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【パワプロ2022・架空選手】田中 誠【パワナンバー】

田中 誠(たなか まこと)

浜島第一高校(1950 - 1952) - 月読帝国大学(1953 - 1956)-旭日鉱業(1957 - 1958)-紀洲スイフツ(1959 - 1974)

スイフツ旋風の中心

 田中誠については以前も記事にしたんですが思い返すとあんまり満足していないので今回改めて作り直すことにしました。

 1935年5月20日生まれの田中誠は紆余曲折あり1959年紀洲スイフツにドラフト一位で入団することに。社会人野球最強打者との評価を得ていた彼は一年目から3割20HRを超え即戦力として十分な結果を残した。初年度からチームを優勝に導いた彼だったが左投手を苦手にしておりなかなか成績が安定しなかった。
 しかし1962年の途中で左投手を相手に長打を打つ技術を身に着けると1963年には当時45本塁打を超えることは不可能と思われていた中で本塁打を量産しついに45本の壁を突破した。打率.302 47HR 128打点で本塁打王・打点王に輝き本塁打記録を更新、チームの連覇を支えた。これによりMVPも獲得し充実の一年となった。
 だがシーズンオフの契約更改で言われたのは「打率が低い」の一言であった。60年61年は打率が.310台でありそこに届いていないことを指摘され本塁打記録を更新したにもかかわらず年俸はあまり上がらないという事実に批判が相次いだ。しかし田中はめげずに打率アップを目指しオフシーズンはトレーニングに励んだ。

 迎えた1964年のオープン戦では打率.125 1HRと大不振にあえぎ調整不良が噂される中それでも弱音を吐かずひたすらにトレーニングを続けるひたむきさにファンからは厚い支持を得た。チームは3連覇中であり当時誠フィーバーが起こっていた一方で厳しい契約更改でモチベーションを失った説も騒がれていた。そんな中迎えた開幕戦、一番打者西村が先頭出塁しきっちり送って2アウト二塁のチャンスでライト前にタイムリーヒットを放ち不調の声をかき消した。第二打席でも右中間を破るツーベースを放ち紀洲に田中ありとアピールした。

パワナンバー : 10600 20917 02872

 開幕から好調を維持した田中は一時打率4割に乗せる活躍で歴代二人目の四割打者誕生かと騒がれた。後半戦からは長打も増え打率は落としたものの打率.348で初めてかつ唯一となる首位打者を獲得。ホームランも2年連続となる40本を記録しその評価を不動のものとした。
 しかしシーズン終了後の契約更改ではやはりアップ幅は小さく、「3年連続40HRなら大幅アップ」と要求されるなど理不尽な契約更改が続き同情の声が高まっていった。

査定について

 アベレージ型長距離砲という感じの一年です。ペナントでもこれぐらいの数字残してくれるのでかなりいい感じだと思います。守備が良くないのはいつものアレ。

パワヒ、プルヒ

 アーチストつけるにはやっぱりこう、キャリア成績が通算367HRだしやっぱりうーんなんですよね。
 このころはまだかなり引っ張り志向で逆方向への長打は少なかった。

粘り打ち、カット打ち、選球眼

 基本的にあんまり三振をしない大砲だったですがこの年は72三振。キャリア序盤の頃の粘り強い打撃を取り戻し三振の数をかなり減らした。一打席当たりの投球数も増え粘って甘い球をしばき倒すというスタイルに。
 フォアボールは98個を選び出塁率.482で最高出塁率。BB/K 1.36は普通にクソ有能。

マルチ弾

 シーズン序盤はホームラン数が少なかったけど後半戦で一気に荒稼ぎした結果マルチHRは6回。

盗塁C、走塁C

 守備意識は低いけど走塁意識はすげえ高い。この年は盗塁失敗が目立つけど前年10盗塁0盗塁死なのでまあCにしといてあげました。三塁打7本も普通に有能なので走塁C。

エピソード

 翌年は43HRを放ったものの死球により手首に違和感を抱えたことからインコース捌きのキレ味が失われていった。1966年は打率.296 32HRと数字を落としつつも主砲として活躍。しかしまたしても死球を受けついに彼は壊れてしまった。1967年には.259 29HRで四番打者を途中から剥奪されてしまう。以後の活躍については以前の記事で。

 1975年、紀洲スイフツの監督に就任した彼だったが任されたチームは田中の後を継げるような長距離砲が不在だった。中軸打者不在の中優秀な投手陣を活かすためスモールベースボールにシフトしたことがファンからの支持を失った。彼の指導により後継者を育てることを期待されていたにもかかわらず結局後継者を育てていない(ように見えた)のである。
 またチームもなんだかんだ70年から74年までの間で5連覇しておりすでにチームはある程度完成されているという認識があった。優勝できているのだから問題ないというのが当時のチームの方針であり補強もあまり行われなかった。スモールベースボールに反対する正捕手今井との間に溝ができ、首脳陣と司令塔の間の関係決裂はもはや隠せなくなった。
 1976年も続投したものの打線の貧弱さは隠すことができなくなっていた。くわえて投手陣は連覇の際の酷使で疲労困憊しており離脱を重ね戦力がまともにそろうことはなかった。期待された長距離砲たちは育つことなく、田中監督はチームの惨状に対し無策というイメージがファンの間で完成された。これにより批判が増大し田中監督政権はわずか2年で終わった。

 以後は息子である田中大輔を育て上げ紀洲スイフツ生え抜きの長距離砲として入団させ活躍させた。この実績から指導者として呼び戻そうという声はあるものの復帰することはなく現在は解説者・コラムニストとしての出演にとどまっている。

ひとこと

 前作はまあ失敗というかなんというか個人的には不満のある出来だったので作り直しました。ずっと作り直したかったし。かなりいい再現度の選手ができたので満足しています。
 やっぱり紀洲スイフツの全盛期を作ったのはこの男なんですがこの男によって紀洲スイフツの全盛期が終わり低迷期に入ったという選手でもあります。彼が2000本を打つために7番で起用され続けたりとチームの形は歪になってしまった。そういう意味でもかなり印象的な選手なのではないでしょうか。

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