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文豪の性的生活 森鷗外『ヰタ・セクスアリス』 【読書感想文】

 『ヰタ・セクスアリス』は、1909年に発表された小説です。タイトルはラテン語で性欲的生活の意味。幼児期から青年期にかけて、どんな風に性や性欲と向き合ってきたのかを語る作品となっています。
 一応、哲学者・金井湛が主人公ということになっていますが、『半日』や『魔睡』以上に自伝的要素の強い作品と言えそうです。例えば、明六社で有名な西周宅に下宿した話が、この小説では東先生の家に下宿となっている等、鷗外自身、自分の話であることを隠そうとしていません。 


 小説の冒頭には、金井博士が性欲をテーマとした作品を書こうと思った理由が書かれています。ーー当時、文壇では自然主義文学が流行していました。博士は、自然主義文学があらゆるものを性欲に結びつけていると感じ、そのことに違和感を抱いたようです。また、性欲絡みの事件が大々的に取り上げられる風潮や、哲学入門に書かれていた「全ての芸術は、性欲を大衆に向けて発揮したものだ」という意見にも疑問を感じていました。
 そこで、性欲が人の生涯にどんな順序で発現して、人の生涯にどれだけ関係するのかを、自分をモデルにして書いてみようと思い立った、というのが一つ。
 もう一つは、今年高校を卒業する長男のために、自分の経験が性教育の教材になるのではないかと考えたためです。


 そんな動機で書かれているので、性や性欲との向き合い方を語るといっても、性描写などは一切ありません。『チャタレイ夫人の恋人』を読んだ時も、「この程度の描写で、昔は発禁になったのか」と驚きましたが、『ヰタ・セクスアリス』はそれ以上です。Wikipediaに、内容よりも、陸軍の軍医総監という鷗外の立場が問題にされたという説が載っていますが、そういうことなんでしょうね。

 金井博士が性的な事項を知った経緯や、性欲とどう向き合ったかといった話は、私自身が同世代の男性達から聞いた話とあまり変わらない気がしました。今はネットのせいで別次元になっていそうですが、それ以前なら、世代を問わず、似たようなことが繰り返されてきたのかもしれません。
 とはいえ、男子寮内での出来事など、語り方が違えば不快な気分になりかねない話もあるのですが、物語と距離を置き、全てを客観的に分析しようとする語り手の姿勢のおかげで、淡々と読み進めることができました。

 それに、性的な話を書くためには、背景の説明も必要になってきます。その背景部分ーー明治期のエリートの卵達がどのようにして教養を身につけ、どのようにして友情を育んでいったのかがわかる、青春小説/教養小説としての側面が非常に興味深く、面白かったです。作家でいえば、夏目漱石や正岡子規から谷崎潤一郎や芥川龍之介ぐらいまでは、似たような青春時代を送ったのではないでしょうか(例えば、寮のルームメイトが生涯の親友になるというパターンは、芥川も同じです)。その時期の作家に興味のある方にも読んでいただきたい作品です。


 この小説にリアリティーを感じることができるかどうかは、読み手側の性質によるかと思います。「如何に性と向き合ったか」というよりは、「如何に禁欲を貫いたか」という話の方が多いので。常に性欲と共に生きている人は、この小説を嘘っぽいと感じるかもしれません。

 でも、少し前に、ネットで村上春樹さんの小説が苦手な方の文章をいくつか読んだのですが、「性的な場面が多すぎる」という意見が散見されました。その方達は、何も上品ぶってそう書いているわけではなく、金井博士=鷗外と同様に、なぜ全てを性に結びつけるのだ? と感じてしまうのだと思います。そういう方々には、この小説はリアリティーのある話に思える筈です。
 性=人生とは考えず、だからといって、性的なものを無視したり、憎んだりするわけでもなく(夏目漱石には、多少こちらの傾向がある気がします)。性的なことだけでなく、全ての面で常に客観的であろうとする鷗外の姿勢がわかる小説でした。
 


 
 


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