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セーヌ川の川岸で 貴女と私の秘めごと

隣には、名刺の肩書きしか覚えていない男が気持ち良さそうに眠っている。朝の光が差し込むシルクのカーテンを開け、まだ人気の少ない街並みを見下ろす。

高級なランジェリーを身につけ、黒のシャープラインのスーツに身を包む。幾つもの断面が、揺れるように煌めく小粒のネックレスが鎖骨に輝きをもたらしてくれる。
鏡に向かい、鮮やかな赤色のルージュを唇に彩り、艶やかな光沢のあるヒールが足元をより美しく飾る。

そんな優雅な日々を一変させる出来事が起こったのは、澄んだように晴れたある日の朝のことだった。

**

私は、目を丸くして驚いた。

スーツや制服姿の人々が行き交う、朝の駅構内での出来事だった。

まるで都会には似つかわしくない、見知らぬ女性から声をかけられ、突然愛を述べられたのだ。

「いえ…あの、前から好きでした。電車でいつも、素敵だなと思っていました。」

彼女は頬を赤らめて、俯きながら呟いた。

普段から他人に比較的優しく接しているつもりだったが、突拍子もない言葉に思わず笑いが込み上げた。

「あなた、女でしょ?ごめんなさいね、私にはそんな趣味ないから」

そう冷たく言い放ち、微笑んだ。

唖然と立ち尽くす彼女に背を向け、立ち去ろうと歩き出した、その時だった。

「怒った顔も可愛いのね!」

背後から黄色めいた彼女の声が駅の構内に響いた。

私は、驚いて再び振り返る。

彼女は、微笑みながら子供のように目を輝かせ、こちらを見つめている。

「は!」一瞬何かを思い出したように駅内の時計を見ると、こちらに急いで私に駆け寄ってきた。

彼女はハンドバッグから小さな名刺ケースを取り出して一枚の名刺を差し出した。

「今日の夕方ここにいるから良かったら来てね、ごめんなさい、私今日時間なくて!」

顔をしかめて呆然と立ち尽くす私を残し、彼女は満面の笑みで「それじゃあ」と手を振って走って行った。

**

人々が早々と行き交う交差点を、沈み行く夕日が赤々と染める。

「はぁ」と、深く溜め息をついた。今朝の出来事のせいで、今日は会社でも終始苛ついていた。

夜へと向けてざわめき出す街並みや人々を、店の灯りが照らし出す。

捨てようとした名刺を、ふとスーツのポケットから取り出した。

見ると【あなたの一瞬を彩ります。】と言うカラフルな文字が名刺に書かれている。裏をめくると、手書きの大雑把な地図が印刷されていた。

私の推測が間違っていなければ、駅から少し離れた場所のことのようだ。

朝のことを思い出すと、苛つく感情が湧き上がり駅へと歩く速度を早める。それに合わせて、ヒールが地面に鳴り響いた。

暫く歩いていると、少し離れた先に彼女らしき人物が見えるのに気が付いた。

ふと周りを見渡すと、いつもの駅へ直行するルートから逸れていることに気づいた。何故だか知らないうちに、名刺の地図に向かって歩いていたようだ。

彼女をよく見てみると、小さな男の子の子供を連れた母のような女性と笑顔で話をしている。

すると彼女は、木製のスタンドを立ち上げ、そこに白いキャンバスを置いて画材道具のようなものを広げていく。
 
無機質な造りの椅子に座り、真っ直ぐな視線で先程の親子を見つめている。

私の足が、彼女に自然と近づいて行く。

そっと後ろから彼女を眺めていると、鉛筆を画材道具の中から取り出し、おもむろにキャンバスに向かって手を動かし始めた。

鉛筆で下書きを終えると、筆に持ち変え、色とりどりの絵の具に筆先を染める。

キャンバスを自由自在に彩る彼女は、とても幸せそうな表情だった。 

滑らかに筆先を走らせるキャンバスには、親子の幸せそうな笑顔が、鮮やかな色合いで描かれていた。

彼女が描いている親子をふと眺めると、幸せそうに笑い合っている。

「来てくれてたの?」声に、我に返る。
彼女を見ると、朝のようなあの輝く瞳で嬉しそうに私を見つめていた。

「ええ」

私はそう冷たく呟き、彼女から慌てて顔を背けた。

横目で彼女を見ると、照れ臭そうに微笑みながらキャンバスの右下にネームを入れている。

「よし、完成!」

そう明るい声で言うと、勢い良く立ち上がり彼女はキャンバスを持って親子の方へと走って行った。

彼女は男の子の前にかがみ、満面の笑みでキャンバスを小さな手に手渡した。

その子はキャンバスを見た瞬間、瞳をきらきらと輝かせて絵を眺めると、まるで宝物を大切に守るように両手でキャンバスを抱き抱えた。

女性は彼女に笑顔で会釈し、手を振るその子を連れて人々が行き交う街へと消えて行った。

**

私たちは駅構内にあるカフェへと移動し、奥の席で私は彼女のスケッチブックを見ていた。

「驚いた、あなた本当に上手だわ」

一枚一枚のスケッチブックを眺めては捲りながら、私は彼女にそう言った。

彼女はその言葉に優しく微笑むと、その時々どういう想いで、その情景を描いた絵を見ながら語りだした。

子供たちが笑っている姿、道の端に咲く花、人々の行き交う街の風景、女性が子供をあやす姿、煙草を吸う老人

なんでもないような日常の風景ーー

普段、気づかないような日々の一瞬一瞬が切り取られている。

まるで"そこ"に命を吹き込むように、濃淡な色づかいで幾つもの色が鮮やかに彩られていた。

ふと、一枚の絵を見て紙を捲る指が止まった。

どこかの外国の美しい街の風景が描かれている絵を指して「これは?」と彼女に尋ねた。

「ああ、それはイタリアへ行った時の絵なの。イタリアは西洋美術が発展しているから、何か刺激的な違うものを書きたくて。半年程沢山の美術館を巡ったり沢山の人々に出逢いながら好きな絵を好きなように描いたわ。ほら見て。凄く綺麗でしょ?」

そう言って、描かれている絵を微笑みながら指差す。

石畳が広がる街に人々が行き交い、太陽の光が差し込んだ美しい曲線のゴシック調の建築物が建ち並んでいる。

「それで……日本へ帰ってきたの?」

私は、絵を眺めながら尋ねた。

「ええ、でもまた1ヶ月後に旅立つの」

私は彼女の言葉に、目を丸くして驚いた。

「旅立つって、どこへ?」

「フランスのパリよ。今度は、あちらで認められるまで、絵の勉強をしようと思っているの」

そう言うと、彼女は冷めかけている珈琲をスプーンでひと回ししてカップを口へと運んだ。

その言葉に、私は何故か酷く悲しい気分になった。

私は暫く沈黙し「そう」と呟くと、平静を装いながら珈琲を一口飲んだ。

「何だか、あなたって思ったより冷酷な人なのね。じゃあ、今朝の言葉も遊びだったのね」

私は呆れながらそう言って、彼女のスケッチブックを閉じた。

彼女は、私の言葉に少し俯いて戸惑う。その後に「それは」と言葉を続けた。

「せめて、想いを伝えてから旅に出ようと思ったの。
今こうして、貴女と話せるなんて、ほんと考えもしていなかったわ。だって、貴女は凄く綺麗な人だし……私にとって、貴女は夢を見させてくれた人だったわ。ありがとう」

そう言って、哀しげに微笑んだ。

私の中で、強い怒りと哀しみが混ざり合った感情が溢れ出す。

「……ふざけないでよ」

俯きながら震えるように呟くと、彼女が、コーヒーカップに運ぶ手を止めた。

椅子を弾き飛ばすように勢い良く立ち上がる。

「黙って聞いてたら、なに自己満足で夢見るだけで終わってるの?私を諦めないで、自分の言葉に責任持ちなさいよ。あなたの気持ちはそんな程度のものなの?」

私の興奮した声が店内に響き渡った。

店内は静まり返り、全員がこちらを驚いたように凝視している。

彼女は暫く唖然とした表情で私をを見て、吹き出すように笑い出した。

「それって……オッケーって受け止めて…いいの?」

そう嬉しそうに微笑むと、席から立ち上がり、立ち尽くす私を優しく抱き寄せる。

「貴女のこれからの人生を、私と描いてくれる?」

私の耳元で、彼女が優しく囁いた。

「…なにそれ、馬鹿じゃないの?」

私はその言葉に笑いながら、優しく抱き締める彼女に身を委ねるのだった。

**

慌てて引き止める上司と、突然の辞職に唖然とする社員たちのざわめきを残し、私は会社を去った。

会社を飛び出した私には、もう何も残っていなかったが、不思議と今までに感じたことのない幸せに満ちていた。

そんなことが、昔のように懐かしく思える。

澄み渡る春の陽気な空の下で、川岸に座ってパリの風景を眺める。

セーヌ川のせせらぎが、私の眠気をゆっくりと誘う。

彼女の腕にもたれかかりながら、スケッチを少し覗くと色鮮やかな美しいパリの景色が描かれていた。

彼女の優しい眼差しを感じながら、私は瞼を閉じた。

隣で聴こえる紙の上を動く筆の音を耳に残し、微笑みながら眠りについた。

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