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【パワプロ2022・架空選手】田中 大輔【パワナンバー】

田中 大輔(たなか だいすけ)

帝都第三高校(1986 - 1988) - 井戸島大学(1989 - 1991) - 紀洲スイフツ(1992 - 2011)

暗黒時代の主砲

 紀洲スイフツの黄金時代を築いた主砲、田中誠の次男として1970年に生まれる。長男は野球をしたがらなかったが次男大輔は野球をすることを好み、そして1977年は父親田中誠が監督を辞任し解説者になった年でもある。よって小学生のころから田中大輔は父親に指導され打撃技術を磨いた。父の誠いわく「野球のセンスは俺には負けるが努力することにかけては誰にも負けない」というほどの負けず嫌いであった。
 父親の指導によりスイッチヒッターに転向した大輔は高校へ進学。帝都第三高校で三番センターを務めるなどして活躍した。高校通算本塁打は19本、神宮野球大会への出場はない。井戸島大学に進学した彼はなおも野球を続け4番センターとして出場を重ねる。しかし大学通算打率.264、通算本塁打も8本と目立った成績を残すことはできなかった。大学を一年早く卒業した大輔はプロ志望届を提出、無理なら父親と同じように社会人野球からのプロ入りを目指す予定であった。
 1991年ドラフト5巡目、紀洲スイフツの指名はなんと田中大輔であった。この指名は各方面に波紋を広げることとなったが、ともかくもかつてのスターの息子を紀洲スイフツは獲得することができたのである。

 スターの息子ということもあり一年目の1992年から積極的に起用され91試合の出場で.243 7HRとまずまずの数字を残す。一方でセンターとしては守備力に不安がありいずれは外野両翼へのコンバートが現実的になった。
 1993年、チームは優勝争いを繰り広げる中開幕を四番で迎えた彼はいつしか七番ライトに収まっていた。.221 5HRと出場試合は増やしたにもかかわらず数字は大幅に落としてしまう。しかしチームは優勝、彼のキャリアで初めての優勝の経験であった。
 しかしこの時期を境にチームは暗黒時代に突入することとなる。主力の流出で実績不足の田中大輔が四番打者を務めなければならないほどにはチーム状況は追い込まれる。1998年には.224 11HRでやっとキャリア初めての二桁本塁打を記録。翌99年は打率.207と規定打席到達者で最低打率となってしまうが13HRを放ち長打力が伸びてきたシーズンとなった。
 2000年は好調な打撃を見せていた中交通事故によるトラブルで謹慎処分となり規定打席を逃してしまう。そして2001年は全体的に低調なシーズンで.238 7HRと批判を受けるシーズンとなってしまった。キャリア10年で規定打席到達6回と十分な働きを見せる一方で通算打率.229、972安打79本塁打と数字はついてこない。不退転の覚悟で2002年シーズンを迎えることとなる。

 再び原点に立ち返ることを意識したこのシーズンはそれまでプロ入団後に封印していたノーステップ打法に戻すということから始まった。プロ一年目に指導により足を上げるフォームにしていたがこれがタイミングの問題で打撃を狂わせていると判断し父と二人三脚でかつてのノーステップ打法をもう一度と意気込んだ。
 それまでホームランを意識していたバッティング、というより偉大過ぎる父の下ホームランを量産することを期待されていた彼だったがホームランではなくとにかく強くボールを捉える意識に切り替えた。
 左投両打という特性も活きる。本来スイッチヒッターは左打席でコンパクト、右打席でパワフルにというのが主流だが左投ゆえにこのスタイルが逆転する。左打席では押し込みを利用して広角に強い打球を放ち、右打席ではコンパクトでインコースにツボのあるバッティングを見せた。
 2002年シーズンについて本人もかなり満足のいく仕上がりを見せる中迎えた開幕、打順は七番レフトといういつもの定位置。まさかここからこの男が爆発することなど誰も考えていなかったのである。

パワナンバー : 10400 00928 00227

 それまで13本が最多だった男が背番号と同じ数ホームランを放つという快挙。チームは4位に終わったものの終盤には四番打者に戻るなど充実のシーズンを過ごした。それまで直球に差し込まれ変化球に崩されていたが変化球をしっかり待って打つという理想的なバッティングができるようになり父と二人三脚で掴んだ好成績だったのである。

査定について

 もう3回ぐらい作ってる選手なんですが毎回査定が変わるので何とも言い難い選手です。それまで弾道2が定説だったんですがやはりこの年は30HRをクリアしている以上弾道3でいいだろうという結論に至りました。そしてミートを下げました。この感じ、かなり満足しています。走力もちょっと速くしました。守備を上げた代わりに送球が下がってます。

ラインD、広角打法

 これ以後の田中大輔と言えばこれでしょう。左打席から左中間スタンドに叩き込む打撃はまさに左投がなせる業。キャリアの中ではフライ率が高いシーズンなのでラインドライブはなくてもいいですが彼の通算での特徴を考えると必須ビタミン。

チャンスF、ダメ押し

 31HRで71打点はいかんでしょ。ホームラン22本で51打点とか言うシーズンもある。まあ彼の特徴ですねこれが。

悪球打ち

 左打席でのインロー変態ホームランに定評あり。右打席でのインハイクソボールツーベースに定評あり。

三振

 それまでつけてなかったんですけど125三振は普通に三振付けないとダメでしょう。

チームプレー×

 このシーズンを境に中軸打者になったのでバントをさせられることがなくなります。バントさせられないためのチームプレー×。

エピソード

 2年後の2004年、紀洲スイフツは夏場から一気にブーストをかけ始め帝國ニッケルを猛追した。帝國ニッケルは疲労からかチーム成績が下降、直接対決で田中大輔の決勝スリーランによりついに首位に立つ。その後はツクヨミデファイアンツの追従も振り切り11年ぶりとなる優勝。田中大輔は優勝の立役者となった。
 さらに2006年、中津アグレッサーズが開幕から好調を維持する中やはり夏場から紀洲スイフツが猛追、再びの優勝を掴む。しかしこの中で田中大輔のみが夏場以降成績を落とし.238 22HRという数字に終わってしまう。翌年も四番打者として起用されるが.225 10HRと不十分な成績でチームも最下位に転落。38歳となる2008年も未だにスタメンで使われ続け.214 7HRに終わりついに田中大輔はいくら優勝の立役者と言えども批判を避けられなくなった。
 以後は代打などの起用が中心となり2011年、引退を表明した。代打で起用されるも打率1割台0本塁打とさすがに衰えは隠しきれなかった。
 現役最終戦となった2011年9月22日、6点ビハインドの9回裏2アウトランナーなしで代打で出場するとまず右打席に立ち一球見た。その後1ボール0ストライクから左打席に立つとインローへのスライダーを全盛期さながらに痛打、ライトポール際に吸い込まれるホームランとなった。通算217本目のホームランであった。現役20年、2281試合出場1895安打、通算打率.236という数字であった。

「父と同じく2000本安打を打って終わりたかった」
「ファンの応援あってのプロ野球、応援してもらえるうちに引退するべきだと思うようになった」
「決して楽なプロ野球人生ではなかった、それでもその中で必死に努力したこの結果には満足している」

 引退後は2012年から二軍監督に就任、2013年シーズン終了をもって二軍監督を退任。2017年に紀洲スイフツ監督就任要請を受け監督に。チームは低迷を続けているものの中軸を打つスター選手が次々と生まれているため評価は高く監督を続けている。

 ドラフトでの指名について縁故採用であるという可能性はかなり高く、当時のスカウトたちの話でも「鶴の一声」で指名が決まったという話がある。我慢して起用され続けたことで最終的に批判をかわしたがキャリア序盤は本当になぜ起用されているのかわからない選手という評価で一致しており努力の人という評価も受ける。
 外野手としては打球の判断能力に劣り守備範囲に問題を抱えていたが引退後にドライアイが原因で証明が眩しかったことが明らかになっておりもっと早く処置していれば球界屈指の打てるセンターになっていた可能性も示唆される。

ひとこと

 毎回同じシーズンを査定していますがいつも自分の考えが変わるので面白いですね。ラインドライブが実装される前は弾道2パワーAで彼の才能を再現していましたがオーペナだと勝手に弾道が上がるのでムカついてました。ラインドライブあるんだし容赦なく弾道3にしていいよなということです。弱小球団の四番という雰囲気をよく再現できているのではないでしょうか。

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