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もう一つの明治の青春 森鷗外『青年』 【読書感想文】

 『青年』は、1910年から翌年にかけて雑誌『スバル』に連載された青春小説です。
 鷗外本人が言及している文章は見つかりませんでしたが、夏目漱石の『三四郎』(1908年発表)に大きな影響を受けた作品なのは間違いないでしょう。
 三四郎と似た設定がいくつもあるので。でも、全体の雰囲気などは全く別物です。
 『三四郎』は中学の時に読んだのに、『青年』は今年初めて読みました。昔読んでいたら、自分の性格からみて『青年』の方により共感を覚えたと思うので、青春から遠く離れた時期になるまで出会えなかったのが残念です。


 『青年』の主人公、小泉純一(どこかで聞き覚えのある名前ですね)は、三四郎と同じく田舎から上京した青年です。三四郎が帝大の学生であるのに対して、純一は作家志望の高等遊民。両親は亡くなっていますが、実家が裕福なので、仕送りを受けて東京で一人暮らしを始めるのです。
 前にも書いたかと思いますが、三四郎はイノセントな性格なんですね。私が大学生の時でさえ、地方出身者には驚くほどピュアな人がいましたから、明治期なら、三四郎のような学生が大勢いたんだろうとは思います。でも、あまりにもイノセントなので、三四郎は何を聞いても咀嚼せずに受け入れてしまう。それに対して、純一は斜に構えているといってもいいぐらいに、批判精神に富んだ性格です。『それから』の代助が二十歳前後の頃には、こんな青年だったのではないかと思います。頭の中で目まぐるしく思考を巡らせ、そのくせ一歩が踏み出せないところや、生活様式などにこだわる神経質なところ。純一と代助には、性格的に似た部分が多いです。
 ネットで若い方の文章を読むと、「若いうちから、人生設計できていて、実行力もあってすごいな」と感じる方が多いですし、逆に三四郎風のどこまでもピュアな方もいるでしょう。でも、純一のように、漠然と夢を抱きながらも足を踏み出せず、物事を斜めに見ている…自分にもそんな時期があったなぁと思う方は、『青年』という小説に共感できそうです。

 主人公が付き合う人達も、『青年』は『三四郎』をなぞっています。与次郎にあたる悪友は、美術学校に通う瀬戸。つい与次郎のペースに乗せられてしまう三四郎とは違い、純一には自分の世界があるので、与次郎ほど存在感はありません。ただ、瀬戸は純一を平田拊石という作家の講演会に誘うのですが、この平田は夏目漱石がモデルなんですね。いかにも漱石が言いそうなことを語っています(講演の議題がイプセンなのも、『三四郎』へのオマージュでしょう)。

(平田の演説は)声色を励ますというような処は少しもない。それかと云って、評判に聞いている(三宅)雪嶺の演説のように訥弁の能弁だというでもない。平板極まる中に、どうかすると非常に奇警な詞が、不用意にして出て来るだけは、雪嶺の演説を速記で読んだときと同じようである。

 平田の演説を聞きながら、純一はこんなことを考えます(三宅雪嶺は、演説のうまさで定評がありました)。鷗外が漱石を認め、リスペクトしているのがわかる文章です。ちなみに、純一は鷗外についても考えるのですが、その部分はこうなっています。

純一は拊石(=漱石)の物などは、多少興味を持って読んだことがあるが、鷗村(=鷗外)の物では、アンデルセンの飜訳だけを見て、こんなつまらない作を、よくも暇潰しに訳したものだと思ったきり、この人に対して何の興味をも持っていない

 自分を笑える男の人って、素敵だなと思います。

 純一の交友関係について続けると、『三四郎』の広田先生(漱石自身がモデル)にあたるのは、作家の大石路花(正宗白鳥がモデル)。純一は大石に憧れて上京するのですが、教師である広田先生とは違い、大石は、ためになりそうなことを語ったりはしません。大石の振る舞いを見て、純一が「これが作家ってやつなのか」と感慨にふけるだけです。教養小説には、人生について熱く語る導師のような人がよく登場しますが、現実の世界ではあまりなさそうなので(同世代で熱く語り合うことはあっても)、純一と大石の関係性には、リアリティーを感じました。
 『三四郎』の野々宮=先輩にあたるのが、大村荘之助です。木下杢太郎がモデルだそうですが、後に歴史小説の中で語られる鷗外自身の思想や人生観が大村の口を借りて語られます。大村の、のんびりした雰囲気なのに、核心を突いたことを語る描写が魅力的で、木下杢太郎の作品を読みたくなりました。また、大村はなぜか純一を気に入るのですが、それについては、

この時ふと同性の愛ということが頭に浮んだ。人の心には底の知れない暗黒の堺がある。不断一段自分より上のものにばかり交るのを喜んでいる自分が、ふいとこの青年に逢ってから、余所の交を疎んじて、ここへばかり来る。不断講釈めいた談話を尤も嫌って、そう云う談話の聞き手を求めることは屑としない自分が、この青年の為めには饒舌して忌むことを知らない。自分はhomosexuelではない積りだが、尋常の人間にも、心のどこかにそんな萌芽が潜んでいるのではあるまいかということが、一寸頭に浮んだ。

 大村自身がこう考えています。漱石の登場人物達とは違い、自分達の関係性に自覚的なわけです。

 大石も大村も純一を気に入るので、純一は可愛げがあるのでしょうね。現実の世界でも、年上の男性に好かれる男性は女性にも人気があると思うので、純一が女性にモテるのもわかります。


 『三四郎』に比べて『青年』の方が優れていると感じるのは、女性達の描き方です。純一と年が近い娘が、恋愛未満のほのかな気持ちで相手の気持ちを探り合い、一瞬気をつめる描写など、今でもリアルに感じられるのではないでしょうか。
 純一と年上の未亡人の関係も。彼女も、『三四郎』の美禰子と同じように、少し人工的に感じられる人なのですが、彼女の媚態や思わせぶりな態度は、美禰子とは違って読んでいて不自然な感じがしません。純一の方も、彼女の意図を理解しながら、それに絡み取られるのか、抵抗するのか…。

 純一と未亡人は、今の有楽町マリオンの近くにあった有楽座という日本初の洋風劇場で出会います。1909年に鷗外の翻訳でイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演した時の話という設定になっています。先日、谷崎潤一郎が当時の演劇界について書いている文章を読んだのですが、文学者と俳優、歌舞伎界の人達まで一緒になって、日本の演劇界に新しい時代を切り拓くのだという熱気がすごかったようです。谷崎自身もまだ世に出る前の身で、純一と同じように『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を観劇したのだとか。
 『青年』が明治期の文学青年の生活を忠実に再現していることがわかるエピソードでした。


谷崎潤一郎の随筆。明治期の文学青年の生活がよくわかります。文壇史としても面白い。


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