールに完全シフトしたことで打線の貧弱さを投手陣の優秀さで補うという戦略は批判こそ受けたもののチームを勝利に導いた好判断とも言われている。以後チームは連覇を続ける。
 1972年、スター選手であった田中誠が負傷で長期離脱したことを受け引退し監督に就任することを提案するも2000本安打まで現役を続けさせてほしいとの声がありそれを承諾。同時にエースだった塩沢にも投手コーチ転身を依頼するも現役続行を希望し頓挫。門洋一監督に対し契約延長を依頼した際「連覇を継続したうえで田中をスタメンで使い続けて2000本安打を達成させてほしい」との依頼があり実際に契約内容にそれが盛り込まれていた。
 助っ人外国人の補強を積極的に行いチームを強化する一方で連覇を続けるチームにも関わらず契約更改は厳しく年俸のアップ幅は小さいという「コスパのいい」球団経営を強いられていた。
 1974年には田中誠が2000本安打を達成、その上で70年からの連覇も継続し5連覇達成で門洋一監督は勇退、引退した田中誠がそのまま監督に就任した。また塩沢に再び投手コーチ就任を要請するもこれを固辞、戦力外で放出することとなった。

 田中誠監督の就任は貧打に喘ぐチームを救うため次世代長距離砲の育成が期待されたが実際にはスモールベースボール路線の継承、そして後継となる中軸打者を育成することにも失敗した。また連覇を継続していたことから大型補強は必要ないとの判断で補強といえば戦力外から拾ってきた野手程度と大スターの監督就任にも関わらずひもじいものだった。
 5連覇で疲弊したチームはもはや力など残っておらずレジェンド田中誠監督の政権は2年間で5位と6位という低迷っぷりで任期満了を以て田中監督は辞任。生え抜きスターの監督への扱いの悪さが問題となりスイフツ次期監督の選考は困難を極めた。
 結局石原の推薦で陸軍第82師団でエースを務め中津アグレッサーズに入団後62年に引退し指導者としてアグレッサーズの二軍監督を務めていた水田清彦が監督に就任。これがのちに89年まで監督を務めることとなる水田政権の誕生であった。
 大量の戦力外とドラフトでの乱獲によりチームの血の入れ替えを進め積極的な外国人の補強で3位、3位、4位と順位を上げることに成功。1980年にはついに再びの優勝を果たした。だが戦力の層が薄いこともあり翌年は4位に低迷、その後も5位、4位と低迷したことで83年のオフに大補強を実施、84年、85年、87年に優勝を果たすなど紀洲スイフツの復活を印象付けた。
 だが親会社の意向で年俸はやはり上がりにくく選手の流出は防げない状況で欠けた部分をルーキーで埋める学徒動員編成により以後再び低迷。89年、水田監督とともに石原もGMを辞職した。

 1990年の辞任以降スイフツは以前決裂した今井との関係も和解に向かいコーチとして戻ってくるなどし、93年に優勝するなど少しずつ実力をつけ復活しつつあった。だが94年に石原が再び名誉顧問に就任、GMに腹心の水田が復帰することとなり今井も再びチームを去ることとなった。
 2013年以降は体調の問題で表舞台で名誉顧問としての活動は見られないものの現在でも紀洲スイフツに対し強い影響力を保持していると言われている。またGMであろうと名誉顧問であろうといつでも周りの人間にはキャプテン、キャップと呼ばせていた。また一部では作戦参謀と隠語で呼称されていた。
 1966年の唐突な引退宣言についてはっきりした情報は出てこないものの塩沢との間で何らかの確執があったものと思われ、引退宣言をせざるを得ない状況に追い込まれたというのが定説。

ひとこと

 天才です。天才だけど、いや天才だからこそ、いろいろと頭が回る、だからいろいろかき回して70年代後半、そして90年代から00年代までの暗黒時代を作ってしまう原因にもなってしまった。いずれ紀洲スイフツはなぜ低迷したのかについて書こうと思っているんですがその辺で追々説明していきます。
 まあ選手としては非常によくできる選手ではあるんですがなんというかちょっと天才ゆえの自己満な感じも再現できてると思います。お気に入りです。

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