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猫の家と宝丹 『吾輩は猫である』 文学散歩

文豪の家in 明治村
 犬山市にある明治村は歴史好きには楽しい場所なので、名古屋圏に住んだことがないのに、三度も足を運んでいます。
園内の建物としては、帝国ホテルの本館を始めとする古い洋館が有名ですが、戦前の文豪が住んだ家もいくつか移築されています。
 一番立派だったのは、幸田露伴宅ーー明治後期に向島に住んでいた時の住居です。当時の向島は田園地帯ですから、あれだけ大きな家が建ったのでしょう。逆に、石川啄木が晩年に二階を借りていた床屋は、啄木夫妻と子ども二人、啄木の母親計五人が住むには小さく、啄木の貧しさが偲ばれました。
 夏目漱石が「吾輩は猫である」を執筆した家も、明治村に移築されています。明治三十六年から三年間住んだ家なのですが、明治二十三年には森鷗外が住んでいたのだとか。文豪二人が同じ家に住むなんて、凄い偶然ですよね。

猫の家
 明治村の漱石邸は、今の日医大付属病院の敷地内にありました。地下鉄東大前駅から徒歩数分の場所です。文京区の中でも僻地というイメージですが、一高で教えていた漱石にととっては、職場に近い便利な家だったのでしょう(東大前駅は、農学部=戦前の一高前にあります)。

 「吾輩」を書いた家ということで、跡地には猫がいました。この家は、間取りや周囲の様子など、苦沙味先生の家の設定とほぼ重なるようです(苦沙味先生が苦情を言いに行った学校は今も同じ場所にありました)。
 
宝丹
 前回、多々良君と日暮里の羽二重団子まで出かけた苦沙味先生が健脚だと書きましたが、水島寒月君ともかなり歩いています。吾輩が覗き見した日記によると。

寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。(中略)宝丹の角を曲るとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとした撫肩の恰好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。 

 神田のどのあたりまで行ったのかわかりませんが、最短でも往復で一時間はかかります。漱石と寒月のモデルになった寺田寅彦の仲の良さがわかるエピソードです。
 ところで、この日記に出てくる宝丹ですが、池之端付近が舞台の森鷗外の小説「雁」にも出てきます。ヒロインの父親が宝丹の裏で買ったと言って玉子煎餅を出してくるシーンです。お店の名前かな? と思って検索すると、薬屋でした。

 今も同じ場所に店があります。苦沙味先生は芸者の話を書いていますが、宝丹薬局がある仲町通りは今も歓楽街なので、今回初めて足を踏み入れました。
 お店のHPによると、宝丹は薬の名前でもあるようです。幕末に発売開始、明治期には官許第1号公認薬となった胃腸薬だとか(Amazonでも売っています)。漱石の随筆集「永日小品」に、年のせいか食事を吐くようになった猫に砕いた宝丹を呑ませてあげようとする話が載っていました。小学生の頃「吾輩は猫である」の結末が嫌いで、猫が幸せになる話に作り変えていました。でも、現実の世界では、夏目家の猫はちゃんと気にかけてもらっていたようです。毎年、猫の命日には鮭の切り身と鰹節ご飯を供えているという文章で、随筆は終わっています。


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