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2022年前半 読書記録

 noteを始めて五か月経ちました。今年没後百年を迎えた森鷗外の魅力を誰かに伝えたいと思ったのが、noteを始めたきっかけです。
 ポイントをもらうためのレビュー等を別にすれば、人目に触れる場所で文章を書くのは初めてでした。なので、五か月経った今も試行錯誤が続いていますが、誰かに向けて書くことで、小説がより身近なものになった気がします。
 鷗外について書くうちに、ライバル・夏目漱石の小説のことも書きたくなり…。また、noteで未読の小説についての文章を読ませていただくうちに、苦手意識が薄まって手に取ったのが、村上春樹さんの小説でした。
 森鷗外と村上春樹。戦前と戦後の大作家二人の魅力に気付けたことが、2022年前半の大きな収穫です。

 その反面、戦前の日本文学に夢中になるあまり、海外文学を読む時間が減ってしまった…。特に、もう一人の没後百年の作家、プルーストの『失われた時を求めて』を読み直したいと思っていたのに、本を開きさえしませんでした。時間だけではなく、気持ちの余裕や集中力も必要な作品なので、多方面に興味がわいている今は、プルースト日和ではなさそうです。

 そんな2022年前半に読んだ小説を、まとめてみました。noteで取り上げた作品は除きます。

ヘンリー・ジェイムズ『ロドリック・ハドソン
『ヘンリー・ジェイムズ傑作選』

 これまでにジェイムズの有名作をいくつか読んできましたが、その割に印象の薄い作家でした。読んでいる最中はそこそこ楽しめるのですが、筋らしい筋がほぼなく、何か事件が起きるわけでもないので、終わった後で「こんなどうでもいい心理描写を延々と読まされていたのか」と感じてしまうのです。夏目漱石の『明暗』を読んだ後の感想と似ています(『明暗』が好きな方は、ジェイムズにはまるかも)。
 でも、『ロドリック・ハドソン』と短編集は、初期〜中期の作品だからなのか、そこまで心理描写ばかりというわけでもなく、楽しく読むことができました。この路線を続けていたら、モームのようなベストセラー作家になっていたかもしれないなーと感じました。そうはならずに、モダニズム文学の先駆者と呼ばれる、小難しいイメージの作家になるわけですが。

大岡昇平『天誅組』

 幕末に起きた武力クーデター、天誅組の変を描く歴史小説です。作者の大岡昇平は、森鷗外の歴史小説を調査不足で視点に偏りがあると批判しているだけあって、自分の小説では、綿密な調査と考証を行なっています。実地調査し、学術論文を読み込み、研究者にも助言を仰いで。日本史の論文が十本ぐらい書けそうな研究量です。ただ、天誅組の変について書く筈が、途中で力尽き、ほぼ決起前で話が終わっているのが残念。全てに目を配って歴史小説を書くのはそれだけ大変なことなのでしょう。もっとも、未完に近い形でも、それぞれに思いを抱き、命を散らした志士達の軌跡がよくわかり、天誅組の実像に一歩近づけました。幕末に興味がある方、特に敗れ去った人達に思い入れがある方にはおすすめの作品です。

マイクル・コナリー『素晴らしき世界』
『鬼火』『警告』

 コナリーは、これまでに三十四冊が翻訳されているアメリカのミステリ作家です。ここ何冊か、英語の訓練のために原作で読んでいたのですが、英語圏にはしばらく行けそうもないので諦めて、Amazonのセール時に未読分をまとめて購入しました。
 デビューから三十年経っても作品の質が落ちないコナリーですが、特に『警告』は、DNAデータの商業化にまつわる問題点を照らし出した佳作でした。これ一作でも読める作品なので、DNAや個人情報問題に興味がある方はぜひ読んでみてください。

吉村昭『敵討』

 森鷗外の『護持院原の敵討』が面白かったので、同じテーマの短編集を読んでみました。
 吉村昭さんは、影響を受けた作家に鷗外を挙げているだけあって、客観的な筆致がよく似ています。
 二作収録されているうち、「敵討」という短編は、鷗外の小説と似た始まりなのに、途中で、実は発端となる殺人の裏に江戸幕府の中枢にかかわる秘密が隠されていたという、予想外の話が展開されることに(吉村さんによる綿密な考証がなされている実話です)。事実は小説より奇なりという言葉そのままの作品でした。

 「最後の仇討」の方は、明治になってから果たされた最後の仇討を書いた作品です。敵討が合法だった江戸期とは違い、明治期には殺人として裁かれる犯罪になるのですが、法は変わっても、人の心はすぐには変えられないのがわかる作品でした。また、きっかけになる殺人が、幕末期の権力争いに端を発しており、社会が変わろうとする時なのに、旧態依然とした派閥争いを繰り広げていた藩もあったのだなあと呆れてしまいました(むしろ、そんな藩の方が多かったのか?)。

中村真一郎『頼山陽とその時代』

 江戸時代後期の儒学者や文人について書かれた史伝小説です。森鷗外が書いた史伝を読むまで、日本人が漢詩を作っていたなんて、考えたこともなかったのですが、そう言われれば、幕末の志士達も漢詩を作ったり、他人の漢詩を吟じたりしているんですよね。
 明治期になってからも、夏目漱石は中国人も認めるレベルの漢詩を書いたようですし、ある時期までは、教養の一つだったのだと気付かされました。
 中村真一郎さんは、漢詩が基礎教養だった最後の世代なのかもしれません(1918年生まれ。福永武彦さんの同級生。福永さんの息子さんである池澤夏樹さんが選んだ日本文学全集には漢詩が載っていないので、その間に断絶があるようです)。
 今更漢文を勉強する気もないのですが、中村さんによる漢詩の翻案を読んで、かつて日本にあった豊かな文化を少しだけ味わうことができました。本家の『失われた時を求めて』は読めませんでしたが、森鷗外の『渋江抽斎』と中村さんのこの本が私にとっての「失われた時を求めて」だったのかなと思っています。

J.M.クッツェー『恥辱』

 1999年のブッカー賞受賞作(四年後にノーベル賞も受賞)。Amazonの欲しいものリストに十数年入れていた本です。その間に時代が変わり、冒頭で書かれる大学でのセクハラ事件の扱われようなどは、今の若い人が読めば腹立たしく感じるかもしれません。
 もっと古い小説だと時代が違うとわかるけど、現代小説として読めるのに、価値観等が今とは大幅に違う時期の小説って、結構難しい…。
 そこを割り切って読み進むと、舞台が東京であっても違和感のない都会的な世界が途中で一転して暴力に満ちた世界に変わる様に、この作品が南アフリカを舞台にしているのだと改めて気付かされました。
 ニール・ブロムカンプ監督のSF映画《第九地区》を思い出しました。あの映画も、ハリウッドの娯楽映画っぽく始まるのに、まるで違う展開になります。南アフリカという地に根付いた作品なのだと感じたものです(クッツェー同様、ブロムカンプ監督も南ア出身)。
 翻訳者の鴻巣友季子さんは、『恥辱』とカフカの『審判』のつながりを指摘しておられます。テーマ的には確かにその通りなのですが、世界観としては、フォークナーの作品を思い起こしました。過去に縛られる人達。強迫観念とも化した過去の記憶。ただ、作品全体がいびつに歪んでいるように思えるフォークナーの小説とは違い、『恥辱』では、主人公は過去を持たない都会人として描かれているので、その分読みやすかったです。

 
 



 


 


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