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【パワプロ2022・架空選手】塩沢 正信【パワナンバー】

塩沢 正信(しおざわ せいしん)

前坂高校 - 前坂大学 - 紀州スイフツ(1957 - 1974) - 西松スキュアス(1975 - 1979) - ダックスフンズ(1980)

不屈の400勝

 1935年1月6日に生を受けた塩沢は戦争が本格化する時期を少年として過ごした。そして戦後、戦勝で沸く国内を見ながら宗教と哲学を学ぶため大学へ進学した。高校二年生から始めた野球は大学でも続けると意外にも高い身体能力を見せ外野手から投手に転向、肩の強さを活かし速球派投手として名を上げた。帝都大学野球大会では1試合25奪三振の快挙を成し遂げるなどして活躍、実績こそ少ないものの素材型右腕として1956年のドラフトで紀洲スイフツから2位指名を受けた。

 1957年、キャンプでブルペン入りした塩沢はさすがの速球を見せるものの制球力に難があり徹底的な投げ込みによってフォームを改良、制球力を改善した。加えてストレートのキレが悪いと指摘されており球速よりも質を求め浮き上がるストレートを目指した。
 これらの練習により1年目は中継ぎ中心の起用法ながらも12勝をあげシーズン終盤には先発機会も得た。防御率2.35、12勝8敗と印象的な活躍を見せ、与四球率は3台と制球力はまだまだ改善点があったもののストレートで押していくピッチングスタイルで新人王も獲得。
 2年目となる1958年、前年からピッチングスタイルを大きく変え唯一の変化球カーブを磨いて打たせて取るピッチングスタイルにモデルチェンジした。加えて当時の正捕手であった石原章が弱肩で盗塁を刺せないことからクイック投法を開発しチームに広めた。のちにクイック投法は球界全体で一般的な技術として広まっていくこととなる。この年は防御率2.56 24勝10敗で最多勝争いにも絡み2年目にしてエースの座を掴んだ。
 3年目は制球が大幅に改善されたことにより成績が飛躍。272イニングを投げ防御率2.71、32勝4敗の無双っぷりであった。最多勝・最高勝率を獲得するとイーデル最優秀投手賞を受賞、飛躍のシーズンとなった。4年目1960年はそれまでカーブしか投げられなかったところをフォークを習得したことで奪三振率が向上、数字は落としたものの25勝を挙げ3位に順位を落としたチームで気を吐いた。
 1961年、ドラフトでのちの正捕手今井が入団、石原が盗塁を刺せないことに常々不満を抱いていた塩沢は今井を徹底的に鍛え正捕手として育成することをめざした。とにかくワンバウンドのカーブを投げ続けフットワークを鍛えさせると自分の専属捕手として今井を指名、試合に出して経験を積ませることにした。当時石原も35歳とベテランになりつつあり、後年「このチームの未来のためには今井を何としても育てるしかなかった」と語っている。
 1963年、すでに球界のエースとなっていたが開幕2戦目の試合でノーヒットノーランを達成。この時塩沢は「ピッチングの極意」を掴んだ。「自分が次に何をどこに投げればいいのかが見えるようになった」と語り常にピッチングしている自分を俯瞰で見ているような感覚があったという。これにより覚醒した塩沢はついにノーサインで投げることを提案、今井はこれを承諾しこれ以後塩沢はノーサイン投球を続けた。このノーサイン投球もすべて今井が記憶しておりデータもすべて集めたことがのちのキャッチャーとしてのリードにすべてつながったと語る。
 1964年、スライダーを習得し迎えたシーズンだったがスライダーによりカーブに狂いが生まれてしまった。正捕手今井いわく「スライダーももちろん球界トップクラスだけど唯一無二のカーブに比べたら平凡」と、すでに代名詞ともなっていたカーブの質が悪化したことで苦しんだシーズンとなった。なんとか21勝を挙げ3年連続20勝をクリアしたものの防御率は3.37と苦しいシーズンだった。
 それ以後は今井の成長に伴いノーサイン投球をやめ全面的に今井のリードに従うようになる。スライダーも見せ球として使うのみにとどめカーブ主体のピッチングスタイルに戻し、加えて左打者に対して使うフォークは切れ味鋭く三振を奪った。

 1967年、チームの連覇が6で止まると塩沢の連続20勝も5でストップしてしまった。球場移転もあり1968年は塩沢にとって勝負の年となった。

パワナンバー : 10700 60915 82318

 球場が広くなったことでピッチングスタイルの幅が広がり開幕前に80km/h台の超スローカーブを習得した。普段のカーブが110km/h台に対しさらに遅いこのスローカーブは新たな武器となった。スローカーブを意識させつつも基本は140km/h台のノビのあるストレートで空振りを奪う。広い球場で高めのストレートを見せつつも要所要所は低め変化球でしっかりと打ち取る様はまさに不沈艦。この年最多勝・イーデル最優秀投手賞を受賞、通算2000奪三振も達成し充実のシーズンとなった。
 しかしチームは貧打に苦しみ5位(当時は5チームなので最下位)に低迷、チームの楽しみが塩沢の登板試合しかないという程度には苦しいシーズンとなった。

査定について

 最速146km/h、なんだかんだ言って140後半は出てたのでこれぐらいで。コントロールに関してはこの年はBB/9が1.36と非常に素晴らしい数字なので文句はないでしょう。この年が最後の200イニング投球回。翌年は不調もあり違和感もありでイニング数を大幅に減らしてしまうのでこんなものではないでしょうか。

トップギア

 中継ぎ経験者だったのでいい意味で力の抜きどころを知らなかった。以前から完投型ではなくとにかく7回をしっかり抑えるというスタイルを貫いた。

対ピンチB、要所〇

 今までの20勝が打線の援護ありきだったのに対してこの年はほぼ自力で20勝を掴んだと言ってもいい。とにかく大事なところで打たれなかった。

対左E

 やはり左打者に対する武器の少なさは否めない。

怪我しにくさD

 翌年肘に違和感を抱え始めるシーズンなので怪我しにくさを上げるのはちょっと違う感。

エピソード

 1969年、肘に違和感を抱えつつも48試合に登板し13勝15敗とまずまずの数字を残し、100勝100セーブ100ホールドを達成。前年超スローカーブで力を抜いて打ち取るスタイルを覚えてしまったことで肘の痛みもあり力を抜くことを覚えてしまったと語る。
 この時期から投手分業制が一般的になり1970年からは先発に専念。ストレートの質が復活したことで防御率2.31、16勝8敗と復活しチームの優勝に貢献した。三度目となるイーデル最優秀投手賞も受賞。
 これ以後先発投手として結果を残し続けたものの1972年、主砲田中誠とともに引退勧告を受ける。田中誠はチームに貢献した功労者であり彼が監督に就任することは既定路線であったため、そのわきを固める首脳陣として塩沢が投手コーチに就任することを求められた。だが塩沢はこれを拒否、田中誠も引退勧告を拒否し現役を続行したためとりあえず先延ばしとなった。
 1974年、チームの投手陣がケガ人続出の中一人先発ローテを守り抜き防御率3.67、11勝15敗ながら164イニングを投げぬいた。前半戦はムエンゴに苦しみながらも後半戦で大幅に巻き返し二けた勝利を掴むとチームは5連覇を達成、キャリアは円熟味を増してきた。
 だがここで主砲田中誠が2000本安打を打ち引退を決意したことで塩沢にも再び引退勧告が迫る。現役にこだわる塩沢はこれを拒否し、結果戦力外通告を受ける。

 多くの球団からオファーがあった中で1965年に発足したばかりのSリーグへの移籍を決意、西松スキュアスと契約を発表した。西松スキュアスは人気がないということに定評があり、いわゆる万年最下位球団であった。すでに衰えたアマチュアの名選手を話題性だけのために入団させるなど様々な施策をしていたがここにきて初めてきちんと補強をすることになったのである。
 一年目の1975年は防御率3.34、10勝15敗とやはり弱小球団の洗礼を受けたものの塩沢により多くの投手が指導を受け徐々に改善されていった。1976年には防御率3.89ながらも12勝10敗と久々に勝ち越し、スキュアスの観客動員にも協力した。76年のオフには紀洲スイフツから今井がFA宣言し移籍、黄金期を支えたバッテリーが流出した。
 1977年には防御率3.98、7勝11敗と本人の数字は振るわなかったもののスキュアスは球団創設以来初めてとなるリーグ3位、プレーオフ進出を決めた。プレーオフは惜しくも敗北したが第二戦で登板し6回3失点と試合を作るピッチングをしている。
 1978年はチームが再び5位に低迷、1979年はプレーオフ争いで惜しくも4位に終わってしまうもシーズン終盤まで緊迫していた。しかし本人は防御率4点台とキャリア最低の数字に終わり援護のおかげで7勝7敗と負け越しは防いだもののすでに力不足という声は多く聞こえるようになってきた。
 この年コーチの打診を拒否したことで自由契約となってしまったが塩沢は通算393勝まで来たことで最後の目標を通算400勝に定め、同じSリーグのダックスフンズへ移籍を決めた。
 ダックスフンズでは球場が狭くなったことから被本塁打が増加したもののフォーク主体の投球スタイルに切り替え三振を奪えるようになったことが大きく防御率3.48と復活のピッチングを見せた。8月22日には6回2失点のピッチングで通算400勝を達成、右投手で通算400勝を達成した唯一の選手となっている。最終的にシーズン成績は9勝5敗と貯金を作ることに成功、ダックスフンズも1968年以来12年ぶりの優勝を果たした。400勝を達成し優勝したことで引退を決意・発表し、チームはプレーオフを突破。
 この年の王座決定戦は紀洲スイフツvsダックスフンズという因縁の勝負になった。1勝1敗で迎えた第三戦に先発した塩沢は紀洲スイフツ打線を抑えに抑え最速143km/hと速球は遅いながらも6回1失点7奪三振で勝利投手となる。この試合で勢いづいたダックスフンズはその後2連勝し見事総合優勝を掴んだ。球団創設以来初めてとなる総合優勝であった。

 引退後は完全に紀洲スイフツとの関係は切れている。1986年からダックスフンズの二軍投手コーチを務め87年には一軍投手コーチに昇格、88年から91年の4連覇を支えた。投手起用については中継ぎ投手の酷使が目立つともいわれ92年には投手陣が疲弊したことで一気に5位に転落している。92年シーズンを以て投手コーチを辞任し98年からは西松スキュアスの投手コーチに就任。98、99、00年の3連覇に貢献した。
 2005年にはミレニアム新規参入球団の一つ日新ヴァルカンズの投手コーチに就任したもののチームを浮上させることはできず、翌年に辞任。ただしこの指導によって投手陣の成績が向上し2007年の優勝につながったとも言われている。

 田中誠政権に加わらなかったのはひとえに300勝投手である自分が蔑ろにされているというところであり、通算300本塁打の主砲の方がエースよりも優先されるという態度に怒りを覚えていた模様。田中誠とは同じ年に生まれているが塩沢は早生まれで学年としては一つ上、プロ入りも塩沢の方が早い。にもかかわらず田中誠が優先され自分は彼を支えるポジションとして引退を要求されたことが納得できず球団への不信感を抱くことになった。
 しかしこれによって大リーグの有名選手が初めてSリーグに移籍した事例となりそれまで不人気だったSリーグの知名度向上に貢献したともいえる。根本将一のプロ入りと合わせて我が国のSリーグの発展の歴史において欠かすことのできない大事件であったと言えよう。

ひとこと

 (僕にとって)思い出のレジェンドがついに復活したぞ。超スローカーブ、実際対戦で使ったらかなり厄介なんじゃないかという気がします。ぜひ無双させてやってください。

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