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先祖が森鷗外の小説に登場していたのを知らなかった話 森鷗外『伊澤蘭軒』

 『渋江抽斎』を読み直していた時、登場人物の池田京水という人についてもう少し知りたくなって、ネットで調べました。すると、医学関係のブログに、子孫が書いた自費出版の京水伝記が紹介されていたんですね。子孫の方は、自分の先祖が鷗外の史伝に登場していると知って、その本を書いたのだとか。
 ただし、京水の子孫は『渋江抽斎』ではなく、松本清張が文藝春秋に連載していた鷗外伝を読んで、先祖が鷗外作品に登場しているのを知ったのだそうです。
 清張経由で鷗外の小説について知ったというのが、いかにもという感じ。鷗外、人気なくてかわいそう…。

 そう思っていたら、『渋江抽斎』の続編、『伊澤蘭軒』には、夫の先祖が登場していたのです…。
 夫曰く、ほぼ間違いなく、先祖が鷗外の本に出ているなんて、誰も知らないとのこと。
 これがうちの親戚なら、私と父以外は本を読まないので、誰も知らなくて当然なのですが、夫の親戚は夫以外みんな小説好きで、国文科出身者(複数)や某古書店街の書店勤務者もいるんですよね。
 大学で日本文学を学んだ人や書店員にも敬遠される鷗外…。

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 『伊澤蘭軒』は『渋江抽斎』の続編or前日譚で、登場人物も重なっていますが、前作とは違い、有名人が何人か登場します。ーー蘭軒の文人仲間である狂歌師の大田南畝(蜀山人)、家族ぐるみで付き合いがあった頼山陽を始めとする頼家の人々、そして蘭軒の漢詩の師匠である菅茶山。
 彼らの中で菅茶山だけは名前を知らなかったのですが、鷗外の書き方からすると、百年前には南畝や山陽同様、説明する必要もないレベルの有名人だったみたい。後に読んだ中村真一郎さんの『頼山陽とその時代』にこんな解説がありました。

菅茶山は寛政以後の随一の詩人である。彼の文学史上の位置は、小説の西鶴とか俳諧の芭蕉とか戯曲の近松とかを継ぐものである。  
 遅れて発達した「漢詩」というジャンルは、茶山の出現によってはじめて近代的な意味での「詩」となったといってもいい。

中村真一郎『頼山陽とその時代』

 漢詩が基礎教養だった時期には、松尾芭蕉などと肩を並べる文学者とみなされていたようです。

 さて、菅茶山は蘭軒の師匠であり、同じ福山藩に仕える身でもあるため、『伊澤蘭軒』では準主役的な扱われ方をしています。文化二年(1805年)の茶山の上京時には、茶山と蘭軒、他四人で隅田川に舟を浮かべて花火を見たという風流な話が紹介されていました。
 その時の、他四人のうちの一人が「蠣崎波響」ーーこの人が夫の先祖なのですが、最初に読んだ時には、私はそのことを知らず。
 夫の先祖とは知らないのに、波響の存在自体は知っていたのも、かなり間抜けです。
 何年か前に、息子と二人で函館旅行をした時のこと。幕末史跡探訪&海の幸を食べる旅だったので、函館戦争で旧幕府軍が病院として使用した寺を訪ねたんですね(写真はそのお寺の門)。そのお寺の案内板に、松前藩家老で絵師でもある蠣崎波響の絵を所蔵していると書いてあったのです。家老で絵師って、渡辺崋山と同じだとか、蠣崎は藩主・松前氏の元の苗字だから(『信長の野望』で仕入れた知識)、藩主の親戚かな? などと話したのを覚えています。また、夫の先祖が松前藩の上士だったのは知っていたので、「お父さんの先祖の親戚かも」と言ってみました(家格が重視される時代なので、どこの藩でも上士同士での縁組が多い)。すると、息子が困惑した顔で「この人、画家だよ…」と。その言葉に妙に納得して、それ以上深追いするのをやめました。私も美術は苦手な方ですが、夫はドラえもんが描けない(圧縮ゴミを描いたのかと思った)。

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 蘭軒が波響と会ったのは、文化二年の舟遊びの時だけなのですが、小説には、菅茶山との関連で、以降も波響の話が出てきます。寛政六年(1794年)に京都で知り合い、巨椋池で舟遊びをしたという思い出話、人づてに波響が病気だと知った茶山が波響に捧げる漢詩を作る話。そして、亡くなる直前に作った生涯を振り返る漢詩では、伊澤蘭軒らと共に波響の名前を挙げて、彼らとの思い出は常に胸にあると書いています。
 鷗外の調査によると、二人は寛政六年と文化二年に何度か会っただけなのですが、会った回数は少なくても、漢詩が二人をつないでいたのでしょうね。小説内では、菅茶山の存在感は主人公を凌ぐほどだし、旅行中に見かけた縁で波響にも親しみがあり、二人の関係をベースにnoteの感想文を書こうかな? と考えてネットで調べたところ、日経の北海道版に二人の記事が出ていました。師と仰いだ菅茶山の私塾を描いた波響の絵が見つかったという記事です(2012年6月1日の日経新聞より)。また、国の重文に指定されている茶山の遺品リストには、波響が描いた巨椋池の舟遊びの絵が含まれています。まるで、二人の友情が時を超えたようで…私の好きな「男たちの絆」系の話だなぁと嬉しくなってしまいました。
 で、その時に、松前藩家臣団の系図が載っているサイトをチェックしたところ、波響が夫の直接の先祖と判明した、と。夫は、数代前の先祖が画家だったのは話したはずと主張していますが、ドラえもんを描けない人の先祖が画家なんて話を忘れるわけがないよ。

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 もっとも、夫の先祖は他家の養子になっているので、血筋<家制度だった時期には、波響が自分たちの先祖という意識は薄かったのかもしれません。
 また、幕末によくある話で、松前藩でも御家騒動&佐幕派対勤王派の抗争が起きて、夫の先祖は詰腹を切らされます。その時に、子どもたちは苗字を変えて落ち延びるという悲惨なことになったので、幕末が好きな私も、夫の先祖の話には触れないようにしていたんですよね。幸い、波響は幕末の悲劇とは関係ないですし、そもそも私は部外者なので、今後、菅茶山と波響の関係について調べていければいいなと考えています。

 森鷗外を好きになり、noteに投稿し始めたら、なぜか夫の先祖と出会うことになりましたが…。読書がつないでくれた不思議な縁に思いを馳せつつ、十か月に及んだ森鷗外についての記事を終わりにします。
 読んで下さって、ありがとうございました。

 


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