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【パワプロ2022・架空選手】西村 将誠【パワナンバー】

西村将誠(にしむら しょうせい)

帝都中央大学附属高校 - 紀洲スイフツ(1961 - 1976)

紀洲スイフツ最後の希望

 1942年帝都生まれ、帝都中央大学附属高校出身というまさに首都出身のエリート。国内随一の進学校で野球部としてプレーしていた彼は帝中大附属高校を史上初めて神宮野球大会に進出させるほどの活躍を見せた。野球部では四番ショートを務め高校通算本塁打78本と当時ダントツとなる記録を作った。俊足と強肩も武器でプロ注目の逸材であったが「プロになってまで野球をやりたくない」とプロ入りせず、かといって進学するわけでもなくのほほんと浪人生活を送る。本人曰く「遊び呆けていた」と語るほどで野球とは一切関係を断ち無職時代を過ごした。
 しかし親からの支援も絶たれ生活に苦しんだ彼は一年遅れでプロ志望届を提出、プロ入りを目指すことになる。一年間野球から離れていたことなどが問題とされたがそれでも高校通算78本の衝撃は大きく1960年のドラフト一位で紀洲スイフツへ入団することが決まった。

 プロ野球をナメていた彼だったが強豪球団紀洲スイフツの厳しい空気によって修正され、野球に対し真剣に打ち込むこととなった。一年目の1961年からスタメンショートに定着した彼は130試合に出場し打率.251、11本塁打52打点18盗塁と暴れまわり前年3位に低迷したチームを見事優勝に導いて見せた。当然のように新人王を獲得、紀洲スイフツの未来は安泰と言われた。
 翌年の1962年、開幕前に足をひねるなどのトラブルがあり危ぶまれたもののなんとか間に合う。オープン戦でも不調であったが一番ショートとして開幕を迎えると開幕戦初打席初球、ストレートを思いっきり振りぬいてレフトスタンドに突き刺した。開幕戦初打席初球本塁打はプロ野球開幕以来初めての出来事であった。

パワナンバー : 10500 60944 73663

 最終的に六番ショートに落ち着いたこのシーズン、138試合に出場し打率.229と数字は低迷した。批判が多かった一方で18本塁打と長打力を発揮し12三塁打は当時のリーグ記録となるなど長打力が目覚めたシーズンであり、のちに本人も「この年が一番打撃が良かった」と語る一年であった。

査定のあれこれ

 ちょっと全体的に強すぎ感はあります。でも高卒2年目で大活躍だし。とにかく身体能力が光る逸材です。この年初めてゴールドグラブ賞を受賞。

プルヒッター

 逆方向にうまく打つスタイルはまだこのころには身に着けていない。とにかくガンガン引っ張って長打を狙っていくスタイル。

三振

 三振率.316、リーグ最多149三振。粗削りな大砲という感じが強い一年。

インコースヒッター、ストレート〇

 とにかくストレートに強い。ストレートをしばきまわして長打を量産してる。一方で外角のスライダー・カーブは全く手が出ない。外角球への対応力の問題が三振につながってしまった。

エピソード

 翌年の1963年、打率.265、15本塁打と課題だった打率を克服した。しかし三振はさらに増加しており本人曰く「打球が偶然ヒットになっていただけの一年」と語る。また三振の多さがネックとなり年俸アップ幅が小さかったため三振数を減らす方針を定めた。
 1964年以降アウトコースの変化球を意識した打撃で踏み込んで打っていくスタイルを確立、打率.295とキャリアハイの数字を更新。しかし本塁打は9本に終わってしまう。またアウトコースを打ち出したことでインコース攻めが増え7月に頭部死球を受けて以降数字を大幅に落とした。これ以降「打撃のドツボ」にハマってしまったらしく、以前のような華麗なインコースさばきが見られなくなっていった。だましだましながらもなんとか球数を稼いでフォアボールをもぎ取る出塁意識の高さで何とかカバーした。
 1967年は打率.293 10HRと打撃面で一定の成果を残し、さらに出塁率.370と一番打者として理想的な成績を残した。だが契約更改で言われたのは「長打のないお前に価値はない」という一言だった。
 1968年から紀洲スイフツは本拠地が移転することに伴い球場が大きくなる見込みであった。よって以前のように長打が打てないことを危惧し若い西村の方針を出塁系打者から長打系打者にシフトさせ長打力不足を補おうとしていたようである。こうして1968年はパワー系打者としてのシフトチェンジを目指すが「ボールの打ち方がわからなくなった」というほどの不振に陥った。頭部死球のトラウマからインコースのボールを打つ思い切りは失われ、以前のようなインコースを引っ張って打つ打撃ができなくなった。ボールをしっかり見極めアウトコースのボールを引っ張ろうという強引な打撃になった結果変化球に空振り、ストレートに差し込まれるという悪循環に陥る。
 1969年、1970年は出場試合数を減ら規定打席未到達ながらもまずまずのシーズン。完全に長打にシフトしたシーズンが1971年で開幕から圧倒的低打率を走り続けた。しかしホームランはキャリアハイとなる21本を記録、長打力が光った。が、開幕以降打率2割を超えた時期がないほどの低迷っぷりで規定打席まで残り1打席をのこしたところで途中交代、以後起用されず規定打席には未到達という結果に終わる。三振率も4割と異次元の数字であった。
 これ以後はスタメンの座を失い対左のスタメンや守備固め中心の出場で1976年に引退を決意。奇跡の逸材は通算1430安打、164本塁打で終わってしまった。紀洲スイフツの黄金期と彼のキャリアは重なっており「紀洲スイフツ最後の逸材」「黄金期の最後を飾る一瞬のきらめき」「磨けなかった原石」と今でも惜しまれる選手となった。

 現役時代終盤はコーチからあの手この手で指導が入り毎日打撃フォームが変わっていたとすら言われ、それでもそれなりに打ち続けたことが彼の天才性を物語っている。打撃面では結局三振の多さを克服できずいたずらに長打力だけが下がっていったことから紀洲スイフツ黄金期と言いつつも選手を育成する能力はもはや失われていたと言われる。
 一方守備については強肩も含め圧倒的でゴールドグラブ賞を3度受賞するなど評価が高い。特にそれまで堅実なプレーが評価されていたものを西村以後は派手なプレーで魅せる守備も評価される時代が到来、野球の守備に革命を起こしたとすら言われる。

 1993年、紀洲スイフツの監督に就任。ヘッドコーチに黄金期のキャッチャーである今井を招聘し今井とスイフツの関係を取り持つなどして前年5位の球団を優勝に導き、名将との評価がされる。特に打者の育成に定評があったが翌年今井がヘッドコーチを辞任し迎えたシーズンを6位で終え、3年目も5位に終わり監督を退任した。もし93年に帝國ニッケルが優勝していた場合連覇の記録が10連覇となっていた可能性があり、帝國ニッケル一強時代に楔を打ち込んだとして評価されている。

ひとこと

 思い入れが強すぎてめちゃくちゃ書きたくなる選手なんですがこれぐらいで。早熟型なのであまり時間はありません。でもたぶん普通に使えばクソ有能なのでアレかも。まあ僕が好きなんですよ彼のことは。いいヤツでしたよあいつは。

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