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2023年3月 読書記録 殉死、最後の武士、耽美派

山本博文『殉死の構造』(角川新書)

 殉死について、歴史学者が読み解く新書。森鷗外の『阿部一族』を読んだ時に気になっていた作品です。
 主君が亡くなった時に、家来が後を追って死ぬ殉死。武士道と結び付けられがちですが、実際に行われていたのは短い期間なんですよね。最初の例は1607年に松平忠吉(徳川家康の四男)が死んだ時、1663年には口頭で殉死禁止令が出され、68年には家来が殉死したという理由で、奥平氏が石高を減らされています。『阿部一族』の元ネタになった『阿部茶事談』は殉死禁止の数十年後に書かれたので、事実としての殉死ではなく、ファンタジーとしての殉死が描かれているというのが作者の見解です。

 事実としての殉死。「この家来なら殉死して当然」と見なされるのは、主君の衆道(同性愛)の相手です。また、喧嘩両成敗になるはずが、主君の慈悲で死を免れる等過分な扱いを受けた人も殉死する確率が高い。あとは身分が低い家来が主君との些細なやり取りを心に刻み、殉死する場合もある。ただし、同性愛関係やよほどの過分な扱い以外では「殉死して当然」と思われたりはしないので、『阿部一族』で描かれる「身分の高い家来が殉死しなかったために嘲りを受ける」などという話は、あり得ないそうです。
 更に主君との些細なやり取りを心に刻んで殉死するという行為は、当時はやったかぶき者の心性と通じるものがあると作者は説きます。かぶき者とは派手な装いをし、徒党を組んで暴れる者たち、島原の乱以降に訪れた平和な世を物足りなく思い、自らの美学に命をかける男たちのことなのですが、精神的なアウトローであるかぶき者を、幕府は秩序を乱す危険分子と見なして取り締まります。殉死の禁止もそれと同じ…幕府は殉死を忠義に基づく行為ではなく、世を乱しかねない危うい行為と考えていたんですね。
 一瞬の栄光や己の美学に命をかけた男たちの行為が、数十年後には、武士道に基づく忠義の行為と見なされるようになります(武士道自体、かぶく心を昇華させたものと言えるのかもしれませんが)。『阿部一族』は、過去への憧憬とノスタルジーに彩られた物語として読むべきなのかもしれません。

 

今井幸彦『坂本龍馬を切った男』(新人物文庫)

 坂本龍馬を殺した男、見廻組の今井信郎の生涯を孫が描いた作品です。昭和時代に新人物往来社が出版した本を角川書店が電子化しました。ところが、電子化した際に、作品の後半がカットされている…。確認せずに買った私が悪いのだけど、カットされていない部分=今井信郎が龍馬を切った話は、今では定説がウィキ等で読めるのに。
 興味があったのは、その後の今井信郎です。慶応四年〜明治二年にかけて、旧幕府軍と新政府軍が戦った「戊辰戦争」という内戦がありました。信郎は最初は見廻組の一員として、後には衝鋒隊の副隊長としてこの戦いに参加するのですが、幕府側の士官では最も戦闘参加日数が多い人の一人です。特に北関東の戦いは衝鋒隊がメインで戦っているのに、資料が少なく、戦いの様子がよくわからないんですね。そのあたりのことがこの本に書いてあると知り、買ってみたのですが…。ただ、衝鋒隊が他の幕府諸隊と比べて、地味な存在である理由はわかりました。戊辰戦争の最後、函館戦争の決戦を前にして、衝鋒隊のメンバーも別れの宴会をひらくのですが、そこに砲弾が打ち込まれて、隊長以下主要隊士が全員戦死してしまったのです。生き残りがいないので、史料も残らず、忘れ去られてしまった。宴会の途中で風呂に入っていた信郎だけが助かります。壮絶すぎる人生ですね。「祖父の人生において、龍馬を切ったのは小さなエピソードにすぎない」と孫が書くのもわかります。

トゥルゲーネフ『初恋』(沼野恭子訳・光文社古典新訳文庫)

 明治時代の文学者がトゥルゲーネフに多大な影響を受けているので、再読してみました。十六歳の少年の恋とは呼べないほどの淡い感情を描いた短編小説です。江戸期の日本には、性愛はあっても恋愛はなかったと言われるぐらいですから、この小説によって、明治期の人たちは恋という感情を「発見」したのでしょうか。



青空文庫では、耽美派の佐藤春夫と久保田万太郎の作品、白樺派の有島武郎の作品を読みました。有島作品は個別に取り上げる予定なので、耽美派の二作品について。

佐藤春夫『田園の憂鬱』

 佐藤春夫といえば、谷崎潤一郎に妻を譲ってもらった話が有名ですよね。実は、谷崎は佐藤に妻を譲る前に、若手作家に妻を譲ろうとしています。その話を小説にしたのが『蓼喰ふ虫』です。佐藤もこの小説に登場していて、夫婦の状況に理解がある、物静かな青年として描かれています。
 『田園の憂鬱』は妻譲りの話よりも前、佐藤が内縁の妻と暮らしていた時期の話です。主人公は鬱になり、田園地帯(今の横浜市青葉区)に転地して、ガーデニング等で心を癒そうとします。ところが、都会に慣れた主人公夫妻の生活と村の人たちの生活には大きな隔たりがあって、それが新たな気鬱のもとになってしまうんですね(大正時代の話なのに、村の暮らしは江戸期とあまり変わっていないように感じられます)。村の人たちの言動を主人公が病んだ心で歪んだ風に解釈して、更に心をこじらせていく様はモダンホラーを読んでいるようで、とても面白かったです。
 後半では、更に病いが進んで幻視や幻聴もあらわれます。その部分は非常に迫力がありますが、あらわれる幻を作者が全て信じ切っているようにも読めて、それはそれで怖い。この後も佐藤は文学者として活躍しているので、病いを克服したのだとは思いますが、最後の方の乱れた書き方を読むと、よく日常生活に戻れたなと感じます。こういうタイプの人が、先輩の妻を好きになってしまうというややこしい状況に陥るのも、いかにもありそうな話ですね。



久保田万太郎『春泥』

 名前しか知らなかった作家ですが、小説家・劇作家・俳人だそうです。『春泥』では、関東大震災後の下町を舞台に作者がよく知る新劇の人たちの生活が描かれます。劇作家だけあって、会話シーンが多く、会話だけで各人の性格がよくわかりました。芝居には本気だけれど、それ以外の生活は定まらず、根無草のような俳優たちの生き様が大学時代に垣間見た平成期の劇団員の姿と重なりました。東京の下町がもう一つの主人公であるような小説でした。
 この作品を読んだだけでは、久保田万太郎が耽美派に含まれる理由がわからないけど。永井荷風の弟子だから? 




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