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パワプロ2020 オリジナル選手 田中誠

1.概要

田中誠(3)
1935年生まれ1959年入団
浜島第一高校(1950〜1952)-月読帝国大学(1953〜1956)-旭日鉱業(1957〜1958)-紀洲スイフツ(1959〜1974)
通算成績 .295 2001安打 367本塁打 1218打点 69盗塁

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 紀洲スイフツ全盛期を支えた強打者でありスイフツを人気球団とした男でもある。スイフツ最強打者と言われればこの男を挙げる人がほとんどであろう。1960年代の誠フィーバーを巻き起こした。

2.経歴

 2.1 プロ入り前

 1935年に浜島市で生まれる。幼少期より野球に親しむ。海軍基地がある浜島市で父親は海軍軍人であり、当初は長男であり海軍大学への進学を求められたがどうして行きたくないと主張、次男が海軍大学へ進学すること、行っても良い大学は当時二つしかなかった帝国大学のみと言う条件を提示されこれを飲む。浜島第一高校に入学後野球部に入部すると一年生にして5番打者を任せられ二年生時の神宮野球大会では史上初となる3打席連続本塁打を記録する。高校時代より有力選手であったが大学への進学を明言しており一般入試で月読帝国大学法学部に合格するだけの学力を持っていた。

 大学進学後は法学部として勉学に励みつつも硬式野球部の主力選手として活躍し大学通算本塁打18本は当時の記録となり、1955年秋に記録した5本塁打も当時の最多記録であった。1956年にはドラフトの目玉となり注目されファイアブランズにドラフト1位で指名されるが「紀洲スイフツ以外は入団拒否」との発表をしており実際に入団拒否した。
 これについては本人はプロ野球についてこだわりはなくどうせならプロ野球の最強の球団で自分がどれだけの力を持っているかを試したかったと語っており、当時最強の球団であったスイフツ以外には考えられなかったようである。

 大学卒業後は旭日鉱業に入社し社会人野球チームで出場を重ね、全国選手権大会では旭日鉱業を創設以来初めての優勝に導いた。2年目は惜しくも準優勝に終わるが2年連続の最優秀選手賞に輝き2度目のドラフトに臨む。今回のドラフトではついに紀洲スイフツからドラフト1位で指名され入団。アマチュア時代はサードを守る機会もあったが入団後は一塁に専念した。背番号は31を与えられた。登録名は誠。

 2.2 紀洲スイフツ時代

 入団一年目となる1959年には開幕を3番一塁で迎えた。開幕から好調を維持すると最終的に4番一塁として定着、.304 21本塁打82打点を挙げ新人王を獲得した。一方で左投手に苦戦し、左投手相手に.294とまずまずの数字を残したものの2本塁打と苦しみ左投手が先発の際には一番打者として起用されるなど課題も残した。

 1960年も4番として起用され34本塁打を記録、92打点を挙げた。打率も.316を記録しシーズン終盤まで首位打者争いを繰り広げたが執拗な左投手攻めに遭い数字を落とし首位打者を逃したが162安打で最多安打のタイトルを獲得。また四死球の多さなどもあり最高出塁率も獲得。

 1961年はホームラン王の獲得を目指しバットを変更して臨んだ。右投手相手に無双し.319 40本塁打112打点を記録し打点王、最高出塁率を獲得し、最優秀選手にも選出された。しかし本塁打王はファイアブランズのディエゴ・ガルシアに2本差で敗北、左投手を苦手にしている状況も変わらなかった。チームも三位に終わり、悔しいシーズンだった。

 1962年、不調に陥り数字を落とす。.291 38本塁打103打点を記録し3年連続の最高出塁率を獲得したが数字の物足りなさは否めず。しかしシーズン中に今まで左投手の外角球を流し打つことしかできなかったがインコースのボールを引っ張る感覚を掴み、シーズン終盤は左投手からホームランを量産した。チームは優勝し優勝に貢献した。

 1963年は登録名を田中に変更して挑んだシーズンとなったが開幕から絶好調で全試合4番打者として出場した。左投手を克服したことでホームランを量産、三振が増え打率.302とあまり良い数字ではなかったものの当時「45本塁打の壁」と言われていた中初めて45本塁打を超え最終的に47本塁打まで伸ばし当時のシーズン最多記録を作った。最優秀選手に表彰されたのはもちろん本塁打王、打点王、4年連続最高出塁率を記録した。

 1964年は前年の契約更改の際に打率の低さを指摘されたため打率に拘ったシーズンとなった。開幕から高打率を維持し一時4割打者の可能性も騒がれた。中盤からはホームランも増加し最終的に.348 41本塁打100打点で首位打者本塁打王最高出塁率最優秀選手を獲得。

 1965年は3年連続40本塁打を記録すれば評価を上げると言われたことからホームランにこだわる。.315 43本塁打103打点とノルマをクリアしたものの昨シーズンから引き続き勝負所では敬遠される場面が目立ち打点が伸びなかった。結果的には3年連続となるホームラン王、6年連続の最高出塁率を獲得、3年連続の最優秀選手となった。一方厳しい内角攻めから死球が目立つシーズンでもあった。

 1966年、昨シーズンの死球攻めから右手首に違和感を感じており鋭い内角捌きが見られなくなりつあった。「小手先のテクニックでなんとかしていた」と語ったシーズンは.296 32本塁打99打点と数字を落としてしまい、ついにタイトルも獲得できなかった。またシーズン中に受けた死球で右手首を負傷しつつも優勝争いが激しい中で怪我を押して出場を強行した。

 1967年、前年の無理がたたってさらに数字を落としてしまう。打率は入団以来最低となる.259、ついに30本塁打を切り29本塁打に終わってしまうが打点は100を超え意地を見せた。連続4番出場も671試合でストップしてしまった。チームも3位で終わり連覇は6連覇で止まってしまい、悔しいシーズンに終わった。

 1968年からは本拠地球場が新しくなり球場サイズが大きくなりその影響を最も大きく受けた選手とも言われた。ホームランが打てないことからコンパクトなスイングを心がけ打率は.305と復活したもののホームランは12本とキャリア最少に終わってしまう。一方でツーベースは36本と自己最多を更新、5番打者、クラッチヒッターとして活躍した。

 1969年も同じく中距離打者としてのスタイルを継続、2年連続の3割となる.301を記録したがホームランは10本とさらに減少してしまった。また三振も自己最多となる101と悪化してしまった。

 1970年、35歳で迎えたシーズンだがこの年から帝國ニッケルスパローズが大リーグに参戦した。復活が求められるシーズンだったが自己最低となる.280、二桁本塁打を逃す8本塁打と成績の低下が止まらなかった。

 1971年、ついに連続試合出場が1703試合でストップ。規定打席には到達したものの.274 4本塁打と大きく数字を落とし、途中から高い出塁率を生かして一番打者としての起用も増える。

 1972年、37歳のシーズンは逆方向へ長打を打つ感覚を掴み開幕から安打を量産したものの内野安打で全力疾走した際に太ももを負傷し長期離脱となった。復帰後二軍での調整を経て一軍昇格が予定されるも二軍での数字が悪かったため最終的に9試合の出場に留まり初めて規定打席未到達で終わるシーズンとなった。シーズンオフには引退を勧告されたものの2000本安打まで117安打となっており現役を続行した。

 1973年も前シーズンからの不調を抱えており数字は悪かったが7番一塁として起用され続け「不良債権」とすら呼ばれた。93試合400打席に立った上で.236は物足りないが逆方向にホームランを打つ感覚を掴んだことで6本塁打とホームランの数は多少戻すことには成功し、200本安打まであと32安打となった。

 1974年、対右投手専用のスタメンとして起用されつつ安打を重ね8月25日にセンター前ヒットで1999安打を達成。その後は6打数無安打が続いたが8月31日のファイアブランズ戦第二打席でショートへの内野安打で2000本安打を達成した。次の打席で右中間への2ベースヒットを放ち2001本目のヒットを打ち途中交代。その後の試合で出場機会はなく10月13日最後の帝國紀洲戦では8番一塁で出場し2打数無安打に終わる。10月20日シーズン最終戦で引退試合が行われ4番一塁で先発出場、第一打席は三振、第二打席は二ゴロ、第3打席は三振で終わり最後の第四打席でレフトへの大飛球を放ったもののレフトフライに終わり、引退した。スピーチでは「通算打率を3割で終えた方が美しいとも言われたがかじりついてでもこのチームで2000本安打を達成したかった」と語った。

 2.3 現役引退後

 現役引退後はスイフツの監督に就任、1975年シーズンは打倒帝國ニッケルを掲げた野球を展開するがチームは5位に沈み帝國ニッケルとの対戦成績も8勝14敗2分と苦しむ。

 1976年も同じく帝國ニッケル打倒を目指したものの最下位に低迷、監督として結果を残すことはできずシーズン終了後に退任した。

 その後は息子である田中大輔の指導に心血を注ぎ、打撃コーチとしての要請もあったが全て断っている。

3.選手としての特徴

 3年連続40本塁打を記録するなど長打力に定評がある。通算367本塁打に終わったもののもし大卒一年目から入団していれば400本塁打は確実に記録していたであろうと言われている。

 入団一年目以降は右投手を圧倒し左投手には単打しか出ないと言われていたが4年目のシーズン中に左投手からホームランを打つ感覚を掴み、翌年の47本塁打につながった。47本塁打を打ったシーズンが注目されるが最も活躍したシーズンはその翌年の首位打者のシーズンであり、あの年が個人的にも全盛期であったと語る。

 インコース捌きに定評がありホームランの多くもインコースを捌いていた。しかしそれが厳しい内角攻めにつながり死球の増加をうんだ。アウトコースはセンター方向に打つ意識を持っていたが晩年は逆方向へ長打を打つ技術を手に入れた。

 手首を負傷してから無理に出場した影響が大きくそこから数字が低迷、さらに本拠地球場が移転し大きくなったことも重なって選手生命が縮んだとも言われている。手首の負傷によりインコースが捌き切れなくなり成績を大きく落としていく原因ともなった。

 走塁意識も高く二桁三塁打を記録するなどしていた上、47本塁打を打ったシーズンは10盗塁で盗塁死0と盗塁技術も併せ持つ。

 一方で守備に関してはお世辞にも上手いとは言えない。アマチュア時代は三塁を守ったりもしていたが守備力の問題からプロでは一塁しか守らなかった。守備中も打撃のことしか考えていなかったと言われるほど守備範囲は狭く、晩年は特に地蔵呼ばわりされることが多かった。

4.年度別打撃成績

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